16.三十二歳ルーキーへ贈る言葉
海賊旗(ジョリー・ロジャーに関しての覚書)
かつて、帆船が海上輸送の花形であったころ。海賊というものがございましてな。海賊旗とかいうものがありやした。
世間さんいうもんは、海賊船が常に旗ぁ掲げていたものと思う向きもいらっしゃるがぁ、基本、攻撃する意志を表明するサインでありまして、「降伏せよ、さもなくば汝の運命は骨と化す」という呼びかけの印でありました。
襲われた船のほうにも、抵抗するか徹底交戦するか表示する手段がございましてな、これがかの有名な白旗っつうもんでござんす。
白旗を上げられたら、海賊は粛々と盗みだけ働き、決して危害を加えないというのが、この時代のおおらかな共通理解でありやした。
海賊さんも、白旗を掲げないような骨がごっつうぎょうさんあるやつには、海賊旗を下ろして赤旗を掲げ、丁々発止の闘いが始まる、というわけでござんす。
つまるとこ、帆船の出てくる海賊映画なんかで、戦闘中にかの有名な海賊旗が翻っているのは、これまた大間違いでございます。
帆船での接近戦なんて、横付けされるまでスピード感なんか、そりゃあ、たかがしれていますからぁ、旗ぐらい変える余裕はあったんでしょうなぁ、お互いに。
また、海賊を取り締まるお上の軍艦も、海賊旗が掲げてある船を見掛けたら、容赦なく攻撃して略奪(?)してええっちゅう権利も、認められておりましたんや。
普通のセコイ海賊が、普段からあんなものを掲げていたわけは、そんなんからもないわけでございますな。矢でも鉄砲でもどかすかもってる軍艦とじゃ、そりゃ、タメ勝負にはなりませんわ。
この海賊旗のネーミング、JollyRogerでありますが、これもまた確かな語源は分かっておりません次第で、申しわけないことでござんす。まあ、諸説っちゅうのは、いろいろございます。
曰く、フランス語の「キレイな赤(joli rouge)からだ」言わはる人もありますし、タミル人の海賊「アリ・ラジャ(Ali Raja)から」という説、はたまた悪魔の古き良き名前でございます、「オールド・ロジャー(Old Rojer)だよ」と、自信タップリにおっしゃるむきもいらっしゃる。
ただ、この下らない話の筆者としましては、髑髏の口元が笑っているように見えますことをもって、笑う悪魔、ご機嫌な(Jolly)悪魔(Rojer)という説を支持したいとこっそり思いまする。なんたって、笑顔は人の心をくすぐる麻薬でございますからねぇ。
とにかく、故事来歴をわきまえず、のべつまくなし船体にジョリー・ロジャーを貼り付けている、かの我等がろくちゃん宿敵、海賊が、バッパー保志の読み通り、火力を頼んでイットリウム鉱山に押し寄せてきたのは、三分の一参加者の三名が、それぞれに将来設計を勝手に引いていたあの日から、更に三か月ほど後のことでありました。
* * *
迫神平和が三分の一プログラムに参加して、二年目に突入した。誕生日が来てしまって三十三歳。新しい日常に足を踏み入れるには、些か薹が立ったお年頃。平和な日本にも人間同士がいる限り、必ず起こる争いごとを、なだめすかすのが役所。東京地方裁判所勤務としては中堅に差しかかった裁判官十一年目。単独審を仕切れる判事になって、こちらも二年目となった。
宇宙の開拓最前線は、彼の独身者用官舎にある、四畳半の中に鎮座している棺桶の向こうに、日常としてあった。
奇妙な二足のワラジ生活も、慣れてしまえば日常に過ぎない。周りの職場の人たちも、迫神判事が宇宙まで出向いて何をやっているのか、気にするのをやめてしまった。今年の新人なんぞは、迫神判事が月の三分の一は連絡がとれない人であることにも、まだ気づいていないだろう。
