18.天の標(しるべ)と疾駆する俗人
時間帯のせいか、それとも忙しかった一日のせいか、常日頃以上にくたびれて見える男が二人、しょぼくれた感じで向かい合っていた。
「医療ベッドに入っていると思ってましたよ」
「……まあ、正直、しばらく動きたくないけどな、ちょっとやらないと、やってられない気分だった……」
保志はプライベート・モードで使っているスペースにある、いわゆるくつろぎ向けソファセットというやつの大きいほうに、だらしなく寝そべっていた。ソファとソファの真ん中で、でんと居すわっているテーブルには、珍しくアルコールが出ていた。つまみ物一つでていないのが、彼らしい。
セレがいれば、何かと世話をやくのだろう。けれど、今は自分がこの身体を使っている。乾きもの一つ並べてやれない自分に、多分ざわざわしてるに違いない。
迫神は彼の前に座るのをやめて、そのまま続き間になっているキッチンに移動して冷蔵庫の中を覗いてみた。なんやかやと、料理の材料になりそうなものが一杯入っている。
「意外とまめみたいですね。保志さんは」
「俺が?……まさか」
保志自身に声をかけた気はなかったのだが、即答された。
「普段は、セレが?」
「まあ、美耶子がこないときはそうだな……」
美味しそうに飾られたカナッペが手をつけられずに入れられていた。
「セレ……これ、まだ食べられるもの?」
一応聞くと、壁のスピーカーから聞き慣れたあの声が返ってきた。
「もちろん……。さっき、美耶子さん、それ作って帰ったとこだから……。どうせ、死んだら落ち込んでて今日はごはんなんか食べないだろうから、アルコール食う前にちょっと胃潰瘍予防させといてくれって言って、作っていったんだよ。美耶子さんなんだかんだいって、ろくちゃんに甘いから……」
この可変筐体をみんなで使ってるのだと思うと、今さらながら、なんとなく不思議な気がする。セレ、美耶子先生、それから自分の三人……。
ほかに何かないか冷蔵庫を見回したものの、あまりイメージが湧かなかったので、迫神はそのまま、その皿を取り出しただけで冷蔵庫の扉を閉める。
「……美味しそうだけど、美耶子先生は、これ味見なしで作るんだよね」
「うん、だからたまに、とんでもないのができるみたい。ろくちゃんが宮崎保安官夫人の料理に飢えるの分かるでしょ? 美耶子さんも家じゃしてないだろうけど、計量しながら作ってるよ」
保志の目の前のテーブルにカナッペの皿を置いて、それから思った。
「ご相伴に預かれないのは……残念かな……」
「一緒に食えって言えないのもな……」
昼間、忙しくしている保志しか、そういえば知らない。普通は、一年以上も一緒に仕事をしていて、一度も食事を一緒にしたことがない付き合いなんて有り得ないだろう。
あいあいに対してもそうだ。一度もちゃんと生身な状態で待ち合わせて食事に行ったことなんかない。やろうと思えばできるはずなのに、どこかで、ここの仕事をちゃんとした自分の人生から切り離して考えてたのかもしれない。
生身のふれあいをしていないから、あいあいとも保志とも、いつまでもどこか遠いままだったのだろうか。
「一つ聞きたかったんだけど、セレ」
「何?」
「私がどういう状態か、君は分かるだろう?」
「そうじゃなきゃ、シンクロナイザーのシステムを監視しているホスト・コンピュータとして情けないでしょ。ちゃんと見てなきゃ、マウント・オンもオフもできないし」
迫神は自分の胸に手を当てた。
「何を考えてるか……は?」
「分かるわけないじゃん。オイラが分かるのは、この身体に乗ってる人間の身体の生理的欲求、つまり、生命として維持するために何を求めてるか……、それだけだよ。水分の補給が必要なのか、栄養分の補給が必要なのか、休息が必要なのか、排泄が必要なのか。ライダーさんの感覚を転送するときに、そういった数値も向こうの棺桶監視装置に送ってやらないと、八時間も飲まず食わずでいる生身の本体をちゃんと維持できないじゃん。ちゃんと疲れてる情報も送ってやらないと、休むの忘れちゃう人いるんだよね……。棺桶の中の人は眠ってるわけじゃないんだから実際問題として身体が活動してなかったとしても、してたことにしないとね。睡眠って大事だから、脳にインプットされた体験情報を整理したり、疲れた身体を元にもどしたり」
