11.イチゴの件
官舎スペースの方の一室を、保志は亜衣里の専用部屋にしてくれた。うっかり亜衣里が普段モードでトリップしてきても、回りが困らない様に、亜衣里専用の棺桶も、この部屋に運び込んでくれた。
あれからも、迫神は何度かトリップ直後に身体が九十度自動的に置き換わっていることをうまく脳味噌に刷り込むことができないらしく、迫神が思い切りよくこけるのを、亜衣里は幾度となく目撃している。シャツ越しに見える筋肉から推測すれば、うちの隊員にいてもおかしくないほどなの身体能力がアリそうなものなのだが、どうやらシンクロイド・ボディへのライドオン・オフには苦戦しているようだ。
あれを見るたびに、医者と保健監督官と、突入服のフィッター以外に障らせたことがない亜衣里の胸に、迫神の顔が埋まっていた瞬間を思い出してしまう。彼女はそれだけで赤面してきそうになる。
女の子であるという主張は、普段から大いに持っている亜衣里だが、成り行き的実際問題として、女の子としての経験が圧倒的に足りない。だから、あのシーンを思い出すとき、「気持ち悪い」だの「ぶち殺してやりたい」ではなく、「恥ずかしい」と心が動いていく段階で、脳味噌が勝手に迫神を好ましい異性に分類しているわけなのだが、全くその事実に気づいていなかった。
もっとも、思い込み的亜衣里仕様の異性等級基準において、地球重力圏内で、自分をお姫様抱っこしてバージンロードを歩けるほどにマッチョであることは最低ラインなので、迫神をそういう対象に思うことはありえないと、自己判断していたくらいだ。
だからこそ、迫神が傍にいるとき、妙に居心地が悪いのは、初顔合せのときの最低な成り行きの、副産物というか後遺症のようなものだと判断していた。
大体、迫神自体がまるで亜衣里のことを意識しているふうでないのが気に入らない。どうせデカイ女の中身が乙女なんて、しかも三十も間近に迫って家族チューの味しかしらない女なんて、存在してるなんて思ってもいないのだろう。
「迫神さん」
亜衣里が呼びかけると、迫神がゆっくりと端末から顔をあげた。
「次の問題できちゃいましたか? すみません、まだ、ちゃんと添削できてなくて」
迫神はいつも丁寧な言葉づかいをする。裁判官というのはそういうもので当たり前なのかもしれないけれども、どうにも調子が狂う。
迫神が、亜衣里の一種試験の個人教授を引き受けることになったのだって、いわゆる空気が読めない典型の要領の悪さに、間違いなく起因する。
* * *
挨拶を終えて、自己紹介も終えて、これで解散という段取りになったとき、一番最初のアレを、亜衣里はきれいさっぱりなかったモードで行動していたのに、よりによって、あやつは蒸し返してきたのだ。
「先程は、その……。……すみませんでした」
と。謝られたら……。なかったことにしたかった亜衣里にしてみれば、思い出すしかないではないか。こいつは、ド阿呆か?
「……何をですか?」
無理矢理、しらばっくれようとしたのに、言うに事欠いて、こう言ったのだ。
「その……イチゴの……件」
イチゴというのは、あの日亜衣里が着けていた買ったばかりの上下揃いの下着の模様だった。気分だけは女の子仕様の亜衣里だから、可愛いそういうものはもちろん欲しい。欲しいのだけれど、店に行ってもだいたいサイズがなくて涙を飲むことになっている。だからもっぱらネットの通販サイトが御用達のショッピングモールだ。
亜衣里が収まるサイズのそれらは、日本のサイトだと、どこのばあさんが着るのだというような、人生終わったようなものが多いが、ヨーロッパやアメリカなどのサイトは、十分に可愛いものが売っている。
特に、ビスクドール仮装事件以来、見えるところの服から可愛い要素を思い切って捨てて以降、逆に下着は可愛いいもの志向に歯止めが利かなくなっている。
最初は呆れていたらしい金城も、もはや何も言わなくなっている。
もちろん、棺桶に入るときは見てくれより実だから、普段どおりにおむつを着けようとはした。突入のためにライドするとき、自分が入る棺桶と可変筐体が入っている棺桶が並んでいる更衣室を使う。失禁も日常茶飯事だからシャワールームも当然あり、休憩するためのベッドもあり、自分のロッカーだけでなく、おむつのような消耗品も生理用品ともどもストックされている。亜衣里の部屋には、当然、まだまだ下が緩いわけでないから、個人持ちのおむつのストックなどあるはずもない。ついでにライド時間も長くなる予定はなかったし、ここが一番肝心なのだが、何よりも死ぬ予定がなかった。ので、まあそこまで用心する必要はないかなと、下着だけで飛び込んだ。死ぬ予定がないというところで、一歩思考を進めて、転送先で突入服を着なくていいというところに到達できなかったのは、やはり自分のミスだと亜衣里は思う。
