8.飛び込む前には心の準備
保志美耶子は、自分の都合だけをまくしたてる芸能人の言いぐさを、終始にこやかな笑顔と、ときには同情あふれた表情と合いの手を入れて聞きながら、この時間が早く終ることを心の底から願いつづけていた。あなたの話しは、最大限漏らさず聞いていますという雰囲気を漂わせつつ、細部の矛盾に突っ込んでいる自分を抑えつけているのには、なかなか根性と気合がいる。芸能人が帰っても、しばらく張り付いた笑顔はこわばったままだった。肩がどどんと重くなった。
毛は出さないからとヌード写真集に同意したのに、バッチリ写っていた。キャッチコピーが、『四十の熟れたカラダ』とされてしまって、年齢を出されて精神的打撃を受けたと、そういう趣旨なのだ。
が、だいたい、幾らアンチエイジングのお世話になっているからといっても、四十面さげて脱ぐという感覚がいま一つ分からないし、好きでもない相手に見せて金を取ろうという、根性そのものが気に入らない。自分と同い年の四十五なんだから、五つもサバを読んでもらって「ありがとう」だろうがと思うと、馬鹿馬鹿しくなってくる。
大体話の流れでエピソードがころころ変わって終始一貫していないところが、地雷持ちだ。半分以上は自分で作った話を語るうちにホンキでそう思っている、事実捏造型、思い込み度強烈なあげく、記憶力が悪いから同じ話を繰り返すだけのこともできない。ついでに加齢現象の弊害ではなく、もともと聞く耳持たない型だろう。聞いての相槌ならご機嫌だけれど、若干でも、疑問をほのめかそうものなら、とたんにこめかみがひきつるのだから、処置無しだ。
ついでにヒステリー持ちということは、仕事でなければ付き合いたくもない人種の筆頭だ。綿密な事前打ち合わせをしても、公判で裏切られる覚悟をしとかなきゃいけない。大体が、訴訟自体がやらせなのだ。昼間の主婦向け芸能ネタ情報番組で、訴訟になっていることを取り上げられて、法廷前で直撃インタビューでも受ければ、四十五のハダカ写真集だって、二、三十部は余分に売れるだろうと、そういうことだ。
馬鹿馬鹿しい。勝ちにも負けにも結局は興味がないのだ。基本的に訴訟にすることが目的なんだから、これはもうかかった費用の確定申告は、広告宣伝費にするべきなんだろう。
まあ、負けたところで売り上げが伸びれば勝ちなんだろうから、こういう事案は逆に気楽だ。これから売ろうとしている女の子とか、清純派で売ってきたのにとかいうような、何がなんでも勝たせないと拙いものとは難しさが違う。
「先生、強烈でしたねぇ。お受けになるんですか?」
「まあね。楽にやらせてもらえるからね。どう? お金は多分ばっちりいただけるから、桐谷くんがメインで担当してみる?」
「えーっ、あのおばさんのですか?」
軽口を叩きながら、長身の桐谷がすいっと美耶子の目の前にマグカップを置いた。熱々の香り立つコーヒーに、半分以上冷たい牛乳をぶち込んで、なまぬるいのを超絶でかいそいつで呷るのが、猫舌の美耶子の好みなのだ。
もちろん、聴き取りという芸能人のおもてなしをしている間は、ちんまりとソーサー付きデミカップで我慢している。がぶ飲みがおしゃれに映らないことぐらい承知している。
自分は芸能人ではないが、実績以上にクライアントの口コミが何よりものコマーシャルだと承知しているからこそ、こういう演出は必要なのだ。オフィスのインテリアにだって、めちゃくちゃ気づかっている。
