2.緊急家族会議
現場に出張ることが多い保志も、棺桶に入ってスキャンされ、シンクロイドに乗することは多い。
横たわり扉が締り密閉感たっぷりな環境に押し込まれる。それから知覚が自分の本体からのものでなく、シンクロイドからの刺激の方にシフトするまでの瞬間を待つ。そこに至るまでが長ければ長いほど不快を感じるものだ。ペンディング(ちゅうぶらりん)状態は多分、オカルトファン噂に聞くところの、幽体離脱状態に似ているのだろうと保志は思っている。とにかく、あのどっちつかずの状態は、なんとも気持ち悪いのだ。長く置かれるほど腹が立ってくる。それは保志に限ったことではないらしく、シンクロ・スタンバイしてから受信器での精密再生が終了するまで待たしてしまうほど、妻の美耶子の機嫌は、露骨に悪くなる。
これは経験則として疑いようのない事実だ。
データ転送パーセンテージを示す赤ゲージが、一杯にふりきれるまでに、セレ――というよりシンクロナイザー受信装置――が棺桶入りしてなければ、美耶子を必要以上に待たせることになる。
保志が拝命しているのは、人口密度稀少域特例総合司法官(Versatile person only in frontier――日系人はバッパーと呼ぶ)である。人口密度稀少域(フロンティア)に限り、司法警察員、司法巡査、検察官、検察事務官を兼務できる特殊職だ。治安維持活動、犯罪捜査、逮捕勾留と簡易裁判後の拘留までを一括して行うことができる。簡単に言えば、犯罪が起こらないようにする仕事、起こった事件のうち犯人が明確であればそのまま司法手続きにつなぎ、犯人がわからなければ捜査してとっつかまえて裁判に持ち込むまでを幅広くカバーできる。民事レベルの訴訟においては、裁判官も務めることができる。(いや、務めさせられている)
裁判官と警察、検察官を兼務できるというのは、幾ら人が少ないから揉め事も少ない地域だとはいえ、土台無茶な話なのだ。
だから、というか、それで、というか、公正さを保つという名目で、経験値の蓄積による正の効果が、判断力、体力の劣化という負の効果をカバーし切れなくなる年齢が四十五歳と設定され、職種の定年退官日と定めてある。
保志も誕生日である今日を限りにバッパーを退任するのか、後継者を育てるという名目で、給与3分の1という屈辱に耐えてまで単身赴任を継続するのか決めなければならない。身の振り方をぐずぐず保留してきたことで、ここのところ美耶子はそうでなくても十分に不機嫌なのだ。
一粒種のドラ息子が、奇矯なナリをしてシブヤ通り辺りに繰り出して、踊りまくっていたころ、それに心を痛めていた美耶子は、非常に日常的に、精神不安定感全開だった。妻の職業は、金持ち、有名人御用達、テレビでもお馴染み、稼げる美人有名弁護士である。
美耶子は、立ち場上、仕事中は冷静沈着であることに徹底する。だからやっかいなことにストレスは全部、きっちり耳を揃えて家庭内に持ち込まれる。一時期は毎日のように、明石標準時の真夜中十時ごろにいきなりトリップしてきては、延々と愚痴を言う。酒が入った状態で来た日には、泣く、わめく。それに付き合わされてきた保志としては、不機嫌な美耶子の来襲には覚悟がいるのだ。
あれでも親の機嫌を取ったものか、それともあんなふうでも堅実だったということか、外見は全然改める気配は見えないものの、息子の穣太は両親の生息域である法曹界へと続く道を選んで法科大学に進学した。
現在は法科大学院で学んでいて、無事に二種試験もとっている。多分美耶子や保志のように在学中に第一種司法試験チャレンジを始めるのではないかという目処が立って、最近では美耶子は専らご機嫌だ。それはいい。それはいいんだが、どうもご機嫌が行き過ぎて、最近不自然に色気付いているのには困ったものだ。
