9.最悪なスタート
「それにしても、すごいですねぇ。個人のお宅にコレ据え付けしたの、初めてですよ」
耳の奥に、棺桶の設置をしていった技術者の言葉がふいに甦って、部屋の中で一人、亜衣里の頬が弛んだ。
毎日のようにとは言わないけれど、出動と訓練を入れたら週に少なくとも三回は乗っているシンクロイドとはいえ、当然、隊員の数だけ用意されているわけではない。女性隊員でLLサイズを使用している者は亜衣里だけだから、他の隊員とは違い、ほぼ亜衣里専用と化していたけれど、それは単にそうなっているだけで、やはりあの棺桶は亜衣里のものというより職場備品だ。
けれど今、目の前にででんとある箱は、完全に亜衣里の専用なのだ。しかも完全な新品。清潔という観点からではなく、日本人の性状として、新品を使うのは嬉しいものだ。見ているだけでわくわくしてくる。
例えば長期旅行を思い立って、連続して十日も超過するようなシンクロライドをするつもりなら、生命維持に必要な水分と栄養分の補給システムを起動させたりできるそうだ。そんな乗り方もあるとは知らなかった。緩やかであっても生命維持活動は続いているので、酸素濃度の調節や、こればかりは生き物である以上避けられない排泄物対策をきちんとするように、などど事細かく書かれた、かなりのページ数のデータ・マニュアルが添えられていた。
筋肉の衰えの方はどうにもまだ解決策がないらしいのだけれど、そうすればとりあえず衰弱死は避けられる。そりゃそうだ。尊厳死表明をし忘れて植物状態になってしまったら、その状態だって何十年も生きられる。
普段の亜衣里の乗り方では、連続して何日も使うことはあり得ない。ただ、死んだ直後は脳味噌が死んだ反応をしたがるのか、どうしても粗相しがちになるので、宇宙飛行士がそうしているように、亜衣里もパンツ型の紙おむつを着用することにしている。けれど、人間の身体から排出されるのは、それだけではないのだ。汗も出れば、涎だって、涙だって普通に出る。
一回使用する毎に、オートクリーニングと光殺菌で細菌カウント上は問題がないレベルまで綺麗になっているはずではあるけれど、はっきりいって他人と共用するのが嬉しいものではない。
消耗品であるシンクロイド・ボディの一体当たりの値段は知っているが、シンクロイド・システムそものものの値段など考えたこともない。こんなものを部屋に置くということ自体が非日常以外の何者でもない。
棺桶の蓋を開けて、珍しく服のまま乗り込んで横たわる。新品の機械の独特のにおいがする。シンクロライドしたことがない人間には分からないだろうけれど、シンクロライドはアバタロイド・ドライブよりは自身の感覚に非常に近い実感を得られるが、触覚、視覚、聴覚に限定したものしか身体にフィードバックされてこない。嗅覚と味覚は再現してくれない。
実際に生身のままでSPとして現場に入っていたときは、第六感としかいえないような研ぎ澄まされた危険察知能力が、確かにあった。シンクロライドで死にやすいのは、亜衣里が「ナマゴロシ」より「ひと思い」を選んでいるということにも確かにあるだろう。けれど、この嗅覚と味覚がないことで、人間が本来持っている自前のセンサーが鈍ってしまうのも原因の一つだと思う。
危険察知には嗅覚と味覚は、シロウトが考える以上に役立つものだ。
設置が終われば、取りあえず一度トリップしてくるようにと指示されている。向こうは明石標準時ではないから、それさえ気をつけてくれればいいと、これからの上官となる保志総合司法官は言っていた。落ち着いた声と、四十五という年とは思えないほど、モニターに映った表情が若々しかった。三人という少人数でやっていく訓練期間は五年だ。亜衣里は、保志の第一印象が悪かったらその場で断ろうと思っていた。総合司法官というものが、どういうものなのか、はっきりとイメージでつかめているわけではない。一番最初の印象が合うとか、合わないとかいう、そういうものは、理論的では決してない。けれどこの感覚には従っておく方が賢いというのは、危険な職場にいる亜衣里にとって常識以前の基本だった。今までずっと。
もちろん生きるコマである亜衣里には、チームメイトを自分で選べる立場になったことはないから、ただ、「あ、いやだな」と思った相手と組んで、予想通り痛い目に遭うことも当然あった。そんなとき亜衣里は、自分の直感を蔑ろにした自分が悪いと思うことにしている。もっと注意深くしていれば、避けられた事態だったかもしれないのに、と。