なるほどね。と、迫神は納得した。道理で身体は動いてないはずなのに、疲れも残るし眠くなるはずだ。一日の仕事を終えて自分の身体に帰宅したとき、寝ていたはずの身体が疲れているのが不思議だった。
「快感の閾値の判定もそう。一意に決めることができないでしょ? ライダーさんの身体をずっと監視して、動作状況を確認しながら微調整してかないと。飛閃の運動制御と一緒。ライダーさんは人間だから、曖昧の処理がうまいけど、オイラたちは無器用だから」
迫神はざわっとした。
「……それで、お前あんなこと言ったのか?」
生き物なんだから、気持ちいいことをちゃんとすればいいという、あのとき保留にしたセレへの答えを自分は見つけていない。
「だって、オイラ思うんだ。ちゃんと脳味噌に身体が感じる快感のインプットが、定期的にある状態じゃないと、人間ってろくでもないことしちゃうのかなって」
「でも、身体の快感だけで、人間は幸せじゃないだろ?」
「何いってるのよ半六ちゃん。オイラ知ってるよ。ごはん食べても、眠っても、トイレいっても、いつだって快感を感じてるでしょ? 大人の男の人ならちゃんと女の人としてるときもそうだよね。そういう生き物の快感をずっと阻害してると、快感が欲しくて、欲しくて、おかしくなる……っていうのが、オイラの人間ってものに対する、あの疑問の答えなのかなって……」
セレの疑問というのは、同じ人間が夜叉にも菩薩にもなれるのか、という、そうそう抹香臭いあれだろう。けれど意味は分かる。分かるだけじゃない、聞いたとたんに、それこそがまさに、ずっと自分の胸に突き刺さっていた疑問だったのだと分かった。
「お前がずーっとほざいてる菩薩と、夜叉だの修羅だの問題が、快感の閾値だけで説明がつくなんて思うところが、浅はかなんだよ」
保志がきっぱりと言葉を挟んだ。言葉の勢いは辛辣なのだが、その言い方は、小さな子供が自分はもう何でも分かるんだと胸をはっている愚かさごと抱きしめている父親のようだと迫神は思った。
「違ってる?」
「うん。あ、いや……それも大切だよ。成長過程で生物として感じる必要がある真っ当な快感を阻害されて……虐待とか、貧困とか……あるいは単純な不運とかでね……、そういう者が犯罪を犯す確率の高さを思えば、それが真実な側面もあるだろうさ。それが全てって思えば簡単だし、楽だ。だけどな、忘れちゃいけない。同じ貧困とか、同じ最低な境遇とか、同じ運命の容赦ない打撃に打ちのめされるとかしたところで、悪いことをしないやつは、悪いことをしない。するやつが多いってだけだ」
その言葉の持つ意味を、直接受け取っているだろうセレと一緒に考えながら、迫神は保志が何を考えているのか、そういえば知ろうともしてこなかったのだと、思った。
「犯罪を犯すやつの率をさげるために、成長過程で身体に快感を感じる機会をちゃんと確保してやるのが社会正義ってもんだとしたらな……」
ちびりと、保志はグラスの中の液体を舐めた。
「自分が不幸だったから、他人を傷つけていいって思ってる甘ったれをぶん殴る理由がなくなっちまうだろうが……ボケ。悪いものは悪い。誰が何といっても悪い。お前の不幸はお前のせいじゃないかもしれないけど、お前の悪さは間違いなくお前のせいだって、ちゃんと言ってやらねえと、司法なんて絵に描いた餅だろうが」
酔っぱらっているからかもしれないけれど、その迷いのなさは、羨ましいぐらいだ。迫神は半ばあきれつつ思った。
「自分がルールブックですか?」
「迫神、お前もセレ並の阿呆か? 法曹のルールブックは六法って決まってるだろうが。ボケ。自分の感情でお前が悪いと判断したやつを片っ端からぶん殴ったら、そりゃ、ただの犯罪だろう?」