事務で専用に雇っている女の子よりマメに気が利く桐谷良は、長身の美青年でホストのような見てくれだ。実際の年齢も息子ほどの年ごろだし、夫が不在な美耶子がツバメちゃんとして彼を利用していると噂があるのも知っている。まあ、桐谷に迫られたら、考えないでもないが、どうせこの年頃の若者には、女からの攻撃をうまく捌いて、ついでとばかりに倍返しにして来るほどのテクは期待できないだろう。自分は保志で十分満足している。
桐谷は、ガッツリ一種司法試験持ちで、自分のような「売れてる弁護士」志望という、アグレッシブな青年だ。気が利いて使い勝手がいいから侍らせているだけで、残念ながら夜の一戦はしたことがない。
がっつりと自分にくっついて来れば、ノウハウだけでなく、後々のクライアント開拓につながるという確信から、自分のご機嫌取りにまずスキルを磨くところなんか、なかなかに割り切っていて、逆に下手な正義感をかざすボケ茄子より気持ちがいい。イソ弁(いそうろう弁護士)は流行遅れと言う人もいるが、なんだかんだいって、直接によい徒弟関係を築いたもの勝ち、こういうやつが、最終的に一番強い。
芸能人御用達、守銭奴弁護士が顔で選んだと陰口を叩かれているのは知っているが、実のところ桐谷は本当の意味での正義をかざすことも知っている。その正義には多面性もあれば、幅もあるとわきまえてもいる。それは、しゃべっている中でわかる。真っ当な正義感と、建前の正義を上手に使い分けることも、損益勘定で動くことも普通にできるベストミックス。本当に、四角四面で、ど真面目な旦那に見習わせたい人材ではある。
事務の女の子は時間がきたらさっさと帰るが、桐谷は絶対にそんなことはしない。美耶子が荷物をまとめるまでどころか、二十四時間、いつ何どき呼ばれても同行できる様に構えている。
電話が鳴ってきっちり三コール待ってから桐谷が受話器を上げた。向こうは三呼吸あれば切ることもできるし、少しは逸っている気持ちも落ちつけられる。これがメーカーのクレーム窓口やら、通販のコールセンターなら、一コール半までには取らないと話にならないだろうが、うちは弁護士事務所なのだ。
もっとも、四コール以上だと、上客を逃すかもしれない。そう、最初に美耶子が言ったあと、他に手が取られていなければ、三コールを忠実に守る。人の話を聞ける上に、記憶力もあって、実行するだけのマメさもあるということだ。
「はい、少々お待ちいただけますか。先生にご都合を聞いてみます」
保留音が流れると、ちょっと途方にくれたような声で桐谷が言った。
「迫神さんって方からの架電です。多分、迫神判事なんじゃないかと。同姓同名の他人にしちゃ、同じ声だし……。その迫神からなんですが……。その、拙いんじゃないですかね? その向こうが。……取り次ぎますか?」
「へ? 半六判事から? なんで弁護士にコンタクト取って来るのよ……。不祥事でもやらかしたって、聞きたいけど、あの人に限ってそれはないわよねぇ。……今は、たしかに半六判事とかするような事案もないと思うんだけど。何考えてるのかしら」
と、そこまでいって、美耶子はトンと左掌に右拳をガッテンさせた。
「はは、なぁ……る。多分、アレだわ。出るわ」
美耶子が手を伸ばすと、桐谷が保留音が流れる子機を持ってやってきた。
「お電話替わりました。保志美耶子でございます。弁護士に御用ですか、保志の家内としての私に御用ですか?」
電話の向こうで、迫神が息をのむのが分かった。あの常に冷静沈着な男がと思うと、美耶子はなんだかおかしい。ついつい、くくくっと笑い声がもれた。
「どうやら、図星だったようですわね。迫神裁判官。それにしても、あなたほどの人が、何を好きこのんで、三分の一に志願なんかなさってましたの?」
――保志先生には敵いませんね。どうして、お分かりになるんですか?
