赤薔薇の女王
────遡ること数日前。アストリアでは再度、神の塔ことダンジョンへの侵攻が行われていた。
前回のダンジョン遠征の成果もあって、塔の制圧はほぼ済んでいる。
だが、最後の一ヶ所。
最上階の神殿だけが突破できない。
それは偏に十一体の模造女神たちが封鎖しているからだった。
元ダンジョン、塔の制圧はアストリアにとって急務である。
それは国民の畏怖の対象であり、周辺諸国の緊張状態の元凶でもあるためだ。
しかし再三にわたる突入の後、それは今回もまた失敗に終わっていた……
「また、失敗か……」
「散華。今は放置して他に目を向けるべきかもしれません」
「ですが姉様……」
「彼女達もあれ以来、動きを見せてはいません。何かを待つように……」
散華は封鎖された大扉を見遣る。この先の階段を登れば神殿がある。
そこまでは確認できた。だが、そこから先へ進めない。
姉の言うように危険が無いのならばそれも一つの対応だろう。
「アイリスのように、できれば助けたかったが……」
「あの数ではそれも難しいでしょう……」
黒の魔女でさえ、不死者の軍勢を駆使してどうにか封印に持ち込んだと聞いている。
「打開策がない以上、そうするしかないか……」
最上階への大扉を前に歯嚙みする。やむを得ず監視を置くだけに留めて撤退する。
模造女神たちは神殿を荒らさなければ興味はないらしい。
そのため死者こそ出なかったが、踏み入った者には多くの怪我人が出てしまっていた。
ただ、蓮華と散華は別で、入れば問答無用、執拗に狙われることになった。
「その辺りはソニアとアイリーンの報告の通りか……」
「神の血に反応しているのですね……」
神そのものを降ろしたアストライアほどは危険視されていないようで、神殿にさえ入らなければ狙われることはなかった。
「彼女達のことは後回しにするしかないようだ……全軍撤退!」
再三にわたる攻撃も失敗に終わり、断念せざるを得ず撤退する軍団だった……
だが、皮肉にも塔の攻略の糸口は帰還した城で待っていた。
その薔薇の男は他国の爵位を示して堂々と入国していた。
そうなればいかに怪しい男でも正式に対応せねばならない。
忙しく帰還したての鎧姿のまま、玉座に腰を下ろした散華は待っていた男に問う。
「ローゼンクロイツ卿と言ったな? その話は真か?」
「もちろんです陛下。我等、帰還者と呼ばれる者達の間にそのときのために伝えられた物語です」
男が語ったことはこうだ。
神々と争うことを決めた彼のいにしえの魔導大国は一つの事例を参考にして、その計画を立てた。
その参考にした事例というのが遙か昔の勇者と魔王の戦い。
魔界と呼ばれるほどの魔素の吹き溜まりを構築した彼らには謎が多い。
まず、一介の人間にそのようなことが可能なのか?
誰かのあるいは何かからの援助、援護があったのではないか?
つまりは神と通じていたのではないか……
そうした諸々の研究の後に、完成されたのが転移門であり、あの神殿だという。
また魔界では一つの言い伝えがある。
かつての魔王が散った血によってそれは生まれた。
赤の書……
その正統継承者が導きの魔王であり、魔族の不遇を解放するという……
いわゆる救世主伝説である。
大昔の話ではそれらが本当かどうかは、もう証明のしようは無い。
重要なのは今も魔族がその話を信じていることだ。帰還者と名乗る者たちがその手を取ったことだ。
赤薔薇によってすでに筋道は出来上がっている。
であれば男の仕事は確信を持ちつつ、あとは辻褄を合わせるだけ。
「赤の書を持った魔王の復活。それによって世界の再構築を成し遂げようとしたのが、およそ千年前の新世界計画と呼ばれるものの要だったようです……」
「つまり……?」
「必然的にその赤の書が帰還者には伝わっておりまして……」
男はそれを取り出した。
毒々しいほどの真赤な装丁の本。禍々しいほどの魔素を放つ魔導書だった。
赤の書である。
「すなわち、これこそ模造女神たちを制御するための制御装置。我らはこれを託すに相応しいお方を待ち望んでいたのです」
恭しくそれを差し出す薔薇の男。
「どうぞお収めください。陛下、貴女にこそ、これは相応しい……」
それは見るものの目を奪わずにはいられない。興味か嫌悪かを別にして……
薔薇の男はそれを差し出し、眼前の王へと献上する。
話の内容はともかくとして検分の役人が傍から進み出るが、男はそれを制した。
「これは大変、危険なものでありますゆえ、是非とも陛下に直接お取りいただきたく……」
「なぜ私に?」
会ったこともない男に、突然そう言われては誰もが不審に思う。それは散華とて例外ではない。
「共鳴とでも言いましょうか……主を求めているのです」
だが、その行為は無礼であり、過去にそうした暗殺が行われたのは歴史上数多くある。
さらに言えば、逆にその話が本当であるなら散華に「魔王になれ」と言っているのも同義である。
必然的にそれに反応したのは蓮華だった。
「その者を捕らえよ!」
藤乃とツヴェルフが散華と蓮華を護るようにして、それに反応した近衛兵たちが進み出る。
だが男の態度は変わらない。