保志としては、若い男に入れ込んで身の一つも持ち崩してくれるなら言うことないのだが、極めて遺憾なことというか、第一次定年を迎えようとしている枯れつつある自覚がある男には恐ろしいことに、美耶子はあの年で穣太の弟ないし妹を作ろうと算段しているらしい。
三人しかいない家族がそれぞれバラバラにすごしたのが、自分が寄り道をしたそもそもの原因なので、素晴らしい家族として保志家を建て直すには、まず鎹となるベイビーが要るんではないかというとんでもないことを、穣太のやつがどうやら美耶子に吹き込んだらしいのだ。
――パパが帰って来るなら、やっぱり弟か妹が欲しいって、穣太が言うのよ。
一月ほど前に美耶子が来たとき、ベッドでの夫の義務というやつを果たした直後、あの出会ったころを彷彿とさせる、獲物をこれと定めた目で見つめられ、そうささやかれた保志は、うっかり心臓が止まるところだった。だが心臓は何事もなかったかのように動き続けた。鍛えた体に呪いあれ。
美耶子がシンクロイドにモードでいることすら忘れ、用心しなかった自分の愚かさを、そうと思い出すまでの一瞬とはいえ、確かに呪った。このことはもちろん美耶子に悟られてはならない重大秘事だ。
何がパパだ。何が弟か妹だ。穣太の魂胆は分かっている。保志が帰ったところで今更ファミリーごっこをしたくないから、ついでに鬱陶しいママの注意を逸らそうと、その程度の浅い魂胆に決まっている。
だったら大人として家でもなんでも出て行けばいいと言いたくなるが、そうしない理由も想像がつく。法曹試験の一種を狙うとなると日常生活の起きている時間のうち、生命維持活動をさっ引いた時間の全てを注ぎ込んでなお、時間が足りないのだ。快適に勉学漬けの日々を送るためには、家というシェルターは手放せないのだ。しかも、穣太は気晴らしにたまに踊りにいったり歌ったりという楽しみも手放す気はなく、バイトなど考えてもいず、快適な日常をもぎ取る算段に違いない。
保志はいつの間にか自分の首に巻きついているセレの腕を断固として解くと、睨み付けた。
「美耶子にはいつもやさしいだろーがっ。ごたくぬかしてねぇで、さっさと、棺桶入ってこい。シンクロ・スタンバイしてから待たせると、またあいつが不機嫌になる」
棺桶の中での人工身体表層が融けて再融合されるさまが、視覚的に見られないのはいいことだと思う。妻の美耶子でいるときと、セレでいるとき、本質的には同じものだということを考えると、どうにも落ち着かない。
データ一切を制御しているのも、もちろんSELEN4444なのだから、感覚器官の出力先が地球にいる美耶子に直結したとしても、あいつが感じたすべてのものを数値に置き換えて転送しているのはヤツなのだ。
夫婦の会話に口を出して来るほどのヤボは(多分ルールで禁止されているのだと思うけれど)されたことがないけれど、秘め事として隠されているとはいえ、知っていることは疑えない。
ということはだ。実際美耶子がどれだけ感じたのかとか、そういうデータもヤツに把握されていることになる。ぶっちゃけ、実際は何回いったかとか(実は全部演技で一回もイッてないとか……)、どれぐらいの量の体液が出たとか、そういうもろもろの全てだ。
「あのさ~、美耶子さんが不機嫌なのは、ろくちゃんが、帰って来るのか来ないのか、はっきりしないからじゃないの?」
そりゃあそうだろう。俺抜きの生活をあいつはエンジョイしている。だけど、意外なことに、というか単に仕事がらそのテの修羅場を見慣れすぎていて辟易しているからなのか、あれでいて美耶子は保志一本主義らしいのだ。