でもあのとき、いつもとは違って、服を着て棺桶入りするということに、ちらりとも考えがいかなかったのだから、仕方ないじゃないか。
亜衣里は自己弁護する。あのとき、亜衣里の目の端に映っていた大人な保志総合司法官は、迫神の態度が間違いなく間抜けだということを全身で表現しているかのように、額に手を当てて天を仰いだ。ということは、保志総合司法官も、絶対にイチゴは視認しているに違いない。亜衣里は拳を握りしめた。二人まとめて、なぐりたい……、いや、ここは我慢だ。私は大人だ。
「……見たんですね」
亜衣里の声が自然と低くなった。若干赤面した挙げ句、穴があったら入りたいとでも言うような気弱な感じで、迫神が俯く。頷くだけの根性もないのか、とか、そんなに見たくなかったんですかとか、思いが暴走し猛烈に腹が立った。
いみじくも古人は、こんな間抜けな行動を嘲笑ってこう言った。
――雉も泣かずば射たれまいに……。
亜衣里は迫神の脳天をぶん殴る代わりに、自分が作りうる限り最大限に可愛らしい笑顔を作って微笑んだ。乙女の下着姿を堪能した責任はとってもらおうじゃないか。
「私は、精神的に損害を受けました。貰い事故でも、事故は事故。加害者にはきっちり責任取っていただきます」
「……え?」
人が折角スルーしたものを、態々蒸し返してきて、「いえいえ、気になさらないで」などという言葉を貰えると思ったら大間違いだ、このタコ。亜衣里は、もう一段階、笑顔の強度レベルを上げた。
「視界に入ってなかったと言い訳しても、車で歩行者に突っ込んだら、運転者に注意義務違反があったと……それで間違いありませんよね。迫神裁判官」
「あ……はぁ、まあ」
それとこれとは話が違うだろうと、その目つきが語っていたが、知るもんか。ごめんといえばなんでも許されると思ったら大間違いだ。「ごめん」とうっかり言ったがために、裁判で言質を取られてえらい目に遭ってる人間なんて、厭というほど見ているだろうに、応用の利かないやつ。
「でも……責任とれって、何もしてないし……」
「何も?」
亜衣里は視線に力を込める。伊達に日常茶飯事で凶悪犯と銃弾で会話しているわけではないのだ。彼女の視線の力は、はっきりいって強かった。
「え……いや、まあ……すみません」
視線に押し出されてしまったのか、多分自分が悪かったとは露ほどにも思ってもいないはずなのに、もう一度迫神は謝罪文句を口にしてしまった。亜衣里は思った。人生に挫折もなく、きっちりお勉強はできて来たのかもしれないが、間違いなくこいつは阿呆だ。
「『無料』で、司法試験一種対策に協力してください。それで『イチゴの件』は、なかったことにしてさしあげます」
「あ……はい、ありがとうございます」
やっぱりアホだ、こいつは――、と思ったのは、亜衣里だけではなかった。そして、その会話で保志は確信した。三分の一チームの職業訓練生二人の、訓練期間における力関係が決まってしまったのを。人間の社会的上下関係ってもんは、出会い頭のカマシ合いの結果がホントに重要だよなぁと、保志はつくづく思ったのだった。
* * *
「いえ、そうじゃなくて、根本的なところを教えていただきたくて。あの……、一種ってUN準拠じゃないですか」
「うん、そうだね」
国連の愛称が、日本語の相槌とほぼ同じ発音というのは困ったものだ。うっかり亜衣里は笑いたくなる。けれど、迫神は至って真面目な顔をしているので、笑うのも憚られる。
「結局、国内法の考え方と、UNの考え方が乖離する場合って、日本人の場合、UNの解釈って納得できないというか、なんかしっくりこないんですよね」
「……まあ、そうだね」
「日本人同士の訴訟の場合、総合司法庁の親方がUNだからって、一種の解釈をねじ込むのって、なんかしっくりこない気がするんですけど。迫神判事も実際、ずっと東京地裁で二種準拠でやってらっしゃるでしょ?」
迫神が、ふむ……、というような微妙な間を置いてから、亜衣里に向き直った。