いつものにこりともしない迫神裁判官のイメージが粉々に打ち砕かれるかのように、柔らかい声音だった。美耶子は、その思いがけない柔らかさに、うっかり「知りたいお化け」に取りつかれてしまった。
「迫神裁判官、弁護士の保志美耶子としてならお話することは何もありませんけど、バッパー保志のリサーチがご希望なら、ディナー・デート一回で買収されてあげてもよろしくてよ」
電話の向こうで、迫神が笑い声を立てるのか分かった。基本的に同じ法曹界に生きているものではあるが、弁護士は弁護士同士の横繋がりしかなく、裁判官という人種や、検事という人種とは余り交流がない。同期会などで顔を合せても挨拶程度で、不思議と同じ職種を選び取ったものどうしでかたまってしまう。
法服を着て、鹿爪らしい顔をして、失言もほぼなく、時間に厳しく、時代錯誤な勤勉実直を絵で書いたような印象の男。けれど判決はというと、ろうろうとした通る美声でその判断に至った経緯を、過不足なく説明し、若手の癖に突っ込みようもない貫祿でまとめて来るのだ。説諭をはさみこむときの文脈など、人生経験が豊かなはずの自分でさえへへぇとひれ伏したくなるほどの、いい味を出す。東京地裁の若手のエースと、多分弁護士仲間も、傍聴マニアも認めているはずだ。
きっとゆくゆくは最高裁までいくんではないかという噂も高い迫神裁判官だ。裁判官に任官して今年で十年ちょうど。判事補時代も早くから単独審の裁判官を務めていたほどの切れ者だから、順当な出世で「補」が取れたところだ。
半六という渾名は、六法全書の半分ぐらいは諳じているに違いないというところからついたものだ。それぐらい六法に明るいと皆が思っている。
その半六判事と、背中に松が生えてきたような俗な事案ばかりをやっている美耶子が、一緒に食事などをしていると、弁護士である自分はそんなにキツイ世界にはいないけれど、迫神判事は有り難くない立場に立たされるだろう。向こうから断って来ると思いきや、迫神は美耶子が思ってもいなかった返事をした。
「仮装するにしても、行き先は重要ですね。カジュアル・デートが良いですか? それとも、豪勢なものがいいですか?」
美耶子は面白くなってきた。もともと保志なんかに惚れるような粗忽者だ。危ない橋をわたるのは、実は三度のメシより大好きだ。
「迫神裁判官、それをおっしゃるなら、変装でなくて?」
美耶子はそう揚げ足取りをしてからちょっと考えた。美耶子はどっちかというと丼にマグカップの女なのだ。スーツを着て、表情皺に気遣いながら、ン万円のディナーを取るのは本来趣味でない。
「思いっきりカジュアルにしましょう。そっちの方が安全ですもの」
少しだけ逡巡するような間が空いて――向こうも多分、美耶子のそんな提案は、迫神をからかっただけの、ただの言葉の綾で、本当にデートをしようと言い出すなんて思ってもいなかったのだろう――、それからこんな言葉が受話器の向こうから聞こえてきた。
「分かりました。新橋の高架下で引っ掛けましょうか。旨い串焼き屋知ってるんですよ。保志先生の事務所からなら三十分で行けると思いますけど、私はすぐには出られませんので、時間は一時間後以降にしてください。それからでしたら何時でもご都合に合わせますよ」
意外とフットワークいいじゃない。この子。
美耶子はちょっと、法服姿の迫神を思い出してみたが、全然合致してこない。なんだかとても可笑しかった。あの迫神がどこをどう間違えて、何を勘違いしてバッパーなんかを志願したのか分からないけれど、フットワークが軽い青年は好みだ。だるだるしているヤツが一番嫌いな美耶子は受話器を持ったままニヤリと笑った。
「本当に判事が一時間後にこられるか、試してあげるわ。今からきっちり一時間後、新橋駅の烏森口で……」