かつて二十と数年前。保志と美耶子は、国連法準拠法科大学の同期生だった。大体のパターンとして、二種試験止まりで終わらせるつもりであれば、国連法科に合格して放校されないだけの実力があれば大学院まで進む必要はほぼない。二種であれば大学在学中に、あるいは長いやつでも四、五年の国家資格浪人で獲るものだ。今どきは、法曹人の過去歴などネットで一発検索可能だから、それ以上ねばってウッカリ合格しても、お金に困っていない上客を捕まえるのは難しいだろう。
裁判官はなかなか空かない上に、在学中に資格持ちになった連中からどんどん青田刈りしていくから、そもそもそこには「ねばって奇跡の合格」組に用意された席はない。
弁護士ならば、幼児への性犯罪や、大量快楽殺人犯や、年寄りの財産を組織的に食い物にしたなど、一般の人間受けすることは決してない被疑者の、法廷弁護案件ばかり引き受けざるを得ない立場に陥り、精神的にも収入的にも悲惨な日常を送ることになるのが精々だろう。
法曹界の三大職種で忘れてはいけない検事も、当然裁判官同様、上級公務員としての少ない椅子に挑戦しなければいけないわけだから、昔のように資格を獲っただけで道が豁然と開けるというほど甘い世界ではない。
青田刈りはロースクールの校風というべきか。大学在学中に二種を獲ったときはそうでもなかったが、ロースクール最終学年現役で一種に合格したとたん、保志は女どもからの強烈な捕獲行動に曝された。それはもう、特定の恋人を作る間もなかった勉強漬けの青春を過ごしてきた二十歳そこそこの男にはとんでもない天国だった。
とは言うものの、一種試験現役組にしても、別に保志一人ではなく、希少価値もない。彼の同期にもそこそこ人数がいたし、現に美耶子もその一人だった。そうなれば、見栄えと気性のよさげなものから売れ筋になるのは自由競争社会の原則というものだ。
あのころ、武人を気取っていた筋トレマニアの保志などは、どちらかというと下手物に属すらしく、本人は突然の春にうはうは浮かれていたが、その実、それほど競争率が高いブツでもなかったというのが真相だ。
けれどどういう趣味だか、保志をターゲットにしてきた女性のうち、一番積極的だったのは紛れもなく美耶子で、確かに自分は狩られたのだという自覚がある。ガンガンと美女に迫られれば、ウッカリ男はとりあえず立ってしまうのだよの法則に従って、行くところまで行ってしまったのだった。けれどそんな保志の男を責めるのは酷というものだろう。
能天気にも今時の自立した女が避妊の手だてを講じていない可能性など思いもせずにいて、ある朝ベッドの中で「できちゃったから、責任取ってよね」と凄まれた日のことを思い出す。あんな思いは二度とごめんだ。あれは、絶対に保志の将来を確保するために、故意に妊娠したに決まっている。
保志が美耶子に対して貞操を保っているのは、別に勤務先に妙齢の女性が少ないということだけが理由ではあるまい。東京にいたとしても、美耶子怖さに浮気などできていたはずもない。
「そうそう、美耶子さんから『帰ってこないって言うんなら、古女房とは離婚でもなんでもして、ジョリー・ロジャーにプロポーズでもしやがれ』って、伝言たのまれてたんだっけ、オイラ」
引用された声は美耶子のものだ。これだから、こいつらは…。保志はありったけのトゲを視線に込めて、セレをにらんだ。
「いつ?」
「1分ぐらい前」
ということは、美耶子はどうにでも白黒付けるつもりで乗り込んでくるということだ。確かにその日伸ばしにしてきたのは自分だけれど、バッパーっつうのは、傍目でそう思われるほど閑職じゃないのだ。保志は覚悟を決めた。とにかく出来る男の秘訣は円満な家庭からだ。
ちらと正面の画面を眺めて、TODOリストの中での優先順位付を素早く微修正する。
対美耶子は、まず一戦してガス抜きをさせたところで、穏やかな話し合いに何とか持ち込む。方法はこれっきゃない。最短時間で済ませるとご機嫌が悪くなることは必須だから、最低どのぐらい頑張れば、ご満足いただけるか経験値から弾く。三十分……、美耶子満足度的に少ないだろうか? 保志が今日の時間配分を始めたのをにやにやと確認しつつ、セレが棺桶入りするのが、モニター画面に映り込んでいてばっちりと見えた。