「結局、一種と二種の違いっていうのは、便宜的なものだと思って間違いないと思うよ。つまり私たち裁判所は」
亜衣里はまた笑いたくなる。なんで、裁判官という人種は、自分のことを『裁判所』と呼ぶのだろう。自分がする判断には私見は交えていませんというアピールのつもりなのか、それとも単に慣習がそうであるから、何も考えずに使っているだけなのか。
亜衣里が笑いそうになっているのに気付かず迫神は続ける。
「一人ひとりが、厳密に、だれの判断を仰ぐことなく、自分の判断で法律と向き合って判断を下さなければならないだろう。それは近代以降の裁判は、自由心証主義を基本にするから、事実認定に関しても、証拠評価に関しても、寄り掛かる先は法のみになるというか、そうしなければならない。裁判はそれに関わった人間の人生を正しもすれば、狂わせもするからね。それによっても何も変わらないっていう、最低のケースもあるけど」
つい、中身を考えずに、その声にうっとりしそうになって、亜衣里はこれはまずいと気を引き締めた。この低めの落ち着いたトーンで、澱みなく出て来る言葉は何とも耳に心地よく、うっかりしていると音に酔ってしまっていて、肝心の話の内容が理解できていなかったりする。
亜衣里が出掛けていく先の保安官事務所でも、滑り出しの迫神判事の評判は上々だ。いい判事さんが来てくれて有り難いと、そんな感じだ。
パトロールと称した、観光のようなものばかりしている亜衣里には、モニター越しには顔見知りもだんだん増えてきているし、戦うことも死ぬことも今のところないし、非日常の観光モードと、一種のお勉強に専念できる楽しい日々を過ごしているわけだが、一方の迫神は東京地裁に出勤していたのを、国連総合司法局イットルビア地区派出所小法廷(司法局派出所に大法廷はおけない)に出勤しているようなものだ。
――ここに慣れるまでは、現職での経験を大いに活かせるような仕事を割り振るから。
という保志の方針は分からないでもないけれど、傍目には、どうにもうっかりため込んでしまっていた訴訟・事件を、迫神にほいほい押しつけているようにしか見えない。総合司法官という響きとは裏腹に、現状は小さい裁判に追いかけられるのだろうか。だとしたら、気が重いことだ。
自分も無事に一種持ちになって、保志や迫神がやっているような裁判官としての仕事ができるようにならなければとは思うけれど、正直、どうにも気合いが入らない。
「相澤さん……、聞いてる?」
まじまじと見つめられて、亜衣里は焦った。声に聞きほれていたなどと返したら、どういう反応が返ってくるか知りたいわけではないのだ。
「ええ、もちろん」
保志は亜衣里のことを、どこで調べたのか「あいあい」と呼んでくるが、迫神は仕事中でなくても、苗字にさん付けという無難モードだ。どうやら亜衣里とは、必要以上に親しくなるつもりはないらしい。
仕事仲間には命を預けるのが基本でやってきた亜衣里には、どうにも迫神の距離のとり方が他人行儀な気がしてならない。それはもちろん、実際のところ他人なのだけれど。
亜衣里は必死に迫神が何を言っていたのかを思い出す。
「自由心証主義を採る以上、裁判官が頼れるのは法のみというところまでは納得しました」
耳に残っていた断片を切り貼りして、無難だろうと思われる答えを紡ぎだす。迫神がにっこりとしたので、それで答えがちぐはぐではなかったのだと、ホッとする。
「まあ、あとは増えていくばかりの判例データベースもですけどね。それで今までは建前の話です。ここからが、相澤さんの疑問になっている箇所なんですけどね……」
私の疑問って何だっけ、と亜衣里は情けないことを考えながら、迫神にではなく、迫神の説明に意識を集中させる。
「ああそう、刑事事件は別ですけどね……、人間の記憶って、本当にその人のために、すごく簡単に書き換えられてしまうものなんだと……私は思うんですよ」
「……え?」
迫神が言い出したことが、余りにも亜衣里の予想と違う方向だったので、彼女はとまどった。亜衣里が聞いたのは、日本という国の地方の法がよしとすることと、国連司法庁準拠(UNJAC=The United Nations judicial agency conforming)の法の正義に矛盾があるとき、どうするのかという素朴な疑問だったはずだ。それが記憶?