美耶子は迫神の返事を聞かずに電話を切った。なんとなくウキウキしているのが分かる。桐谷が、また美耶子先生の悪のりが始まったという顔で少し天井の方を見ていたが、突然にっこり笑った。
「先生、俺、ボディーガードごっこしていいですか? 探偵みたいに尾行しますから」
「アフターファイブは好きにしなさい。桐谷君。ただし、半六ちゃんにバレたら来月給与カットだからね。じゃあ、今日はここまで」
美耶子はにっこりと笑って、立ち上がった。そして、事務所にしている部屋の隣にある仮眠もできる私物置き部屋へといそいそと撤収していった。
おデートの前はウキウキする。それが冗談でもなんでもだ。美耶子はきっちりとまとめ上げた髪を洗面台で流してガチガチに固める整髪料を落としてさっぱりさせると、櫛を入れながら少し考える。あの迫神が「仮装」と言うぐらいだから、息子の穣太のような素っ頓狂な格好をしてくるかもしれない。ラッパー野郎というと、「MCと呼んでくれないかな」というような息子だが、法科大学院在学中に司法試験持ちになるとは、見どころがある。
ただの馬鹿ならつける薬もないけれど、やることをやってる馬鹿は好みのタイプだ。自分が惚れるような男を育てるのが育児の成功なら、まあ、自分はそこそ頑張ったと言えるだろう。
何を着ようかさんざん迷って、ただのジーンズと、ちょっと明るいオレンジの風合いが気に入って、穣太から奪い取ったチェックのコットンシャツを下着の上にざっくり羽織る。長い髪をまとめなければ、多分三つはサバを読めるはずだ。
いくら迫神が若くても、息子まではいかない。迫神判事補から「補」が取れたのがこの春だから、本人に聞いたことはないけれど、あれがストレートでないことなどありえないし、日本は他の先進諸国のように、相変わらずスキップを認めていないから、まあ三十二歳、それと誤差、プラスマイナス一歳以内でまず間違いないだろう。
つるつるに塗りたくって、それだけでババア臭くみえてしまう、いつも濃い目に作り上げるメイクをやめて、保志好みのナチュラルモードの化粧にとどめる。
小降りのエナメルのバッグを大きいヘンプのバッグにそのまま突っ込んで斜めにかけると、多分あと二つはサバを読めるに違いない。まちがいなく年より老けて見える迫神と並ぶのに、別に違和感はない筈だ。
ただそれだけだとおしゃれゴコロが足りない気がして、ウッドリングの腕輪を重ねづけしてしゃらしゃら言わせてみた。鏡の中の自分は、多分、いつもの自分より本当の自分に近い。金儲けは、傍で思われるほど楽じゃないのだ。
「美耶子センセ~、かっこいいですねぇ。僕はそういう先生も好きだな」
さらっと厭味のない桐谷の軽口に気がよくなって、多分あと一つは見掛けが若やいだはずだ。その桐谷は、ジャケットを脱いで、タイを外して第三ボタンまで外しただけなのに、ぐっとカジュアルな印象になっている。新橋烏森口で、絶対に目立たないこと間違いない。
美耶子は合格のサインを親指と人指し指で輪っかを作って桐谷に示すと、裸足にパンプスを突っかけて事務所を後にした。桐谷は、きっと全部戸締りをして、マグカップを洗って、明日の段取りまでしてから、新橋に来るだろう。スタート時間と場所が分かっているなら、尾行対象者にべたべた距離を取らないところも、ちゃんと押さえている。
新橋駅烏森口、午後七時半。きょろきょろというのはダサいから、なんとなくを装って周囲を見回すが、迫神のような姿は見えない。改札を出てきてちょっと誰かを捜しているふうなふりを見せてから、文庫本を読みだした桐谷が見つかったぐらいだ。まったく、あの子もよくやる。