もちろん、まったりした雰囲気のある今日このごろというわけでなく、増加する訴訟件数に人手不足な東京地裁で、堅実な仕事をこなす迫神判事は、はっきりいって忙しい。三分の一足りない分だけに、却って
人手不足はご多分に漏れず、ここでは同時に百件以上の訴訟・事件を扱うのが常態になっている。公判期日を決めるのにも、部屋の都合もあって時間制約がある。隙間を目ざとく見つけて自分の案件をねじ込んでいくのも技量のうちだ。
独立国家独自の司法制度の上に、国際連合規範ができたのは、資源を求めて人類が宇宙時代に突入してからだ。SFのようにみんながお手てつないで宇宙に飛び出したというより、狩場が宇宙までいつの間にか広がっていった、というのが一般人からみた正しい認識だ。
人類が宇宙から飛び出して、最初はHRB(Human race's birthplace)の衛星軌道上にとどまっていた。この時期もそれなりに長かった。
それから近場の月、そして火星へとじわじわと生息範囲を拡大していったのだが、ホームベースはホームベースとしてちゃんと地球に存在し続けている。街も、人もほぼ、ここに一極集中している。
地球にとって新しい領地である宇宙のあれやこれやは、単独国家が独占的に支配するのではなく、複数国が協働して運営していくという形になっていった。近代国家を詐称(?)する以上、まあ、無難な選択だったと言えよう。人類どうしが、無加工では生き抜けないところでまで資源を求めざるを得ないのであれば、地力がある巨大国家が牽制しあいながら巾着の紐をといて、お互いの持ち金をより多く出させようとしながら版図を広げる形で推移してきた。
人の住む各国では、それぞれの国家の法律が、やはり規範となる。国内にとどまるなら、司法試験に日本国憲法を含むいわゆる六法に基づいて粛々と判断していく従来のもの、現在二種と呼ばれる法律の専門家になりさえすればいい。しかし、国家間の争いや、巨大法人や巨万の富を持つ個人の争いを調停するには、連合規範諸法と、国際連合準拠判例データベースに基づく判断を行う者が必要となる。これが一種である。訴訟・事件に関わる当事者が、複数の規範にまたがるケースが増え、それに対応する新しい枠が必要になったからで何とか作られつつあるだけで、まだまだ矛盾だらけというのが一種の情けない実情ではある。巨大に積み上げられた判例を基準に、一種の裁判官という個人が、判断をつけていく。ただ、それだけなのだ。実のところ、それぞれの国家内での二種司法試験のほうが、実も花もあると言える。
とにかく、東京地裁であろうと、国連総合司法局最高裁所であろうと、一つの訴訟・事件の当事者に、複数の国籍保持者がいた場合、単独審はご法度で、そのうち一人は一種試験持ちの裁判官が担当するという、国際的な申し合わせ事項がある。東京地裁にとっても、一種持ちは立派な資源である。その意味でも、迫神は忙しい。東京は特に、日本国籍でない住民が多く住む。民事よりも刑事事件で、当事者が多国籍になることは、既に普通のことだ。なのに、申し合わせ事項という縛りがあるせいで、一種持ちの取り合いになる。陪席だからといって、裁判長より読み込む資料が少ないなんてことは決してないわけで、その意味で、忙しさは体感ではなく事実だろうと思う。
逆にいえば、ケースとしてはレアであるけれど、月や宇宙植民地での所有権争いがあったとして、当事者の全てが日本人であった場合、日本の二種試験を持っていれば裁判官としてあるいは検事として、弁護士として活動できるということでもある。
実質、東京地裁の裁判官を任命している日本の最高裁判所の担当官も、多分、一か月のうち十日も留守にするような人間は、使いづらいに決まっているが、人・モノともに国際化が激しい昨今において、至難といわれる第一種司法試験合格者には、一件でも多くの事件を扱ってもらわないと現状として裁判が回っていかないのだろう。