迫神は目を閉じた。なぜか保志の言葉が染みわたった。
「俺たちが毅然としていられるのは、一人一人でもがいていた、ちっぽけな人間たちが、こういう考え方でいけば、回りとうまくやって行けるんじゃないかって、文明ってやつが発生したのっけのそもそもから、忘れないように書き留めて、積み上げて、整理して、見直して、失くさないように、失くさないように……って、大切に育ててきた法が居てくれてるからだ。法ってのは、面倒で、小回りがきかなくて、不格好だと思うけどよ……。俺は、人類の財産だと思うわけ。
フランスの1791年憲法は古くさいか? 『全ての市民は、法の下の平等にあるので、彼らの能力に従って彼らの徳や才能以上の差別なしに、全ての公的な位階、地位、職に対して平等に資格を持つ』。え、どこが古くさいよ? 障害者は能力が低いから差別を助長するような文言だって? ふざけるなよ、バスティーユ襲撃の六週間前だぜ? ぶん殴るには、特定の個人の思惑だの判断だのじゃなくて、多くの知恵を結集した法によって立つ必要があるってこと、ちゃんと分かってる人間がいたってことじゃないか。
『われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』1947年日本国憲法がGHQの押しつけだから捨てちまえ?ふざけるなよ。テメエだけ幸せじゃいけない、『全世界の国民』が、『ひとしく恐怖と欠乏から免れ』るのが理想だって、全然古くさくない。むしろ青臭いまで、気恥ずかしいまでにピュアだ。
俺はね、学生時代にロースクールの世界憲法変遷史の先生から教えてもらった。憲法は努力目標だって。ぴかぴかに磨いて、壁にかざって、たまにじっくり読んで「ああそうだな、がんばろう」、それでいい。ただ、埃がたまっちまったら読めなくなるから、いつもぴかぴかに磨いて、読めるようにちゃんとしていくのが、法曹の使命だってな。
君たちがこれから法曹界の現実に絶望することがあったときに思い出せ。理想があるはずだと思うからしんどい。理想は走っていく方向を指し示してくれる天の標だ。それを目指して追いかけるもんだって……。あると思って、足元を探してもそんなものはない。星を目標に地上を走ったって、地べたにいる限り無理だ。だけど、それが分かった上で、きっと辿り着けると信じて走る阿呆がいるのが、集団社会を営む人類の甲斐性だ。諸君は、立派な阿呆であれ……って。懐かしいなぁ……」
足元を探しても理想なんかない……。その言葉は迫神を打った。無理だと知っても、理想を掲げ、辿り着けると信じて走る阿呆ができるのが……人間の甲斐性。
饒舌な保志など見たことがないけど……。迫神は言った。
「こんなにしゃべってくれるなら、毎日アルコール漬けにしときたいな……」
「……死んだ記念の躁病ってやつだ」保志がぽつりと言った。「本当に、あいあいは、よくもまあ、あれだけ死ねるな……まったく、すごい……」
嫌そうに顔を歪ませているのは、死んだときの痛みが実際問題として彼を苛んでいるからだろう。
「実は私も、彼女はすごいんだなぁと、改めて思いましたよ、今日。ドンパチ自体がなくても、お互いがとんでもない破壊力のある武器を持って対峙してるってだけの状況そのものが、すごく疲弊するんだって……思い知りました。飛閃みたいなマニ=ア=コロに乗っていてさえ、自分が怖がってるってことすら、嵐が通り過ぎるまで気付かなかったぐらいでした。あんなのが日常生活なんて……、身がもちません……」
保志がぽっつりと言った。
「……ふふ。さては……亜衣里に、惚れちまったか?」
「まさか……とんでもない……」
迫神は思う。今更惚れたんじゃない。一目惚れなんて、信じてなかったはずなのに……。あんなのは物語の中のご都合主義だと思っていたのに。
時間をかけてその人に馴染んでいくものだと思っていた。知らない人を好きなんぞなれるはずがないと思っていた。