保志は右手にあるモニターをシンクロナイザー監視画面に切り換える。モニターに映し出された裸の青年の輪郭がぐずぐずに融けて、ゆるゆると顕れて来るのは女の曲線だ。しかも、ほどほどに崩れかかっている。顔や手足と曝される部分のアンチエイジングには気合いが入りまくっている古女房だが、引き締まりというものが無縁になりかけているのは疑えない。どうやら腹周りのラインの維持にはそれほど手間をかけてないと見える。ボディースーツで腰の括れを作ったところで、機械相手に誤魔化しは効かない。
シンクロナイザーの厳密走査は容赦なくその人の今を読み取っていく。
保志は何に対してでもなく、ただなんとなくため息をついた。
真っ赤に振り切れて、スキャナが100%走査完了に行く前に、動き始めていた転送監視用のゲージが青い棒を延ばしていた。セレが棺桶入りすると、黄色い受信データ適用ゲージがとたんに伸び始めている。
以前からなんとなくえぐいものだという確信があって見たいと思わないようにしてきたが、最近では、保志はシンクロイドの可変表層がどんなふうに動いているのかを、一遍リアルで見たいという気もしている。
並んでいる監視のゲージのうち、赤が一杯になり、青が一杯になり、黄色が一杯になると、シンクロイド・システムの転送が完了したということだ。あの棺桶の蓋が開けばさっきまでセレだったシンクロイド受信装置である可変筐体は、保志の妻である美耶子に変化してのご登場という次第となる。
監視モニターを睨み付けるようにしていた保志が、黄色ゲージが振り切れる瞬間を目撃したとき「チーン」という、初期型電磁調理器の加熱終了音に限りなくよく似た音が、小さいながらも断固とした主張を持って部屋に響いた。
この音をことさらに選んでいるのは、彼としては冗談のつもりに違いない。ヤツの笑いのセンスは、やはり相当に高級な基本性能を持つにしては情けないぐらい低レベルである。そのことを今日が終わった段階で定年延長を自分が選ばなかった場合、新しいバッパーと信頼関係を築かなければならない4444(よんし)には、きっちり指摘してやる方が親切なのだろうかと、保志は半ば真剣に思ったりした。
棺桶の蓋が重々しい印象を受ける程度にまったりした速度で開いていく。
* * *
省スペースであることを設計上の最優先事項とされているのかもしれない保志の可動官舎では、何かといろいろなものが壁に収納されている。受信器すらも、その名称が普通に想起させるような箱型ではない。
走査器、転送機、受信器の三つの機能でシンクロイド・システムは作られるが、実際問題としてスキャナとレシーバーは別個のものではなく、双方向性、つまり送受信が可能なものだ。センサーが生身の人間であると認識すればスキャナ・モードになり、シンクロイド可変筐体を認識すればレシーバーとなる。
つまり保志の住まいに棺桶が備えつけてあるということは、いつでもシンクロイド・システム経由で遠隔地(地球までほどに遠距離でも可能)に旅行することができるということだ。
条件は、同じ亜空間域ネットワーク・チャンネルで、共有登録してある端末のどれかに、受信可能な状態にあるシンクロイドが収まっていることぐらいだ。普通棺桶入りするときは、手違いでシンクロイドがスタンバってない場合に備えて、転送不良の場合、ライド・オンを中止する指令を出すまでの時間を設定――基本設定は確か十分ぐらい――するが、意識が受信機の情報入力器官へ切り替わるまでの間、トリッパーの意識は、暗くて狭くて、まさに棺桶の中にいる生身の身体にある。