はっきりいって、三分の一に参加したとはいえ、それで一度に担当させられる件数が三分の二に減ったかというとそうでない。月に十日分も日程が使えない迫神の都合に合せて、日程が調整され、裁判期間が長くなるという、どうにもあっちにもこっちにも申し訳ない状況が続いている。
日本の法曹界において三十代ははっきりいって漸く尻からタマゴの殻が取れたという扱いで、実質中堅までもいかない。裁判官三人体制で臨む合議審の裁判長を張れるほどのベテランではない。ここのところ右陪席が定位置だ。
「そろそろ行きましょうかね、迫神君、屋島君」
そう後藤裁判長から促され、さて法廷に行こうときになって、迫神の携帯がけたたましく着信音を立てた。
どうせ下らない用件だろうからと、そのまま問答無用に切ろうとしたのだが、その画面の表示が保志からのSSCだったので、迫神は後藤裁判長に言った。
「すみません。例の三分の一の、指導官からなんですが」
「手短かに済ませてくださいね。遅刻はしたくないものです」
「はい、申し訳ありません……はい、迫神です」
後藤裁判長にエクスキューズした迫神が携帯にでると、保志の素っ頓狂に裏返った声がけたたましく響いた。
――でたっ。出た、出た、出た。
「は?」
保志が壊れている。迫神は、即刻通話を切りたくなった。出たの連呼で炭坑節を思い出し、月でも出たのかと突っ込みたくなったのは、日本人としてはもちろんなのだが、後藤と屋島の目があるところで、軽口の一つもだせるものではない。しかも、今は、法廷に向かう直前なのだ。至極真面目な声を捻り出す。
「何が出たんですか、保志総司官」
――ジョリー・ロジャーに決まってるだろう。俺たちの結成理由の。
(俺たちの結成理由?)
ますます、迫神は分からない。
「すみません、これから公判なんで、時差気にしなくても構わないなら、終わってからコールバックします」
――いいから、さっさと全部うっちゃって来てくれ。
「無理です」
迫神はにべもなく言い捨てた。「出た」と「ジョリー・ロジャー」という組み合わせは、保志総司官にとっては、説明不要なのかもしれないけれど、迫神には意味を持たない。当然、たくさんの疑問符を貼り付けてはいたが、だからといって裁判長も、裁判そのものも待たせるわけにはいかない。そうでなくても、迫神のスケジュールは周りをふりまわして、不便を強いているのだから。
――お、おい。半六っ、ちょっとま。
迫神は電源を落として携帯を私物のカバンを目掛けて投げた。ジョリー・ロジャーというのは、何かどっかで聞いたことがある気もするが、さて、何だったのかとなると、とっさに頭に浮かんでこない。思い出しそうで、出てこない。知っているはずが、ピンとこないというのは非常にスッキリしないけれど、今は……。
「いいのかね、迫神君」
「あ、大丈夫です。お待たせして申し訳ありませんでした」
「うむ、じゃあ、行こうかね」
後藤裁判長、屋島裁判官に続いて歩きながら、迫神は今日は、今日の原告と被告の代理人を務める弁護士の名前を脳内データベースの中で繙いて、長引く恐れがある事件だったかどうかを頭の隅で思い出そうとしていた。
* * *
「あーあ、半六ちゃんに振られちゃったねぇ……」
遠く隔たったイットルビア地区派出所の人口密度稀少域特例、総合司法官執務室。
繋がったSSC電話を、迫神が一方的に終了させた直後、不肖の伜の面をしたセレは、そういって保志をからかった。
「……半六の野郎」
ぎりぎり握り込んだ拳を、保志はわなわなとふるわせる。
「でも、ろくちゃんが悪いんだよ。ちゃんと常日頃から、目的とか問題意識とか、目指すところとか情報開示して、透明性を確保して、共通理解にしておかないんだもん。そんなんだから、半六ちゃんが、ジョリー・ロジャーって単語でエキサイトしないんじゃない」
