4.美耶子さんのオーソライズ
保志の現住所は、乗り物というには相当デカく、スペースコロニーと言うにはいささか小規模に過ぎる可動官舎になる。生物一名が住むには根性と慣れが必要な大きさだ。寂寞とした孤独感が、いつでもどこでも満喫できる。(正確には、かつてはできた。)しかも可動というのは実のところ大嘘つきで、常に移動している。疑似重力のための、それでも地球は回っている的な意味でも、中距離型宇宙輸送船という意味でも。移動官舎でいいじゃないか、というのは最初に思ったことだった。今でも、たまに、やっぱり移動だよな、と思うことはある。
もちろん、普段、そこにいる「人間」は保志ぐらいなのだが、珍しく被疑者を現行犯逮捕できたときのための、留置場くらいは一応ある。
民事訴訟が提訴された場合は、いわゆる簡易裁判案件程度なら、オマル……間違った、本庁のホストにリンクしている4444にしこたま溜まっている判例を参考に、さっさと判決を言い渡す。和解であれば立会人として、賠償額としてなら責任をもって金の取り立てをし、懲役なら服役させる。もっともこれは十五年間で一度たりとも経験がない。懲役なら、やっぱり保安官管轄で、人がいるところで人のために働かせるほうがいいに決まってる。一人とTAIでは、軽作業指導なんかまで手が回るわけがない。死刑に値する犯罪の裁判までは、さすがに権利付与されてないから、起こったとしたら手続き的にはカプセルインさせてオルマに送ることになる。
まばらながらも散在している中の最寄りの保安官事務所の刑務所にお引き取りいただいて、そこでキタナイ、キツイ、キケンを網羅した3K仕事案件があれば保安官監督のもと、従事していただく。たまたまそういうのがなければ、そこの保安官事務所にあるシンクロライド・システムだの、モーキャプなんぞを使っていただいて、仕事のある刑務所へ出勤してもらうことになる。
刑事裁判が必要な場合もある。もっとも、ただでさえ稀少な事案発生頻度と、情けないほど低い検挙率の関係で滅多にないのだが。警察官の果たすべき役割として現場検証を行い、立証に足ると保志が信じられるだけの証拠をかき集めて、総合司法庁の刑事部に検察官送致をかける。
不起訴の判定がくだされれば、そこで一件落着にするしかないが、有罪の可能性が濃いとして裁判になった場合がややこしい。
簡易裁判事案であれば、保志自身が裁判官として判決を下すのだが、捜査・立証・逮捕・拘留しているわけだから、当世の主流である当事者主義でいくとすると、検察官・被告人・弁護人のうち、自動的に検察官としての働きが強く要求されることになる。これには疑問の余地もないだろう。
総合司法庁のデータベースに登録されている、国連準拠訴訟法に通じている、つまり第一種司法試験有資格者からランダム抽選で割り当てられた裁判官と弁護人を同じ時間に官舎に付属している法廷に来てもらって、長い裁判に突入する。もちろん、可動官舎には大人数を恒常的に養うだけの食料や水など常備されているわけではないので、これまた近場の保安官さんにお願いして、期日には出廷してもらうのだ。
裁判官サマが面倒がりで、バーチャルだけで構わないといえば、GMT(グリニッジ標準時)できめられた公判期日に、最寄りの三面モニターが完備された法廷室入りしてもらってバーチャル裁判で行われる。なぜに三面モニターかといえば、検察官、被疑者、裁判官、弁護人という四者のうち、自分を除く三者を大写しにするためだ。
直接一堂に会して裁判をしたいと、担当裁判官サマがおっしゃれば、しかも弁護人、裁判官ともに複数体勢でいどまれている事案だったりすれば、近隣保安官事務所備品のシンクロイドをかき集めて対応することになる。