死体気分を長時間味わいたい欲求がある人間でもなければ、スタンバイからシンクロ完了までの待ち時間が短い方が好まれるのは当然だろう。閉所恐怖症がある人間はシンクロイドに乗れないに違いない。
保志の官舎附帯設備である棺桶は、そこから搬出する必要がないこともあって、壁面に立てる形でビルトインしてある。普通の棺桶は、本当に棺桶のような形で床に置かれているものなので、人は仰臥位でダイブして、その同じ体勢でシンクロイドに意識が合致して覚醒する。けれど、官舎の立てかけてあるやつは、当然寝ていたはずが、突然起きている状態に移行するのだから、三半規管を混乱させる。一種の慣れが必要だ。
扉が開いて、そこから美耶子がヒールの音を響かせて何事もなかったかのように歩いて出てきた。この官舎の、縦型収納棺桶に慣れている人間でなければ、寝ていたはずの身体を起こそうとして、上体を起立させるべく腰を曲げ、当然の勢いで頭から床向かってこける者が殆どだ。が、当然と言うか、さすがと言うか、美耶子の足どりは確かだ。
壁に埋まっているはずのスピーカーが、フルオケの『お誕生日の歌』イントロを奏で始めた。4444のやつは、何がどうあっても、今日のテーマ・ソングをそれで統一する気らしい。バッパーの息子らしくもなく、ラッパーとかいう人種らしい息子なら、司法試験に受かったあかつきには、歌って踊れる法曹人になれるのかもしれないが、美耶子にそういうノリはない。
美耶子は節を完全に無視した。けれど歌詞はそのままに引用して、凶悪なまでの満面の笑みをたたえて保志を見た。
「ハッピーバースディー あ・な・た」
瞬間保志の背中に悪寒が走った。
「こっちから押しかけないと呼ばないって、手抜きじゃない? 家族の権利を主張するには、コミュニケートに対して積極的に、かつ継続的に配慮していたかを立証すりゃあいいんであって、こんなんじゃ、離婚裁判に持ち込んだって、そっちが悪いって慰謝料ガチとる自信あるわよ。ワ・タ・シ♪」
語尾に絶対音符が付加されている口調で美耶子が微笑む。金持ち御用達辣腕弁護士の美耶子なら、当然同業者のフトコロを肥やすような太っ腹と無縁で代理人など立てずに自ら原告本人として、被告人尋問を相当のクオリティーでやってのけるに違いない。大体、地味に被疑者の権利を守るべく奔走するようなタイプの弁護士と違い、美耶子のように売れて何ぼというのを徹底している弁護士の演技力というのは大したものだ。容姿的にも、演技力的にも、彼女は女優でも食って行ける筈だと保志などは常日頃思っている。
見せ方、間の取り方。糾弾者に添っているのかと勘違いしたくなるような誘導をかませながら、土壇場で奈落の底に突き落として、傍聴人の同情を依頼者にぐぐっと引き寄せるその巧妙さ。
金がうなっている筈の元政治家が、女子高生と援助交際していた事件では、狒々(ひひ)オヤジを、若年ではあるが侮れないほどに悪意に満ちた少女の誘惑に抗しきれなかった哀れな中年男に仕立て上げて和解に持ち込ませ、有名歌手のストーカー行為疑惑事件では、ストレスから精神を病む寸前にいたのだというでっち上げを平然とやらかす。
美耶子は事件の弁護を受託する前に、腕っこきでかつ美耶子の信奉者ですらあるスタッフを使い、受けた場合と同等のリサーチを徹底的にやる。金が取れて、勝てる戦にしか乗り出さない。常勝女神という渾名は、別にネタを知れば何程のこともない。
「み、美耶子……さん」
クリーム色のスーツに淡い桜色のスカーフ。時間は明石時間の九時丁度。保志がどのように身を振るのか、十時にオフィス入りする計算で、四十五分ほどみっちり話し合おうという魂胆だろう。