新しい洋服があれば着たくなる。新しい拳銃があればぶっ放してみたくなる。買ったばかりの靴は履いて足踏みしたくなる。
亜衣里は棺桶の上に横たわっていると、どうしても乗ってみたくなった。なんでも、向こうの受信器もサイズの関係で新品なのだという。デカイのは呪いでもあるけれど、こうなると、悪いことばっかりではない。
三分の一は、当然、一人の専門家に対して二人がつくものだ。だから、亜衣里と同じ立場で総合司法官修行をしようという人間がもう一人居ることになる。もう一人は男性で、一種司法試験持ちだそうだ。亜衣里は二種しか持っていないから、五年の間に一種をとらなければ、どのみち総合司法官として独立はできない。
最初から、水をあけられているようなものだけれど、現職に愛着がある亜衣里にとって、気にするほどのものでもない。
亜衣里は上半身を起こして座ってから、棺桶から這い出して時計をみた。GMT(グリニッジ標準時)は大体単純に九時間引けばいい。
「何時ごろにトリップすればいいのかな……」
口に出してつぶやく。JST(日本標準時)の十一時は向こうで言うと真夜中の二時。行きますという様な時間ではない。五時間後の七時だと、まだ早すぎるだろうか。こんなとき便利なのがメールだ。
シンクロナイザーの走査器の設置及び設定は完了しました。何時ごろにテストライドすればいいのか、というような問い合わせの短いメールを書いた。
送って数十秒、一分もしないうちに返信が帰って来たことを知らせる着信音が響き、亜衣里は少しビックリした。
『人口密度稀少域特例総合司法官補佐TAI、SELEN4444より返信いたします。二十四時間体制で全てをの受付をしておりますので、お時間に余裕がありましたら、今からでも構いませんのでお越しください。保志総合司法官は、現在執務中で対応可能です。三十分後にもう一方もいらっしゃる予定です。』
きょとんとして、亜衣里は文面を二、三回読み直す。一番最初の疑問はTAIって何だろうということだった。名前の雰囲気から言って、AIの一種だろうか。調べるためにパーソナル・コンピュータを起動させる。調べて分からなかったら、保志総合司法官に聞けばいいし、分かったと思えたとしても、確認しておいた方がいいだろう。
亜衣里は就職して以降、警視庁でずっと生きて、移動の度に新人気分を満喫してきている。受け入れ側はできれば即戦力を望んでいることは分かっている。そして自分が即戦力たり得ないのも分かる。ならば、少なくともかけさせる手間を目減りさせるよう、努力はすべきだと思っているし。もっともシロウトが机上で調べただけのことはアテにはならない。間違って解釈していないかは、押さえておくべきだという常識くらいはあった。
――【TAI】 Thinkable artificial intelligence
目的特化型AIにネットワーク経由でつながり、課せられた目的達成のために独自の判断で利用するデータベースを選定し運用するアルゴリズムのこと。集積された情報を階層化し、また、並列分散処理演算結果の情報を集約し、選択決定の根拠として扱うことが可能。運用においても、入力型、対話型を選択、または同時に利用できる。
利用者の依頼により運用変更可能な領域と、プラグラム的介入がなければ不可変な領域があり――
なんのこっちゃ。亜衣里は、調べるのを挫折した。データベース運用アルゴリズムとやらが、三分の一では上官となる人間の返信を、代理でこなしている、ということなら、返信する手間を機械に代行させているとしか読めない。めっちゃ失礼なやつじゃないのか、今度の上官は。そう思いかけて、さっとその疑いを切り落とした。
チャンスはいつだって、一番最初に来たものを手っとり早くつかむべきだ。実際の保志に会えるのも、もしかしたら、向こう五年間を同僚になるかもしれない人と会える機会が三十分後に転がっているなら、それをトッ捕まえるべきだろう。そして、会った時の直感が近寄るべからずを選んだら、さっさと無かったことにする。迷える時間を最大限に確保するには、まず行動だ。
亜衣里は、三十分後に必ずライドすると宣言すると、身だしなみを整えるべく風呂場に飛び込んだ。
* * *
「二人ともフットワーク、めっちゃ軽い子みたいじゃん。大当たり?」