幾ら公費で賄われているとはいえ、シンクロイドの値段を考えると、たかが犯罪者の人権保護にかけるにしては、非常に贅沢にできている。
なんでまた、人間が殆どいないところでさえ、無法をまかり通らせようとする人間がなくならないのだろうか。
いや、もしかすると、人が少ないからこそ、禁忌を犯す誘惑に抗するのが難しいのかもしれない。
とにかく、全くの人類生息圏外ならば法は無力だが、一応、人口密度稀少域とされている場所は、少なくとも辺境であっても法の力のおよぶ範囲、つまり人間社会がある場所としておきたいという要求が民意としてあるのだから総合司法官という、戦える六法全書が求められたのだ。
もっとも、人口過密域に生息する人間には、そんなところが存在していることなど、知らぬことに違いない。
ともあれ、進むも引くも主に精神的事由によりままならず、官舎の廊下で遭難していた保志。
だが突然に、雷で打たれたのではないかと思うぐらいの間違いようのなさで、ゆるぎない思いに気持ちの全てが占領された。
だだっぴろいというわけではないが、各種設備がもれなく詰まった官舎内での移動に、保志は大体いつもは自転車を使っているのだが、それを使うことすら忘れ、走り出した。もちろん、行き先はキッチンである。
美耶子にとって、今回潔く帰宅しないことが、離婚の事由に足るものなら、いいじゃないか。どうせここで暮らす限り、衣食住全ては官給品だ。あいつが気が済む金額にたどり着くまで、今の給料からみて三分の一に目減りした取り分の全部を渡せばいい。
もし、美耶子が俺とのつながりを継続したいし、一緒に過ごす時間が欲しいというなら、とりあえず第一期延長五年でゲットした二人の猫の手を、ちゃかちゃか人手に育てて、今度は自分がシンクロライドして東京に帰ればいいのだ。明石タイムとグリニッジタイムの9時間差は、知恵の絞りようでどうにかなる。
自分は絶対に、四つ裂きにされたままで、あのド阿呆を野放しにして引退なんてしない。後悔を引きずって引退しても、毎日くさくさと鬱屈をため込んで、飲んだくれる余生しか過ごせないだろう。そんな暮らしに入るには、まだ早すぎる。収入なんてそもそも美耶子の足元に及ばないレベルなのだ。
廊下を疾駆しながら、保志の頭の中には、ジョン・ラカム・スタイルの海賊印――あの交差した大腿骨の位置に反り刃のカットラスを交差させた、いけ好かない――が、確かに殲滅させるべき敵の象徴として、燦然と輝いていたのだった。
走って、走って、走って、走った。
勢いでキッチンの扉を開けて、そこに自分の好物のゆで卵と鶏手羽の酢醤油煮を見つけたとたん、保志の心の奥底から、俄か仕立てで滾々(こんこん)と湧き出していた勢いは、みるみるとしぼんだ。
あんなやっかいな女でも、連れ添ったというには些かならず語弊があっても、古女房はまぎれもなく恋女房で……。レトルト基本の自分のために、ちゃんとメシを作ってくれる姿に、保志の強気は一気に萎えた。
「……はは、その顔……。やっぱりなんだ。ホント、つまんないやつ」
美耶子がキッチンの入り口で凍りついた保志を見て、にやっと笑った。
「どうせ……そんなことだろうと思ったわ……」
保志はまだ何も美耶子に言っていない。けれど、美耶子はくるりと保志に背中を向けると、作業を続ける。超絶貴重品のフレッシュ野菜を使ったマリネも既に食卓に並んでいる。いつそんな食材を調達したんだろうか、こいつは。今の気持ちの混乱とはとは全く関係ない、そんな考えが無意味に頭をよぎる。
「その顔じゃあ、ジョリー・ロジャートッ捕まえるまで、延長……ですね。第三リストの三分の一なんてボランティア以下、自分で好んで奴隷の身分に甘んじるほど善人じゃないって言ってたのは、どの口かしらね」