と、五分ほど前から、ちょっと距離を開けた並びで、美耶子のように人待ち風にしていた青年が、ちらちらと美耶子を見ている。青年は夫の保志より少し背が高いぐらいだけれど、百八十に近い桐谷ほどの長身ではない。その代わり、しっかり鍛え込んでいる分厚い胸板がTシャツのイラスト越しにでもよく分かる。それから、筋肉の形がきっちり浮き出てた美味しそうな二の腕が、肩までたくし上げたから袖口からすっきりと伸びている。
日本人にはちょっとないほどの鍛え方が見える割に、いわゆるボディビルダーのようなムキムキ感はなくて非常に実用的に作られているイメージだ。
ざっくりと手櫛で乱した様な前髪がちょっと目に悪いのではないかと思われるぐらいが、美耶子の好みに合わないだけで、採点としては九十点を楽に越える感じだ。オバサンとしては、あのウルサイ前髪を櫛でなで上げてみたくなる。
その、青年と目が合ったとき、意外なことに青年の唇がやっぱりというような形に動いた。そうして破顔する。その笑顔のかわいさに美耶子は年甲斐もなく胸がきゅっとなる。
「保志先生……ですよね?」
その声は、何度も聞いたことがある迫神判事の、滑舌のきっちりとした低めの美声だった。
「さ、迫神……さ…?」
美耶子は驚きすぎて声を飲み込んだ。脱ぐといい女というのは聞いたことがあるが、脱ぐといい男というのも存在するのだ。まあ、彼が脱いだのは、あの時代錯誤の上っ張りだけれども。
裁判官と言おうとして、仮面デートだったのだとそれを飲み込んだ。そんな美耶子に気付いて、もう一度迫神が笑った。
――不味い、年甲斐もなく惚れた。
美耶子は冗談事でなく、胸がドキドキしてくるのを感じていた。
さてと、運命の悪戯とは恐ろしいもので、ちょうどそのとき、バッパー、ジョルジォ保志の実績として一粒種である保志穣太が新橋駅改札を通りがかったところだった。普段は生息する若者が少ないここいらは、彼の行動半径外なのだが、その日はたまたま母親、美耶子の事務所に向かうところだったのだ。
いつもそれぞれ勝手に暮らしているけれど、オヤジが帰って来るのかどうかによって、今後の穣太の身の振り方が変わって来る。
オヤジが帰って来るつもりなら、独り暮らししている友達のところにでも転がり込む算段をつけ始めないとならない。オヤジの誕生日の今日、定年延長するのか、それとも退職して帰って来るのか、仕事前にきちんと話し合って来ると、朝方母親が言っていた。
その、話し合いの結論だけ聞くために、飲み会に出掛ける前に母親と話しをしたいと思い立ったのだ。
この時間ならまだどうせいるはずの母親の事務所に寄るほうが、仕事中はプライベートの携帯の画面なんか見もしない母親にメールを打つより断然確実だ。そして、話の勢いによっては、今後のことを真面目に検討しなければならない。
滅多にこないが、母親が事務所を置いているせいで、迷うほど知らない街でもない新橋駅改札を抜けて、勝手知ったる方向に、いつものようにふらふらと、背骨がないような姿勢で歩き始めようとしたとき、目の端に見覚えがある柄のシャツが飛び込んできた。
それは、冷房よけにいいからと、ちょっとまえに美耶子に取り上げられたシャツで、穣太自身、とてもお気に入りだったコットンシャツだ。それを着た母親は、オバサン厚塗りでもなく、オバサン結い髪でもなく、とびきりの若作りをばっちり決め込んでいる。しかも、どうやら誰か捜しているといった雰囲気。
常日頃、家庭を一度も顧みてこなかったオヤジに対する厭味を込めて、浮気の一つもしろ発言を繰り返してきた穣太だったが、そんなのは父親べた惚れの母親だからこそいえる軽口だ。とっさに物陰に隠れててしまったてから、どうして隠れる必要があったのか自問してみる。
と、目の前で、穣太の目から見ても、ちょっといけてるカラダをした兄ちゃんと、話し出したではないか。
――嘘だろ?