セレが言うのに、保志はニヤリと笑ってみせた。こういう運のよさには実は保志は自信がある。走査器の設置を向こうの昼間、こっちの夜中にわざと手配したのも、設置完了次第来るように、という指示を出しておいたのも、常識があるかどうかを見るためだ。二人とも、設置報告がシンクロイド・システム業者の設置担当から来て即、ちゃんとメールで設置完了を報告してきた。
それから、何時ごろが都合がいいのかを保志に聞いてきている。ここまでのところで、時差の一つも考えられないボケでないことが証明できたということになる。
もちろん及第点だ。まずまず、幸先いいスタートということで間違いないだろう。
「だな」
セレには短くぶっきらぼうに答えたが、その実、自分が上機嫌なことは間違いなさそうだ。
「それにしても、おまえマトモな敬語、ちゃんと忘れてなかったんだなぁ。感動した」
保志がにやつく。
「だって、オイラはステルス・モードでいけって、ろくちゃんの希望だし」
「ステルスって、大げさな。アホをさらすのにもタイミングがいるって言ってるだけだ」
ステルスとは、ぶっちゃけさまざまなセンサ類からの探知が、されにくい運用ということだ。一応、官舎を宇宙居住可能に維持したり、UNの膨大な過去判例データベースと同期していたり、指名手配犯情報をリアルタイムで更新していたりと、普通のメイン・コンピュータ仕事をしている4444(よんし)と信頼関係を築いてもらうことが先決だ。
ちょっと行き過ぎた感はあるものの、そいつのお茶目さが、単独任務の精神的負担を軽くしてくれていることは、まあ、間違いないのだが、そういうSELEN4444の三分の一の側面を、最初からネタバレする必要も感じない。
このTAIの三つの側面。一番分かりやすい官舎のメイン、つまりホストコンピュータという側面。助手であり、パートナーであり、簡単便利な自律型コンピュータであるという側面。それから、残りの一面である犯罪者と直接対決するために、武器であり防具であり移動手段でもある飛閃。やつの存在を知らせるのは、何事もなければ、もっとずっと後のお楽しみでいい。一度に何もかも知っても、混乱するだけだ。
保志の前任者は、普通の戦闘機のような高速移動艇を使っていた。あれでもよかったのだが、保志のセンサーに先に飛閃がひっかかってきたのだから仕方ない。これもご縁だ。間違いなく、町から町への移動手段としては、あちらのほうが使い勝手がいいと思われる。
日本語伝統の五十音順名簿なら、高確率で一番のはずの相澤が、無事司法試験一種持ちになって、多分この管区では初の女性総合司法官になるのか。セレが、どういう理由で選んだのか聞いてないが、多分膨大なデータベースの中から、これと決めてくれた迫神という青年がなるのか。
それとも、二人ともこの職業に魅力を感じてくれずに、また違う志願者と付き合うことになるのか。
若しくは、他区域の三分の一プログラムで二名以上後継者が育っていたならば、その人にイットルビアの特性を簡単に引き継ぎすることになるのか。
未来はまだ全く見えてこないけれど、次に着任する総合司法官が、飛閃やセレを要らないといえば、4444には、自分の分身を使い続ける権利はない。彼らに本当の意味での自主自尊の魂があると保証できたとしても、人権尊重順位は4444でさえ低い。できるだけ、セレや飛閃が居てくれて、心の底から「助かった」と思える局面で、伝家の宝刀よろしくひっぱり出して、サプライズをかませたいのだ。相棒が疑似人格を演じているのか、本当にそのようなものを持っているのかは判断できないとして、自分の退官とともに、永遠に消去されるのは、何だかしっくりこないのだ。
彼らは、経年劣化も当然する機械だから廃棄限度年数は決まっているだろう。セレ(や飛閃に至っては、本体(4444)と違って耐久消費財扱いだ。けれど、イヌネコの寿命なんかより遥かに長持ちするはずだ。自分が退官するからといって、スクラップにするには、まだ早すぎる。
――でも、そんなことをセレにいったら、またアイツが調子をこくからな。
保志は毛髪の分け目をちょいちょいと掻いて、中央モニターに表示されている時間をちらりと見た。連中が来るまで、あと十五分。
* * *
走査器に入るのは初めてではないけれど、行き先が地球より外というのは経験がない。迫神平和は、少しだけ緊張しているのを感じていた。服装も少し考えたが、無難にグレーのスーツを選んだ。普段は上に法服を羽織ってしまうので、色や柄の出方を気にしたりしないのだが、もう一人の三分の一トライヤーが二十代の女性だというので、ちょっとだけ柄にもなく迫神は悩もうと思って、結局やめた。