このシンクロイドの衣装についても、現代の機械が裏で何をやらかしているのか保志にはさっぱり見当もつかないシステムの一つだ。ぶっちゃけ、今現在、向こうの棺桶に収まっている人間の服装が正確に再現されるのだけれど、どう考えても可変筐体とちがって擬似生体細胞を使っているわけではないし、被服品に使われる素材など恐ろしい種類と質量的差があるはずなので、こちらの棺桶で便宜合成するには労多くして穴だらけになりそうなものだ。なのに、ちゃんとボタンからアクセサリーに至るまで再現されている。いつも同じストレッチ素材の黒服辺りで出て来るなら納得いくのだけれど、不思議なことに自分の服装が再現されている。
保志自身がトリッパーになったときに、着ている服装が同じこと、同じ位置に同じ備品があることで自分との連続性の把握の一助には確かになっている自覚があるので、これを無駄とは呼ばないが、やはりどうなっているのかよく分からない。
ただし、実用可能な道具類は、技術的に不可能なのか、それとも危険廃除のためにできないことになっているのか不明だが転送されることはない。トリッパーがシンクロ先で人殺しをしようと思って銃火器や刀剣類を持って棺桶入りしても、そういうものは形として再現されるのみだ。胸に差したボールペンは筆記できないし、拳銃は火を噴かないし、包丁の切れなさときたら、なまじっかに金属質な見掛けの刃があるだけに芸術的だとさえ言える。美耶子の耳たぶで光っているダイヤのピアスが、多分そう見えるだけでダイヤでないのと同じということだろう。
「俺と離婚なんて、ホンキでするのか?」
保志は歩いて来る美耶子に自分からも歩み寄って抱擁すると、その勢いで掌を太股にたどらせた。
「あなた……真面目な話に来たのよ、私は」
美耶子の手が保志の手を、虫でも払うように弾いたが、保志はめげずに美耶子の腰辺りに着地させた。
憎まれ口でそういう夫婦の行為を拒絶しているような勢いの割りに、美耶子の顎は当然の権利というように口づけを要求する角度になっている。年齢の出ていない喉のラインが綺麗だ。フェイントというわけではないけれど、アンチエイジングに命をかけているに決まっているその喉の方に、保志は唇を吸いつかせた。
「あ……、ちょっと、そこは駄目だって。私、仕事前……」
「俺も仕事前。だけど美耶子さんが、いつまでもあんまり綺麗だから……」
「おだてて、誤魔化して……ズルいわ」
「……今日、出勤何時?」
「昼から……」
(げ……っ)
一時間ほどをやりすごすのと、ランチタイムは除いたとして三時間をたっぷり話し合いする覚悟で来た美耶子の相手をするのとでは全く必要な心構えが違う。
保志は今度は美耶子の唇をキスで塞ぎながら正面モニターのTODOをもう一度ちらっと見る。美耶子の趣味なのか、女というものが全体的にそうなのか、彼女はいつまでたっても、キスをしているときは目を閉じる。
だから眼球だけで確認すれば美耶子には保志がそういうことをしているのが分からないはずなのに、美耶子の指が思いっきり保志の尻の肉をつねった。保志は小さく悲鳴を上げた。
「いて……。酷いな美耶子さん……」
「退官日なのに、仕事続けるふり? 冗談は止して。もうそんなモニター切っちゃいなさいよ……」
断定的な美耶子の物言いが面白くない。
「……だから、まだ決めてないんだって」
「あなたいつも三分の一は嫌だって、ずっと言ってたじゃない。悩む必要はないわよ。私の収入と蓄えと退職金だけで十分遊んで食べていけるし、ね。仕事がなくて腐っちゃうなら、オマル勤務を続けてもいいし、潔くオマルと決別して、民事専用弁護士で独立してもいいじゃない。なんだったら私のところで居候弁護士してもいいのよ」
くっと保志は笑った。
「齢四十五のイソベンなんて、全然かわいくないぞ。美耶子先生……。それからオマルって言うな、オマルって……」