でも、違う。自分の場合は、多分、あのイチゴのときにそれがやってきたのだ。運命みたいなものが、まず好きという気持ちってを、運んできてくれていた。どこそこがすごいとか、何がすごいとか、そんなのは全部後付だ。一番最初に、言葉にすらならない「好き」という気持ちが、種として自分に蒔かれた。大好きの種を受け取った瞬間は、普通は多分曖昧なのだろう。けれど、ごくたまにどうしてか、掌にその小さな粒が置かれた瞬間に気付くことがある。それに一目惚れという名前がついているなら、きっとそうなのだ。そしてその種は、芽吹いて、伸びて、自覚できる愛になる。そして、今ははっきりと言える。少なくとも自分は、彼女を愛している。
そういえば、あの啓介は理利菜が生まれたときに、一目惚れしたとか言っていた。初めて見たとき、ああ、よくぞ自分のところにきてくれたと感謝したと、あの馬鹿らしくもなく神妙な顔つきでいった。
――うっかり一目惚れしそびれたら、親でいるのって……多分しんどいよな。
臆病でもなんでもなく……粗忽で、その種に気付かなかっただけだ。そして育てようとしなかった怠慢な「好き」の種だからこそ、雑草のごとく勝手に根太く育って、手のつけようがないほど蔓延っているのだ。
気持ちというものに関しても、生まれつきの反射神経というか運動能力のようなものがあって、それは人によってバラバラなのだと思う。自分の感受性は多分、恋愛関係には鈍い。
山は、自分にとって憧れであり恐怖でもある。それでも行ってみたくてたまらないのは、頂上から全て足下の雲を見渡すときのなんとも言えない快感を知っているからだ。一度でも頂上に自分の足でたどり着いたことがある者なら、山に向かう人間に、なぜしんどいのに、危険なのに登るのかなどといった愚かしい質問を投げかけはしないだろう。
でも、だれにでも初登山はあったはずなのだ。きっと、自分にもあったはずだ。そのときに、頂上までたどり着かずにやめた者とか、自分が登った小さな頂の隣に、さらに天に向かってそびえる隣の山の頂きがあっても、くやしいな、あっちのほうが高いから、きっとあっちのほうが気持ちいいんだろうなぁ、登ってみたいなぁと心が動かなかった奴は、もう二度と山にはいかないんだろうと思う。
亜衣里は、多分、自分にとっての恋愛山の初登山だ。登れるかどうかは別として、登ってみようとしなきゃ、山男ではない。
迫神は、目の前に置いてあるグラスの中の液体を、飲んでも仕方がない、今の自分が残念だった。一緒に酔いたかった。
* * *
今日は最低の日だ。
亜衣里は思った。真実を知りたいと、教えてほしいと、痛む身体、疲れ切った身体を引きずってやっと辿り着いた先で、真っ先に耳にした言葉があんなのなんて、最低だ。
――亜衣里に惚れたか?
――まさか、とんでもない。
これ以上の明白な否定があるだろうか。分かってた、ずっと分かってた。迫神にとって自分が可愛い女の子になる日は来ないと分かっていた。
自分だってもうすぐ三十になってしまう。今更可愛いという年でもないのも、分かっている。それでも……やっぱり不公平だ。
大人になる前に死んでしまった子供を抱いていた手が、そんなことで自分が不幸だなどと感じることは愚かだと諭そうとしていたけれど、それでも、闇の中に蹴りだされた気分だった。あの人の笑顔が好きだったのだと気付いたのが、自分を否定する言葉を聞いた瞬間だというのは、どういう皮肉だろう。
全部の勇気をかき集めて、亜衣里はあいていた扉をノックした。
あの人が自分を見て……微笑む。なんて人なの? 聞こえてないと思って、そんなふうに偽りの笑顔をくれるなんて、反則だよ。お母さんが言っていた。好きって気持ちは、感染るから、どっちかだけが死ぬほど好きなんて、本当はないんだって。好きだと思っている人間は、大体向こうも好きでいてくれてる。ママのこと亜衣里が好きなら、ママが亜衣里を好きだって、疑わなくていいって。