セレの指摘は至極真っ当だ。こういうときの正論ほど腹が立つものはない。
「うるせー」
と、保志はいきり立った。セレはにやにや笑って、あいあいへのコールを始める。自分が呼びつけるなら一度にこなせるが、保志は一度に一つの文章しかしゃべれない。
「あいあいは基本訓練だからねぇ。東京でそんなに日常茶飯事でSAT制圧活動してないだろうから、きっと今日が三分の一稼働日じゃなくても、すっとんで来てくれるよ。だったら、まあ、前ンときのメンツだし、いいじゃん」
SSCのコール音が壁のスピーカーから聞こえる。迫神と違ってあいあいは出る気配もない。
「半六ちゃんもがんばってあいあいに絞られて、やっとデビュー戦できそうだっていうのに、間が悪いよね」
「そういう問題じゃないかもしれねぇ……」
保志は難しい顔をしていた。
「どういう問題?」
「あいあいも出撃中だったら……やべぇってことだ」
「……?」
あいあいはまだ出ない。
「ジョリー・ロジャーのやつ……。こっちはやつをおびき出したつもりだけど、やつは、用意周到に俺の仕掛けを逆手に取ってきたのかもしれないってことだ」
「意味分かんないよ……どういうこと?」
セレが途方にくれたような反応を示す。
TAIにこういう反応を示されると、保志は正直、人工知能の限界を感じる。データは自分など足の爪先にも及ばないほどたくさん持っていて、それを同時並行処理で扱えるほどマッシブな演算力を持ちながら、こんなに簡単な因果律に直感が働かないのだ。
「俺は輸送ルートを押さえれば、やつはいずれ鉱山に手を出すと言ってただろう? で、そのいざというとき、あいあいと半六と、お前、飛閃とフル体制で挑めるって、そういう皮算用をしてた。皮算用って意味分かるか?」
「タヌキぐらい知ってるよ。で?」
「今まで弱気の後手後手対応しかできなかった、弱腰のバッパーがなぜ人手も足りてないのに、仕掛けてくるのか。仕掛けられた気配が分かれば、そいつにほいほい乗る前に、普通の人間って奴は、なんで向こうがそうしてくるのか、考えるんだよ」
ここまで説明してもセレにはピンとこないようだ。保志はもどかしかった。
「つまりな、裏で繋がってるのか、それとも別口かしらないが、あいあいがここで名前を売ったのは、ルテチウム鉱山の一件だ。鉱山に手を出してバッパーが珍しく現場を制圧して、ついでに火星にいたコントローラーの逮捕に至った。ここいらじゃ新聞社がネット配信なんてしてくれねぇが、その気になれば誰だってあれについてはくっちゃべってくれる」
あいあいへの呼出し音は続いている。
「人間は誰だって勝利の経験にはつけあがり、敗北の経験には萎れる。俺はルテチウム鉱山で天狗になって、同じ勝利の状況に持ち込もうとしたが、ジョリー・ロジャーも自分の勝利した状況に持ち込もうとする。あいあいと俺たちでチームを組んで、俺たちは勝った。半六判事がそういう意味で戦力になるかどうかは、さすがら向こうさんにもデータがないだろうが、ジョリー・ロジャーが人間ならこう考える。少なくとも前に、バッパー保志とガチ対決したときは勝った。バッパーが勝ったレアケースには、SATの現役隊員の相澤がいた。もう一度勝ちたかったら、SATの現役隊員で難物の相澤を足止めする。迫神は、少額訴訟で現場の助っ人、ジョリー・ロジャー対策が相澤だと見きれば、相澤を足止めしてから、やってくる。そしたら、勝った時と、前の時と、同じ状況に持ち込める」
「あ……」
漸く、セレは保志が言おうとしていることに気付いたらしい。
「そうだ。俺たちだけなら、俺が四ツ裂きにされた、あのときと同じ状況だ」
「……ろ、ろくちゃん」
セレが棒立ちになった。