穣太は自分の目が何を見ているのか、ちょっと理解が覚束ない。
こそこそ柱の陰になって、おたついてる穣太がいることなど、当然全く気にしていない美耶子が、ちょっとそいつと親しげにしゃべっているだけでも驚きなのに、並んで歩きだした――どころか……。美耶子は青年の逞しげな腕に、その腕を絡めた。
今度こそ穣太の心臓がバクバクいいだした。自分は何を見てしまっているのだろう。美耶子は昨日まで、亭主元気で留守がいいモードで長年やってきた。
宇宙の彼方で元気にバッパーをしていたはずのオヤジが、帰って来るかもしれないと言っていた。煮え切らないことに、定年延長するのか、退職するのか、決めていないオヤジをシメてくると、朝言っていたのではなかったか?
オヤジが現職のみ引退して、地球から近いUNの総合司法局勤めに変えるのか、ちゃんと話し合って来ると言っていたのではなかったか。
それが、新橋駅で若いにーちゃんと、若作りにしてデートって、どういうことなのだろうか。ゲンブツの父親にも懐いていない自信があるのに、その上になさぬ仲の義理の父親が、あんなガキだなんて、どういうこっちゃ。あれなら、オヤジの方が数倍我慢できる気がして来るから不思議だ。
あろうことか、歩き始めた二人の後を、上手い具合に尾行し始めたのは、母親のところにいるイソ弁の桐谷だ。ということは、あの若いのに血道をあげて業務に支障をきたしていて、真相究明に桐谷が乗り出したということなんだろうか。
――もしかして、クライアント?
穣太は一瞬思って、即座に首を振った。だったら、こんなところで、普段メイクでいるわけはない。あの人は美耶子ブランドを安売りはしないだろう。じゃあ、いよいよ本格的な男遊び? ということは、弁護士・保志ではなく、女・美耶子として、新しい男を作ったということだろうか。
母親は、一笑に付して取りあっていなかったが、桐谷は噂通り美耶子のツバメちゃんそのもので、美耶子が新しいツバメを作ろうとしていることで、嫉妬に駆られた桐谷が尾行しているとでも言うのだろうか。
ストーリーとしてなら、後者の方が無理がない。
――パパが三分の一延長するなんて言ったら、今度こそ若い子と浮気するんだからっ。
母親は確かにそう言ってはいた。じゃあ、オヤジは帰って来ない気か? それはそれでめでたいけれど、だからといって、浮気候補もちゃんと物色済とは、オカンやるな……いやいや、納得してどうする?
一人、脳内ジタバタしている穣太を残して、二人と尾行者一人は雑踏に消えた。追いかけようと思ったのだが、何だか穣太は足に力が入らなかった。
柱に背をもたせて、それからズルズルと地面に向かって落ちていった。
「驚いたわ。なんで、そんなに良い身体してるのかしらね」
普段は法服に隠されている、迫神の生の腕。初めて見たその腕の、あまりの素晴らしさに、つい絡めて指先で撫でてみる。とにかく、夫も、息子もこういう彼女好みの腕はしてないのだから、これは触らずにいられようか。拒否されたら、一応デートということになっているのではなかったかとリマインダーを入れてやろうと待ち構えていたのだが、迫神は拒否するでもなく、照れるでもなく飄然としている。
「おばさんは、対象外だからスカしてるの? それとも、女に慣れてるの?」
つい厭味モードになった美耶子に、少し迫神が照れた表情になった。可愛い。
「なれてるってより、僕が通ってる空手道場は女性も多いので、その……女性に触られるのには、あんまり抵抗ないかも」
「迫神さんって空手マンなんだ。意外だわぁ。で、そういうカジュアルな格好もサマになってるけど、プライベートではいつもそうなの?」
「稽古に行ってるときはこんな感じかな。山に行くときは違いますけど」
「山?」