「今現在の記憶に従って、嘘を言わない宣誓をしてもらいますけどね、あれが結構曲者なんですよ。意外と人間って、すごく簡単に、日常的に記憶を自分の都合のいいように捏造してしまうものなんだって思いますよ、私は。両者の証言が全く違うととまどいますけど、だからといって彼らにとっては、嘘じゃあない場合が殆どなんです。もちろん、恣意的にも、故意でも、つこうと思ってつかれる嘘もありますけど、例えば離婚の裁判とか、敷地の境界の争いとかね……、双方嘘を言っているつもりはないんですよ。相手が嘘をついていると思ってもね」
亜衣里は、迫神が何を言おうとしているのか分からない。
「だからね、証拠となるものが確かに出てきて、自分の間違いを指摘されると、すごく戸惑います。相手の言い分を聞いて、自分を主張して、頑なになったり、怒ったり、女性だと泣いたりするでしょう……。だけど、当事者でない中立の立場にある人間が聞いて、冷静に公正に判断してくれれば、自分が正しいと言ってもらえるはずという確信があるものが訴えを起こしてるんですね」
「迫神さん……私の質問、分かってらっしゃいます?」
たまらず、亜衣里が言うと、迫神はもう一段階深まったようにみえる笑顔を見せた。
「まあ、我慢して聞いて。ちゃんと質問のところに帰るから。裁判官は本筋としては、法にしか相談できないんですけど、個人の主張と、その個人が帰属する社会の通念との間に、余りにも齟齬がある場合、世界がみんな敵になっちゃうんですよ。だから、正義と思われるものを味方に欲しいんですね……結局のところ。お金が欲しい人も多いですけど、お前が正しいって、それを証明したいという人も意外といる」
亜衣里は一生懸命聞いていた。その一生懸命は、亜衣里としたら、どちらかというと、ともすれば、迫神の声に聞き惚れそうになるのを、必死に文脈に集中力を合せようと頑張っている一生懸命さだったのだが、そんな区別が迫神につくはずもない。
職業柄、正義であると信じなければならないことを、控えめに主張ばかりして、自己主張そのものを表立ってすることは、迫神にはあまりないし、裁判の現場というのは、どちらかというと、これでもかという自己主張を聞き続ける方にウェイトがある。
亜衣里の気持ちが真っ直ぐに向かって来るのが、迫神には何ともいえず心地よかった。そして心地いいと思うと、イチゴの一件がどうしても思い出される。
迫神も思う。冷静に考えれば、相澤さんは、どうしても残るバツの悪さを流そうと最初してくれたのだ。だから、態々謝ることはなかったのだ、きっと。だけど、バカ正直に謝ってしまったから、なかったことにできなかった。
法を他人の人生に押しつけるプロのくせに、どうして自分はこう、日常生活におけるとっさの判断スキルが低いのだろう。
相澤さんは、きっと普段も真面目で、機転も利いて、視野も広いに違いない。だからSATなどというどう考えても危険な部隊で、自分の役割を見誤らず、仕事をきっちりと果たせるのだろう。
それにしても見事に豪勢な大きさだ。実際に手合わせしたことはないが、自分が得意とする実戦知らずのスポーツカラテなど、やってみても太刀打ちできないかもしれない。実際にやってみたら、どうなんだろうかと、うっかり考えたとき、別の文脈のやってみるがつい脳味噌を過って、ついでに、シミュレートしそうになって、自分の下衆さにうんざりする。真面目な法解釈に対する自説をぶち上げているというのに、どういうことだ。
これも、絶対にイチゴの一件のせいに違いない。迫神はつい勢いで半分までいってしまった妄想を何とか食いとめた。ステディな相手に不自由してる男なんてのは、本当に情けない。
あのとき……、何だか分からないうちに、顔が柔らかくてめちゃくちゃ気持ちいい感触の中にいることに気付いたとき、イチゴ模様が目の前で踊っていたのだ。イチゴは好きだから、うっかり「ああ、久しぶりにイチゴ食いたいな……」と思ったのが、いけなかったのだ。この先も食べることはないだろう相澤さんまで、食ってみたいと、脳味噌が勝手に思い込んでしまったようなのが、まったく我ながら始末におえない。
向こうにしてみても、冴えない男に、美味しそうと分類されるのは心外だろう。
けれど、迫神の冷静な部分は、真面目な話を続けていたが、そうでない部分で、――顔や手は焼けてるのに、胸はイチゴが似合うほど白かったよなぁ――とか、――この子、睫毛が長いなぁ――などというような、亜衣里に向かう、どうにもサカリがついてるといった色彩が濃い思いが湧いて来るのを止めようがなかった。
「その人が所属している社会の一般的価値観は……」
真面目でない亜衣里と、真面目でない迫神の中央で、真面目な迫神だけが、一人頑張って能書きをたれていた。