あれはいつのことだったろう。お姫様の絵本を読んでもらっていたときだったろうか。白雪姫のどこに、いったいいつ王子様が恋をしたのか、教えてほしいとねだったときのことだろうか。
ママは言った。
――信じるって魔法なのよ。白雪姫は王子様と恋をするって信じたから魔法がかかったの。だから、亜衣里も大人になったら分かるよ。信じることは簡単でも、信じきることは難しいの。だから……分かる。信じることが魔法だって。
「あいあい、今日は疲れただろう? こっちで座るといい」
迫神が手招きをする。漏れ聞いた言葉は自分を否定していた。なのに……どういうつもりでそんなふうに笑うのだろう。
亜衣里は突っ立ったまま、睨むように保志を見下ろした。
「私は、保志総司官に話を聞きに来たんです。伝言の意味を……教えてもらいたくて」
ことさらに突っ慳貪な声が出た。迫神が立った。亜衣里に近づいて、そして、労るように肩に手をのせた。
「あいあい、保志さんはちょっと死んだばかりだから……ゆっくり話そう」
たしかに保志の顔色は悪い。だけど自分だって悪い自信はある。久しぶりに死ぬまでたっぷり意識があったお陰で、傷一つない身体がぎしぎし痛む。
「私も……今日も懲りずに死んできたわ……。でも、話ぐらいできます。どうせ……冗談みたいな、ズルい死にざま……ですもの」
とげとげした口調を、どう取ったのか、迫神が寂しそうな気配になった。そんな言い方をするなと、多分あの瞳は言っているにきまっている。ずるい。
絶対にずるい。私だって十分疲れてる。十分泣きたい。なのに……、保志総司官を思いやってくれるほど、迫神は殺しても死なないような自分には心配をくれないのだろうか。
「迫神君、相澤君、私は……君たち二人に。……私は、謝らなければならない。私の浅はかが……事態を最悪にしてしまった。申し訳ない……」
保志がいつのまにか座り、背中をきちんと伸ばしてから、自分たちの方を見て、頭を深々とさげたのが見えて、亜衣里は……多分泣いた。シンクロイド・ボディは涙を流さないけれど、向こうの棺桶の中の自分が泣いているという確信が亜衣里にはあった。
* * *
複雑な……けれど、職業柄か端的に知りたい情報が遺漏なく盛り込まれた保志の説明が終わったとき、亜衣里は怒るべきか、泣くべきか迷った。保志が三分の一を決めたのは、そのジョリー・ロジャーとかいう自称・宇宙義賊とやらを捕まえたかっただけで、そのためには引退するわけにはいかなかったと。
あのルテチウム鉱山の一件で、保志が密かに二匹目の泥鰌を狙って、布石を打っていたこと。
そんなことを教えてもらっていたとして、昼間の……日付が変わっているから昨日のあれが、防げたのだろうか。そんな動機――SATの相澤を足留めする――で、行われたのだとは思いたくない。
居間の壁面モニターには、あの公認野次馬であるカメラマンがいままさに切り取っているあの学校の風景が流れていた。昨日から、繰り返し繰り返し流れているのだと思う。もちろん、音声を出していないので、マイクを持っている女の人が何をしゃべっているのかなど分からない。
けれど、多分二日目に突入した今も仲間たちが必死の思いで、一人でも多くの人質を助けて、一人でも多くの犯人を殺さずに逮捕しようと踏ん張っているのは間違いない。まだ、事件は片付いていない。なのに、なんで、自分はこんなところにいるのだろう。
あそこでの日常とは遥かかけ離れた宇宙開拓最前線の辺境で、採掘されている資源をめぐる争いのとばっちりで、幼い子が殺されるなんて、そこまで人を馬鹿にした話があるだろうか。
「ソロプレイの習性が抜けなかった、保志総司官の判断の不適当について糾弾するのは、とりあえず後に回します……」
亜衣里がそういうと、保志がいたたまれないという顔になった。
「後でちゃんと糾弾されるのか……私は」