美耶子がくっすりと笑った。
肩すかしを喰らったようで保志は、恐る恐る口にする。
「美耶子さん……なんで…そう?」
「何年付き合ってると思ってるのよ。一応退職のセンも見込んでたんだけど、あなたって結構、根に持つタイプだから」
「根に持つって、何よそれ」
美耶子は保志の悩んだ末の選択を、とうに見越していたような言い方をする。理解が得られるのは、嬉しいんだろう。多分。けれど彼女の手玉にすぎないようで、やっぱりそれはそれで面白くないような……。保志に、どうせどうせといじけモードが入る。
「自分に致死レベルダメージ与えたやつを、身柄確保すらできずにのさばらせてる状態で、素直に引退なんて、まあ、あなたなんかには、基本、到底無理だろうとは思ってたのよ」
「お……怒りますか?」
もう一度美耶子がクルリと半回転した。突き出されたのは拳ではなく、きっちり立った三本指。それを、反対の手の人差し指で一つひとつ指していく。
「第一の条件、第一期定年延長の五年間のみ。第二の条件、ややこしい細かい案件は、全部候補生に押しつけて、ジョリー・ロジャーのやつをちゃんとトッ捕まえることだけに邁進する。第三の条件、ほかの事件にのこのこ首突っ込んで、別の野郎に殺された挙げ句に取り逃がしたりして、引退したくてもできないジレンマ事案を新たに抱え込まない。以上三点。それだけ。呑むというなら……今回だけは、許す」
それだけ言って、美耶子は再度調理台に身体の正面を向けた。
「美耶子さんっ……。愛してる」
保志は、そそくさと、次なる料理のフィニッシュである盛りつけに取りかかろうとした美耶子を、背後から抱きすくめた。持っていた菜箸が飛び、がちゃんと音を立ててボウルが調理台の上に落ちる。
「あー、はいはい、分かった分かった。愛されるのには飽きてますから、もういいって。いい? あ・な・た。ちゃんと覚えておいてね、二度目はありませんから」
「うん、うん。ありがとう。美耶子さん、大好き」
調子のいい言葉を並べて、首といわず、肩といわず、キスの雨を降らせている保志を、ふふんという目で見て、美耶子はいった。
「4444、仕事だから帰るわ。ディスマウント、よろしく」
保志がその腕に抱きしめていた身体から、だらんというか、ガクンというか、ガツンというか、確かに一度、何かが抜けた。直後にビシッと何かが入る。
「ふふ~ん、ろくちゃん、愛してるっ。きっとそう言ってくれると思ったよ」
美耶子がいなくなった脱け殻シンクロイド・ボディを、さっさとセレのやつが乗っ取ったのだろう。幾ら美耶子の容姿をしていても、こいつがセレである以上、キスしたり抱きしめたりする対象では断固有り得ない。
危険物から飛びのくような勢いで、保志はセレから距離をとった。
シンクロイドの可変筐体の表層を変形させるには、棺桶入りが当然必須だが、美耶子の形状のままでも、セレがこれをアバタロイドとして操作するのにはなんの不都合もない。あるとしたら、保志が感じる心理的抵抗感のみだ。
「オマルのホストに、三分の一適用申請送ったよ。今ちゃんと受理されたって戻ってきたから。めっちゃ最速決裁。向こうも、きっとろくちゃんがやめるもんかって思ってンだろうね」
「こ、こらっ。なんで勝手に進める」
「いやだなぁ。気が利くと言ってよ」
美耶子の顔で、息子の声で、たたかれる軽口は、保志の神経を思いきり逆撫でした。気の利いた文句を言ってやろうと、手持ちの語彙を検索している間に、息子の声が言った。
「あ、今、美耶子さんから伝言」
「何?」
美耶子の声になったセレが、美耶子の顔で微笑んだ。
「冷めないうちに、召し上がれ」
保志は、なんだかどっと疲れて、椅子に尻を落とした。