「ええ、裁判官なんてやってると、人の毒に当てられちゃうこともあるんですけどね、それで、いちいちマイナス思考になってると、仕事がらやってられないんで、自然に助けてもらってます」
――ああ、それで半六判事は、いつも揺るがないのだ。
人にふりまわされてないのは、そういう距離のとり方が上手いからなのだ。そう思うと、ますますいい男に見えてくる。
「山ってどんなところに?」
「先月はキリマンジャロに……」
ぶっと、美耶子は噴き出した。冗談だろう。
「あ、嘘じゃないですよ。シンクロライドで行くんです。その……命を危険にさらしたくないとか、そんなんじゃなくて、単にまとまって休暇取れないんで」
ああ。と美耶子は再び納得した。保志のことだから、絶対にそういうところの効率は重視するだろう。シンクロライドに慣れていることが後継候補の重要な条件だったなら、行き先は地球から一歩も出ていなくても、ライディングの回数が多い人間に普通に焦点が当たる。バッパーのリストは、司法試験二種以上であれば登録はできたはずだが、五年のうちに一種を取らないといけないはずだ。三分の一はうまくできている仕組みだとは思うが、人間にはやはりキャパシティというものがある。
仕事を二つ掛け持ちしながら司法試験一種の勉強をするは基本無謀というやつだろう。
「テントの中で眠って、目を覚ますと棺桶で眠ってるでしょう。なんか、凄く変な気分ですけど。日常の隙間に非日常が挟まるのって……、凄く好きなんです」
すこし美耶子は、迫神が何を言っているのか分からなかった。
暫く考えて唐突に理解した。
――あなたほどの人が、何を好きこのんで、三分の一に志願なんかなさってましたの?
一番最初に電話で話したときの、美耶子の最初の質問に対する、これはその答えなのだ。バッパー候補に応募したとき、迫神は多分、宝くじより当たらないと思っていたはずだ。そして、現実問題になった。だから、ここにくるまでの間、フロンティアに自分が行きたいのか、そしてなぜそもそも自分が応募したのかを、迫神は自分なりに考えていたのかもしれない。
もしかしたら彼の中で一番の関心事は宇宙の彼方、ちっぽけな人類が宇宙相手に格闘している現場で、普通に生活をしている人たちの、ささやかな安全を守るということと、あの異常に広い管区を一人や二人でどーにかできるものなのかどうかも悩んでいるに違いない。
それはまさに打診が来たときの、三分の一に選ばれたけれどどうしたいのか過去の自分の決断に戸惑っていたときの、若き日の保志の悩みと同じものだった。そして、あのときの自分は、それにこう答えたのだった。
「実際に行って、自分の目で確かめたらいいわ」
今度は迫神がきょとんとなった。
「応募したんだから、興味があったんでしょう? バッパーという仕事になのか、フロンティアそのものになのか、それは別として。だから、チャンスが来たなら、安全とか安心とか、保志がどんな男なのかとか、そんな安心できる材料をかき集めて、何かに背中を押してもらおうとする前に、やってみようと思った自分を信頼したらどう? 人伝てに千の情報を入れて一杯になるより、行ってみればいいじゃない。三分の一は、まずそういう理念でできてるんだから」
「保志先生……」
迫神が目が覚めたといったような、不思議な表情になる。これは、そう、かつて自分がそう言ったときに保志がしたのと同じ目。男って、本当に度胸がない。
「今日はデートごっこ中でしょう。美耶子って呼んでくれなきゃ、だめ」
そう笑った美耶子を、初めてよく知りもしない女性なのだと認識したのだろう。最初に腕を組んだときには、ちらりとも揺るがなかった表情が崩れて、迫神の頬に朱がはしった。
迫神は小さな声で、こう言った。
「はい、美耶子……先生」
――可愛いっ。
美耶子が全身でそう思ったのは、もちろん言うまでもない。