「当たり前です。責任はきっちり取っていただきます。私がこんなところで変に名前を売ってしまったから、小学生が頭撃ち抜かれて、私の腕の中で死んだなんて、どうやって、自分を納得させたらいいっておっしゃるんですか?」
「……すまない」
亜衣里はその言葉を無視して続けた。
「セレ……、結局、その迫神さんが飛閃で蹴り落としたっていうSSSに乗ってたアバタロイドのトレースは、成功したの?」
絶対に逃がさない。万単位なのか億単位なのか、はたまた兆単位なのか。そんなことはどうでもいい。ただ、金なんてもののために、子供を殺せるようなやつをのさばらさせておいては、警察官の名がすたる。
「オマルのメインにメモリデータ全部転送して分析してもらったけど、消去された後だった」
チッと亜衣里は舌打ちをした。
「くそ。やっぱり迫神さん、蹴り倒すよりバズーカぶちこんでやればよかったんですよ」
セレが口を挟んだ。
「打ち所が悪かったら、かけらの情報もゲットできなかったんだし、蹴り倒せっていったのはオイラだし、そんなに半六ちゃんのこと苛めないでやってよ」
亜衣里は、セレが迫神をかばうのが、これまた心外だった。
「セレ……、かけらの情報って何よ」
「アバタロイドは日本製」
「何馬鹿なこと言ってるのよ。アバタロイドの七割強がメイドインジャパンなんだから、そんなの分かったって、使ってるやつの国籍まで限定できないわよ」
亜衣里が切り捨てた。
「少なくともタイでもコーリアでもチャイナでもないって分かっただけ、マシじゃん」
「そんなん役にも立たないわよ」
言いがかりだ。ほとんどヒステリーに近い。自分で自分が嫌になるけれど、感情がささくれだっているのを宥めようがない。死んでしまった小学生の重みが腕に残っているのが悪い。冷静になれない。
二人掛けのソファの隣に座っていた迫神が……自分のことなんかどうでもいいと言った男が、そっと亜衣里の手を握りしめた。温度センサーは再現されている皮膚温度を正確に伝えてきた。
――あったかい……。
「あいあい、今日はもう寝た方がいい」
「馬鹿な女は口を挟むなってこと?」
最低な気分のところに、とどめの一撃を落とした男の言葉とは思えない。
「……違う。疲れてるときは、休む方がいい、それだけだ」
女として興味はないのだろうけれど、同僚として十分労ってくれている。彼の真摯な優しさは、少なくとも偽善じゃない。
亜衣里は少しだけ迷ってから、ゆっくりと頷いた。立て続けにライドばかりしていると、疲労困憊になるのはいつものことだ。代謝率を落として過負荷にならないようコントロールされているとはいえ、飲まず食わずで動き回っているのと同じなのだ。身体にちゃんと帰って、消化にいいものを食べて、ゆっくりお風呂にでも浸かろう。そして、寝よう。何もかも忘れて……。
疲れがとれなければ、思考がらしくもなく悲観ルートを突っ走ってしまう。ちゃんと建設的な対策を取るには、そうする方がいいに決まっている。
「あいあい……今度」
「え?」
「一緒に飯食いにいかない? 新橋高架下に旨い串揚げ屋があるんだ。このカナッペ作った保志総司官の奥さんにも絶賛だったから、美味しいことは保障するよ」
保志が聞き捨てならぬというように、文句を言った。
「なんで、半六ごときが、美耶子と高架下串揚げデートしてるんだよ……」
「……いや、別に。保志さんのこと聞きたかったって……そんなことは……」
「お前、本当に……」
この迫神の言い方では、言い訳にもならない。正直保志は呆れてしまう。
「石橋がぶっこわれるまで叩き続ける主義か? ここに来る前にそんなことしてやがったのか。ケツの穴の小さいやつめ。あいあいは、即答だったって聞いたぞ」
「……だって」
今更、そういうふうに話を振られても困る。宇宙ってところに来てみたかったという、野次馬根性でやってきましたなどと、正直に言うのもちょっと抵抗がある。
しかたなく、迫神が握ったままの手に亜衣里は視線を落とした。それに気付いた迫神が、保志の苦情を無視した。