「セレ、あいあいコールはなしだ。SSS(SATサポート・スタッフ)の金城さんにコールだ。あいあいが出動してるかどうかと、出動していたら、どんな事件で出張ってるかをちゃんと聞いてくれ。膠着状況が間違いないような事件であいあいが取られてるなら、あっちの事件も、ジョリー・ロジャーの親玉と繋がってる可能性がある。その場合は、金城さんに、その可能性をちゃんと言ってくれ。その上でオマルの雑賀さんから、改めて桜田門(警視庁)に相澤をこっちに回してもらえる様に頼んでもらって」
「アイサー。で、ろくちゃんは?」
「イットルビアの鉱山にジョリー・ロジャーのケツを持ち込んだのは俺だ。逮捕にいくに決まってるだろう? シンクロナイザー・スキャナ・スタンバイしてくれ。イットルビアに先に行く。宮崎さんに、装備の準備してもらってて。あと、飛閃を鉱山まで移動させとけ……時間がない……」
「……ろくちゃん」
「なんだ?」
「オイラたち……勝てるよね」
「分かるか、そんなもん。行くぞ」
普段、セレや迫神が出て来る壁面に埋められた棺桶は、棺桶だけに、ちゃんと走査器の機能も当然もっている。保志は縦置き棺桶の扉を開けると迷わず飛び込んでスタート操作をした。
かすかな動作音。聞き慣れたアドバイス・ボイス。目を閉じる。スキャナーが今の彼を忠実に読み取っていく。ちらっとソロプレイなら飛閃にアバタドライブするべきだったかもという考えが頭の隅をよぎったが、飛閃で坑道に突っ込めば、それだけで設備を破壊しちまうだろうと思い直した。アクション映画でもあるまいし、総合司法官が官給品で私有財産を破壊するのはご法度だ。第一戻るにも時間が勿体ない。飛閃はセレに任せるしかない。
そうすると、あのときと状況は同じだ。自分がシンクロライドして突入し、セレが飛閃を操ってバックアップにたった――そう、ジョリー・ロジャーに引き裂かれた、死に様を味わって敗北を喫した――あの日と。
――あいあい、ただの訓練中であってくれ……。
棺桶の中の自分の祈りが、果たして神様に届くのかどうか、保志には分からなかった。
* * *
言葉を尽くしても、尽くしても、自分の声を大きくすることだけに配慮して、相手の言葉に耳を傾ける気がないと決して噛み合うことなどない。証人二人と被告本人、三人を連続で実質三時間半、休憩を挟んで四時間。言い分の矛盾も、時系列の混乱も、事件から五年もたっていれば、「記憶を基に証言」するしかないのなら、はっきりいって狂ってきて当たり前だ。
最初から理解点がないのに、時間をかけてすれ違いの溝を決定的に広げていく。すればするほど、時間をかければかけるほど、どちらも鬱屈をためていく。
国連準拠の考え方でいけば、そもそも公判までこれだけの時間を経過していることが違法なのに、国内で仕事をするかぎり手続と手続が無為に時間だけを積み上げていく現状に、目を瞑らなければやっていけない。
多分、迫神だけでなく、ペーパードライバーならぬ、国内限定一種持ちならばともかく、国際法廷で国連準拠裁判をしたことがある者なら、その乖離にとまどいは深くなるばかりだ。
被告にも原告にも、当たり前だが双方の言い分があり、双方の正義がある。だから、自分は法に照らして、法が正義とするならば、こうなるということを分かりやすく、しかも説明しなければならない。
一つの事件にじっくり付き合えれば、まあ違う対応も可能なのだろうけれど、余程の事件でなければ、その都度思い詰めていたら人間が壊れてしまう。
取りあえず、迫神は宇宙の彼方にある、もう一つの日常のことに意識をもっていくことにした。
「ねえ、後藤さん」
迫神は、この中で一番年長だからというからでなく、雑学大辞典と渾名される博識に信頼を寄せているという故をもって、後藤に話し掛けた。狭いわけではないのに、この通路は音が非常によく響く。
「何だね?」
「ジョリー・ロジャーって……なんでしたっけ。後藤さんならご存じですよね」