保志が所属している国連国際総合司法庁というところは、司法というものの公平享受権利を保障するために限り、何でもできる権限があるということで、俗称でオールマイティーと呼ばれている。日本語を母語とする人間がそこをオルマと呼ぶのは当然のなりゆきだ。しかし実情ときたら国連総合司法庁の各国支部に回される事案というものは、実利主義がはびこる民間から自然と洩れてしまうものであることが多い。
経済破綻国や地域における犯罪被害者の救済だったり、被疑者の権利の保障を蔑ろにできない案件であったり。つまり、オールマイティーというより、巡らされてあるべき法の編み目一番底辺の、一番詰まった目であることが要求され、どぶさらい的な役割を担っていることも多い。そんなだから法曹界の住人の中では、幼児用排便練習器であるところのオマルという蔑称で、おおっぴらな陰口として通用している。
床に押し倒すというのもちょっと最近マンネリ化していて芸がないので、モニター画面に美耶子の背中を押しつけて、立ったまま致そうと保志が頑張っているのを身体は協力しつつ、会話の方では完全に無視して、美耶子は定年延長を仄めかした保志を翻意させようと言葉を続ける。
「ね、私たち、そろそろ夫婦でいつづけるつもりなら、この距離を何とかしなきゃと思うわけよ。あなたってば……うちのシンクロイドにだって滅多にトリップしてこないじゃない……」
「緊急呼出しに対処するには、美耶子さんが来てくれる方が助かるの……」
まずは場保たせに、指を滑り込ませるとその気合い十分だったのか、それとも単純に反応がいいのか、十分に潤っていた。その気十分ではなかったとはいえ、一応男としてはそれはそれで楽しかったので、調子をこいて指を増やして弄んでみたら、美耶子は眉間に皺を寄せて仰け反り、そのついでに膝がちょっとばかりガクンとなった。
保志はそのまま転ばないように抱えて尚も行為を続行すると、さすがの口先女の美耶子も観念したようで、だまってそちらの方に集中することにしたようだった。
作戦成功というべきか……。
抱え上げたといっても、それはここが多少低重力仕様になっているから可能なのであって、シンクロイドの芯は人間の骨よりは相当に太い金属の棒で作られているために、実は見掛けよりは相当に重い。可変筐体といっても赤ちゃんから二メートルの巨体までを一つの受信器で対応できるわけではない。一応可変筐体の量を変えて体型の違いをカバーしているとはいえ、その幅には当然限界がある。
保志のところにあるそれは、いわゆるMサイズというやつで、身長百五十五センチ以上、百七十五センチ以下に対応している。体重は恐らく地球基準重量で九十キロ近いのではないかと思われる。
「ここでいい……? ベッド行く?」
一応聞いてみた保志は、今度は美耶子に逆に押し倒された。
「時間の無駄。その気になっちゃったから、責任取ってもらうわよ。話し合いは、こっちをさっさと済ませて、それからね」
言い終えるや否や、美耶子は保志のズボンの隙間から手を滑り込ませて、その股間にあるべきものを問答無用で握り込んだ。
「……さっさとって……美耶子さん……ひど……」
「どうせ、あなたもそういう魂胆だったくせに……。一発やって誤魔化して、お引き取りさせようって、そうでしょ?」
保志の抗議を美耶子がばっさり切って捨てた。その通り算段していた保志は反論もできない。保志という男のツボを知り抜いている美耶子に、積極攻勢に転じられては、どちらかというと刺激反射型にできている男というやつの性は無力なものだった。
それからのきっちり四十五分を、保志が美耶子が言うところの積極的に、かつ継続的に濃密なコミュニケーションに充てたのは、成り行きというやつだったとはいえ、その日のうちに、明日以降の身の振り方を決定して、それに伴う明確な意思表示を、総合司法庁のメインコンピュータ宛に済ませなければならない保志にとっては、非常に大きい誤算であった。