総合司法官は単独任務だ。そもそも人口自体が稀少なのだから、事案が少ないのかもしれないが、万が一凶悪事件が発生したとき、その初動捜査に当たるのも職掌範囲と聞いている。そんな超絶危険な職務を希望するというだけで普通の女の子のはずがない。
迫神が様々な国の高い山に登るのにシンクロライドするのは、別に彼の特別な嗜好というわけでもない。飲んだり、食ったり、排泄したりしない登山者で、遭難したとしても別に救助の必要がないシンクロ・クライマーは、登山客を受け入れる側としては有り難い。登山者が下山しきれずに途中でシンクロイドから降りてしまっても、転送機とリンクさえ切れなければ、AIコントロールに切り換えれば、自力で下山してきてくれる。
もちろん、そんなもので最高峰を極めたとしても満足感はニセモノにすぎないかもしれない。しかし、山しか観光資源がない国で、山という偉大な自然環境を美しいままに保持していくために、シンクロ・クライマーはありがたい資金源になる。だから世界じゅうの自然保護区にある高山は、生身の登山家の受け入れは、厳しく入山人数を制限しつつ、シンクロ・クライマーの枠は多めに設定してあるところか殆どだ。
基本、高山というのは僻地にあるから、普通の登山愛好家が週末に行けるようなロケーションにはない。が、ベース・キャンプにあるシンクロイドに乗るところからスタートすれば、もっと身近なものになる。そんなこんなで、著名な山のシンクロイド・クライムは、マニアレベルにある登山愛好家には、宇宙の彼方にある町に観光にいく人間のシンクロライドだの、アバタロイド・ドライブよりは、かなり一般的な方法だ。
ベースから歩いて登り、頂点を極めて、ベースに戻って来る。途中で栄養分補給と休養のためにシンクロイドの安全を確保してから自分の身体に戻るのだから、食料や水を持って登らないとはいえ、テントやシュラフといった装備、ザイルやピッケルといった道具、当然に自前の体力と、なかなかそう簡単なものではない。逆に死なないからと無理なアタックをすれば、前にも後にも進めない状況に簡単に陥る。金が掛かる割に、安直だとか、普通の登山よりは味気ないと傍目には思われるかもしれないが、なかなかどうして、あれでいて奥が深いものだ。
独身の迫神は独身者用のそこそこにコンパクトな官舎に住んでいる。彼が今まで寝室にあてていた部屋のど真ん中に、インパクトたっぷりな外観の箱が陣取っている。普段、ベッドではなく布団を使っていたのだが、まあ独身男の不精さで敷きっぱなしなことも多く、プチ万年床と化していた煎餅蒲団の代りに、四畳半のすり切れた畳の間に、金属製の棺桶が鎮座している。なかなかにシュールな光景だ。
シンクロイド走査器を棺桶と呼ぶのは、非常に的を射た表現だと迫神はつくづく思った。形といい、色といい、まさにそのもの。
蓋に十字架でも描けば、ドラキュラが寝てたってだれも驚かないだろう。シンクロイドが壊れるようなことをしても、本当の意味で死ぬことはないのだが、入っているときはこっちの身体は死んでいるようなものだ。死んでるような人間を納めるから棺桶。捻りがないと言ってしまえばそれまでだが。
シンクロライドしたときに、こちらで着用していたものが形状だけコピーされるのは、だれもいない場所に転送されるわけではないので、向こうで活動開始するときに裸で始めるわけにはいかないという、社会的必要から発想された御座成りの対策にすぎない。迫神が山に登るときは、保温などの必要から、登山装備一式を現地でレンタルして着込むことになる。スーツ姿で、これに横たわるのは、何だか妙な気分だった。
シンクロ・トリップをコーディネートしている会社が経営するいわゆる「トリップ・ポート」は、棺桶というよりカプセルホテルか、地下墓所のように、壁一面に埋め込まれるような形で設置されている。一日旅行にいくような手荷物を持って出掛けていき、大体が下着の上下か、上はTシャツ程度の軽装で走査器に乗り込むのだ。今迫神が横たわったばかりの、蓋があって床置きされているという形のものが、多分一番最初にこのシステムができた時の形状に近いのだろう。棺桶というニックネームになるほどと改めて頷けた。