「ジョリー・ロジャー? ああ、あれだ」
「あれといいますと?」
質問が正答へ至るまでの回路より、それを脳から口の運動指令までの回路の方が長いのか、後藤はしばらく、あれだ、あれだと指を振っていた。それから、やっと、どうにか一つの言葉になった。
「海賊旗」
「え?」
「海賊旗だ。髑髏マークに、ほら、大腿骨でバッテン書いた毒薬マーク。ほら、宝島とかの絵本の挿絵で、海賊船が掲げてる、あの旗だ。もっとも……あれは、いざ鎌倉マークだから、普段からそんなものを揚げていたはずはないんだがね。まあ、娯楽というものは分かりやすさが一番だから、江戸町奉行所に看板がなかったのと一緒で分かりやすさに史実が蹴飛ばされて常識化」
「……海賊?」
――出た、出た、出たっ
あのとき出たのは、三池炭鉱に月じゃなくて、イットルビアに海賊か。
――いいから、さっさと全部うっちゃって来てくれ。
あれ、もしかして、保志総司官からの非常応援要請だったのか?
「後藤さん、ありがとうございます。ちょっと急ぎますので、失礼」
裁判官がここの通路を走るなど以ての外。迫神は軽く会釈すると可能な限りの早足で自分の携帯電話に目掛けて突進した。
電源を入れて、通話履歴のトップ。コール音半分で、会話が繋がった。この素早さは保志ではありえない。
「セレ? 済まなかった。保志総司官は今電話に出られる状況か?」
――半六ちゃん、ごめん、お願いだからすぐ来て。オイラじゃ動けない。
聞こえてきたのは半分ベソをかいているようなセレの声。
「機械の癖に泣くな。どういうことだ?」
――オイラ、人間に発砲したり、攻撃したりしようとすると、すげー動作決定に時間かかるの。オマルのホストとSSCで完全同期して、適正かどうかを一々許可もらわないと次のステージいけないし。ろくちゃん一人で坑道の入り口、なんとか封鎖してるけど、もう四時間近くたつし、絶対限界。人間、そんなに集中力続かないもん。
どうやら鉱山への立て籠もりが発生しているようだ。もう一人の頼もしいレディの顔が、速攻で浮かんだ。
「あいあいは?」
――ニュースつけてみたら絶対生中継やってると思うけど、小学校に武装したアバタロイドが乱入して、そっちにSATが出動してる。桜田門はオマルの要請なんか、屁としか思ってないんだ。
「落ち着いて、セレ。あいあいは手が放せないで、保志総司官が一人で坑道に湧いて出た海賊を逃がさない様に、坑道の入り口を封鎖してるんだな。で、お前は生存権優先順位のせいで、実質戦力外と、そういうことか?」
――そう。
「分かった、すぐ行く。タクシー飛ばすから、あと三十分後、とりあえず派出所にシンクロライドする。それでいいか?」
――だめ。今、半六ちゃんの棺桶、ろくちゃんが入って、ライド中。
「あいあいの身体は? 大は小を兼ねるだろ。足りない分にはどうしょうもないけど、材料余る分には何とかならないのか?」
迫神は次善を探して頭をフル回転させる。
――だめ。全然桜田門はこっちのことなんかどーでもいいのか動きないんだけど、一応、オマル経由であいあいの出動要請だしてるんだ。許可が下り次第、転送先をこっちのボディに変えてもらえるように、あいあいの身体は受信スタンバイしてSATの転送器にチャンネル合せてる。
「じゃあ、どうしろって言うんだ? いけないじゃないか」
――飛閃に乗って。できる? シンクロライドじゃない。アバタドライブ。
「飛閃……に、乗る? どうやって。乗ったところで操作は出来ないよ」
――飛閃はモーキャプで動く。身体の制御はオイラがするから、考えて動くのを半六ちゃんに頼みたいんだよ。
「モーション・キャプチャ? そんなのどこで出来るんだ?」
――コスモ・シンクロライド・トラベラーズ・ジャパンって会社、知ってるでしょ?