「もしかして、彼氏に怒られるかな?」
顔を上げると、目の前に迫神の顔があった。そんなもんいたら、三分の一なんかする前に嫁に行ってます、そう言いたいのを亜衣里は我慢した。
「私はリッパー・ケースケ命なんです。その辺の男なんて、メじゃありません」
アイドルなんか好きなはずもないけれど、亜衣里程度の芸能界情報音痴にも、顔と名前が一致するほどのぶっちぎりの今をときめく旬の人だ。
亜衣里の手を握っていた迫神の手がふるふると数瞬間ふるえて、それからぼそっと言った。
「……あの野郎、今度こそぶちかましてやる……」
「……え?」
亜衣里は、法服を着た迫神がリッパー・ケースケに空手技をかましている図を一瞬想像してしまい、可笑しくなった。東京地裁の判事が、突然テレビ局か何かに押しかけて、アイドルをカラテでのしたら、ものすごい週刊誌ネタだ。原因が、私がケースケ命と言ったことなら、白雪姫にちょっとだけ勝った気分になれそうだ。冗談にしても、有り得ない。迫神さんは懲戒免職まではいかないだろうけど、退職勧告が出るに決まってるようなことは、決してしないだろう。
けれど、笑うというのは確かなエネルギーなのだと思う。可笑しいと思ったら、帰ってちゃんと眠って、頭をさっぱりさせたところで、もう一度ちゃんと考えようという気力が湧いてきた。
「セレ……帰るわ。マウント・オフして」
セレからの返答がない。
「……? 4444でもいいわ。今日はもう帰って寝るから、シンクロライド終了させてくれない?」
迫神は、亜衣里に握った手を振りほどかれなかったのが、嬉しかった。次はちゃんと自分の身体で、生身あいあいの手に触れたい。心からそう思っていた。
「あいあい、帰った?」
「……ううん、まだいる」
保志が口を挟んだ。
「おい、4444、あいあいを返してやってくれ。おふざけするようなタイミングじゃないだろう、いくら何でも空気読まなすぎだぞ」
セレの悲痛な声がスピーカーから洩れてきた。
「操作……できない。……大変だ、どうしよう、何度トライしてもアクセスが弾かれる」
「え?」
亜衣里の声が怪訝そうに裏返った。
「SSC(亜空間通信)システム・エラー? セレ、迫神さん……の……は?」
「半六ちゃんのは大丈夫。あいあいだけ見つからない。どうしてもあいあいの操作画面までいけない。あいあいの疲労度考えると、ライド限界に近いのに……どうしよう」
保志が立ち上がった。
「迫神、一度東京に帰れ。あいあいの棺桶がどうなってるか、見に行ってくれ。通信システムのエラーじゃないと、向こうの棺桶の方で何かトラブルかもしれない」
「そんなケースあるんですか?」
迫神は焦る。黎明期ならともかく、現在ではシンクロライド・システムは技術として安定しているはずだ。滅多なことでトラブルはないはずだ。大体、そうでなければ、もっと事故の噂を耳にするに決まっている。
「聞いたことはないが、人間の作ったもんだ。ぶっ壊れることぐらい、普通にあるだろう。あいあい、迫神に見られて困る様なゴミ屋敷だったとしてもだ、今は見に行ってもらえ。さっさと身体の方ケアしてやらねぇと、マズイだろう」
「保志さん、失礼な。私の部屋はいつだってキレイにしてます」
「そいつはよかったな。恥かかずに済んで。人間日ごろの行いが、いざってときに役に立つ。迫神の携帯端末に、住所とか、部屋の鍵コードとか送れるか?」
――迫神があの部屋に入る?
亜衣里はくらくらしそうだった。ゴミ屋敷では断じてない。けれど、別の意味でイってしまっている部屋なのだ。思いっきり少女趣味全開で飾りたてられた、見事に悪趣味な部屋……。窓にはレースたっぷりのカーテンが掛かり、狭い六畳なのに照明はシャンデリアもどき。家具は全て白の猫足で、弾けもしないオルガンに、天蓋付きの丸型ベッド。手入れをする時間がないから、造花ばかりをゴテゴテした花瓶にこれでもかと盛り上げてある……。クローゼットにはパニエ入りサテンのドレス。……最悪だ。