――走査を開始する場合は、蓋を閉めてください。
耳元でロボット・ボイスがささやく。普段は「扉をしめろ」と言われるのに、と、どうでもいいところに引っ掛かりながら、迫神は持っていたリモコンのスタートスイッチを押し込んだ。蓋が機械動作音を立てながら本体に覆い被さって来るのを感じながら、迫神は目を閉じた。闇がやってきて、それからスキャナが動き始めるのが分かる。ふと、意識が分解されるような、あの妙な気分がやってきて、それから例の無味無臭の感覚がやってくる。
においや味というのに、常に人間がさらされているのだと気付くのは、それが奪われた瞬間からだ。
人間というものは、においや味を感じた瞬間はそれを認識するのに、同じにおいの中にあるにも関わらず、それをすぐ意識しなくなる。だから、においがないことにも、すぐに慣れる。けれどその無臭の世界に来た瞬間は、自分がにおいというものを一切感じない状態になったことが分かる。人間一人分の情報を全部走査して、それを転送して、転送先でシンクロイドの可変筐体が自分の形を再現するのに、それ相応の時間がかかっているはずなのに、感覚としては授業中などに、ちょっとウトウトしてしまったという、あれに一番近い。覚醒を認識することで、寝ていたのだと気が付く、僅かな時間の、意識の喪失。
――扉が開きます。御注意ください。
耳元でロボット・ボイスが再び囁いた時、迫神はもうちょっと注意深くしているべきであった。声が「蓋」ではなく、「扉」と表現したことに。
迫神が認識するところの「蓋」が開いたとき、迫神の意識としては彼自身は横たわっている状態であった。しかし、保志の総合官舎にある棺桶ルームは縦置き状態で壁に収納されている。きっちり九十度、迫神の脳味噌は認識を誤ったまま、身を起こしたことになる。
ということは、立っている状態のまま、迫神は扉が開いたとたん、思いきりよくお辞儀をしたことになる。運動エネルギーが持つ慣性の法則と、当然設けられている人工重力の床方面にモノを引き寄せる力の作用の相乗効果で、迫神は顔から地面に向かって倒れていった。
その倒れていくまさに目の前で、迫神が独身寮の寝室で潜り込んだ、棺桶そのものの形状をした受信器の蓋が開いたところだった。
それはもちろん、規格サイズ外の亜衣里用に、急遽搬入されたばかりの棺桶である。そしてそれは、取りあえず受信器同士で並べておこうかという、深く考えたわけでもない保志の判断で、迫神が到着した受信器の扉の前に置かれていたのだった。
迫神が到着するのが、もう少し早ければ、彼の頭は亜衣里の棺桶の蓋に激突していたに違いない。そして、もうちょっと遅ければ、空になった棺桶に頭から突っ込んだだけで済んだだろう。
何という偶然か。もしかしたら、こういうタイミングのことを人間は運命と呼ぶのかもしれないが、迫神の頭は、全く本人の意志とかかわりなく、到着したばかりの亜衣里の、形よく膨らんだ胸目掛けて落下した。
あの日の相澤亜衣里は、宇宙の彼方に行けるという高揚感で、まっとうな判断力が落ちていたに違いない。いつものように、当然、シンクロイド受信器は、出動服を着込むための更衣室に直結しているという確信に露ほどの疑問も挟まる余地はなかった。
訓練やミッションでイヤというほどやっているように、シャワーを浴びてこざっぱりして――もちろん、突入のときにはシャワーを浴びる暇などないが――上にはブラジャー着けて、下には使い捨てのおむつを履いて、そういう格好で化粧だけして棺桶入りしている。彼女にとって、棺桶に入ることは、迫神がそうするよりも、はるかに行動のルーティーンが確立されている日常の行為だ。
亜衣里は棺桶の蓋が開いていくのを認識していた。中途半端に立つと頭をぶつけるので、完全に開いてから上体を起こすように、フルオープンになる瞬間を待っていた。そうして動作音が止まったのを認識して、さて、服を着ようと思ったとき、上から何かが降ってきた。胸が一瞬詰まるほどの衝撃を受けたときも、だから亜衣里には何事が起こったのかを把握できるものではなかった。
が、その直後、見知らぬ男の頭が、下着しか着けていない自分の胸の上にあることを認識して……。
彼女自身、かつて覚えがない種類の実に女の子らしい可愛らしい悲鳴――SATのアタッカー、怖いもの知らずのあいあいの同僚が、いまだかつて聞いたことがない――が、彼女の口からけたたましく発せられたのだった。