もちろん知っている。世界の入山規制がある名山への、シンクロライド・クライミングをコーディネートしている旅行代理店の日本店で、迫神の心のオアシスだ。
「あ? それは知ってるけど、あそこはシンクロライド専門の旅行会社だよ」
――そこの通りからみて右隣に、バーチャファイトっていうゲーム屋さんあるの、知ってる? データ上だとあることになってるんだけど。
隣はカラオケショップと、ボウリング場とゲーセンが入っている巨大アミューズメント・ビルだったはずだ。迫神自体は足を踏み入れたことなど当然ないけれど、バーチャファイトという名前から連想できるような、アバタドライブで擬似空間でのコッバット・ゲームができる施設ぐらいあっても、別に違和感はない。
「知らないけど、多分あると思う」
――オマルの強制執行権つかって、そこの一台借り上げて、回線をインターネットじゃなくてSSCにしたから、そこに行って。山手線ですぐ行けるでしょ? タクシーとどっちが速い?
迫神は途中で通話をハンズフリーに切り換えていて、法服を脱ぎ、ジャケット脱ぎ、そのついでに日常まで脱ぎすてた。財布とIDカードと携帯だけチョッキのポケットに突っ込み、走りにくい革靴を通勤用の運動靴に変える。
――早くきて、お願い。もう、こっちは限界……。
セレのその言い方は、色っぽすぎてやばい。まるで自分が恋人の少年を泣かせている様に受け取られかねないじゃあないか。迫神は遅れて部屋に入ってきて、呆れた様な目つきになった後藤、屋島両裁判官に泡を食って言い訳した。
「三分の一のTAIは、こういう感じでしゃべるんです。別に私用じゃありませんから」
どこまで信じたのか定かではないが、後藤は分かった分かったというように頷いた。
「……迫神君。あっちもこっちも忙しそうだね」
まったりと後藤が言った。
「向こうじゃ、左陪席(初心者)なんで、それなりに大変です」
迫神は正直に言った。自室の四畳半から宇宙の彼方へ出勤するのも、旅行会社の棺桶から山に入るのも慣れた。何か奇怪しいとは思うけれど、取りあえずそれを日常とすることに迫神の思考回路は設計完了している。
けれど、ゲーセンから飛閃にモーキャプで乗って、鉱山へ侵入している犯罪者の制圧に出動するというのは、どういう冗談だ?
「何だか取り込み中みたいだけど、……まあ、取りあえず、明日は予定どおり、こっちに出勤でいいのかな。日程調整も必要そうかな?」
後藤の問いかけに、迫神は考えるという思考を挟ませずに答えた。
「分かりません……。取りあえず、行ってきます」
迫神は、裁判所の敷地を出るまで走り出すのを我慢するのに、自制心を総動員しなければならなかった。
「半六判事が……、左陪席ねぇ……」
迫神が消えた扉を、あっけにとられた目つきでしばらく見ていた屋島裁判官が呟いた。屋島はもちろんここでの経験が一番浅いからこそ、左陪席の位置に座る。
後藤がうんうんと何度か唸ってから、思いついた様に親指を立てた。
「取りあえずは、行き先がどんな修羅場にしろ、ドラマのワンシーンみたいに、こういう感じでしょうかね、屋島裁判官……。グッドラック」
後藤のキャラクターに合わない、その仕種に屋島が小さくぷっと噴き出した。