「ふふ。どうぞご随意に。抵抗はしません。ですがこれがここにある事実。すでに私の役目は終わりました」
「それはどういう……」
「貴女はすでに魅入られている。共鳴とはそういうことです」
余裕を見せる男。男は知っているからだ。
他の誰にもこの書が心を開くことはないことを……
だが、それは男にとっても一つの賭けだった。
仮に散華が魔王として赤の書に認められないなら、どちらも共に命はない。
そうした中、毅然として動いたのは王だった。
「姉様、大丈夫です」
王の言葉に、近衛兵たちも挙動に迷いが生じる。
散華は玉座から立ち上がると、やおら壇上から降りる。そのまま男の前まで進み……
「散華!? お待ちなさい!」
蓮華の静止も聞かず、散華はそれに手を伸ばしてしまう。
どうしようもなく、分かってしまう。
確信を持って通じるものがある。思えばあのデュラハンの一件から散華の中には生じていた。
神獣の叫び、そして父親の死……明確に強くなる一方のその想い。
それはまさしく「悲憤」だった……
大切なものに触れるようにそっと手を伸ばす。
嘆き悲しむそれに救いを与えられるのは、きっと己以外にいないのだ。
散華の瞳はどこか恍惚と妖しく映る。艶めいて色香さえ漂うような姿に一同は平伏する。
「ああ。これは……私のものだ」
赤の書と同調するように、散華の意識は自然とそんな言葉を漏らしていた。
「素晴らしい……」
心を奪われたように言い、ひれ伏す薔薇の男には誰も目をくれない。
皆がアストリア女王陛下の一挙手一投足を注視する。
見た目に何か変化が起きたわけではない。
それでも女王から目が離せない。溢れ出る覇気のようなものが一段と増して見える……
それが言い伝えの魔王の復活であったのだろうか……それは誰にもわからない。
だが、それでもそれは何か大いなる者、言うなれば真の意味での「赤薔薇」が誕生した瞬間だった……
「姉様。世界が間違おうとしているのに、私まで間違うのは正しいことでしょうか?」
赤の書を手にした散華は姉に問う。
「正しいことを正しく貫けない世の中で良いのでしょうか? 少なくとも私たちの国はそうではないことを示さなくてはなりません。ここはアストリアなのですから……」
正義の女神の名を冠した国ならばこそと訴える。
「ですが……。いえ、わかりました……」
蓮華はそれ以上、何も言えずに引き下がる。彼女とて現状に憂いがないわけではない。
散華はもはやそうしたことに妥協できない。双樹の死は彼女をそうしたものに縛りつけている。
今は謁見の最中。下手に動けば皆が動揺すると知っている。
さらに神の塔の一件で、今この国は特に注目を受けている。
些細なことでも命取りになりかねない。隙を見せるわけにはいかない。
それでも立ち向かってくるというのなら正々堂々と打ち倒す。たとえどんな結末を迎えようと……
それが華咲の流儀だ。姉妹の暗黙の了解である。
散華は平然として玉座へと戻ると、平伏す男へと問う。
「ローゼンクロイツ卿であったな? 献上の品、確かに受け取った。返礼の品を渡そう。私に何を望む?」
平伏する男が感嘆し、感動したのは本心からだ。
友への友情と義侠心を別にして、彼なりの忠誠を赤薔薇の女王へと誓う。
「願わくは、世界の救済を……」
†
謁見が終わり、城門へと急ぐ薔薇の男に声がかけられる。
「またも悪だくみかね? どうやら私の部下からの忠告は聞き入れられなかったようだ……」
男は立ち止まらざるを得ない。逃げることが適う相手ではないことを知っている。
弁明はせねばならないだろう。
「貴方と争う気はありませんよ。犯罪王。片側だけ道を譲っていただけると助かるのですが……同じ帰還者として……」
黙ってそれを聞いているのは犯罪王と呼ばれた男。このアストリアでは教授で通っている。
「それに元はあなた方がやり残した仕事でしょう? 邪魔されるいわれは無いはずですが?」
「……世界を二分する戦いに巻き込んでおいて、邪魔するなというのもおかしな話だと思わんかね?」
薔薇の男は降参と言うように手をあげる。
「私が死んでも、もう止まりませんよ?」
「……だろうな」
「逆に世界の命運を一個人が制御してしまうのはどうかと思いますがね? その結果が現状だと思いませんか?」
教授はその問いに瞑目して答えた。そんなことは言われずともわかっている。
「私の行動が世界へ影響を与えすぎる点は自覚しているよ。だからこそあの翁も引退を宣言したし、私も基本的には動かない」
「であれば尚更見ているべきではありませんか? 一人の男が成そうとする大業を……」
その言葉を聞いて教授は考えるように沈黙した。断罪されるような気持ちで薔薇の男は言葉を待つ。
「やはり黒幕は貴様ではないか……良いだろう。好きにしたまえ」
「……感謝しますよ」
許可され解放されたことに男は安堵する。
生死はともかく、ここまでお膳立てをして結果だけが見られないのでは、それは酷いし悔いが残る。
案外、相手もそれを見てみたくなったのだろうか。
互いに釘を刺す形で、両者は別れるのだった……
教授は男が立ち去る姿を見送る、そして天を仰ぐようにして王城の天井を見る。
その視線はさらに先にある何かを捉えている。
「蒼炎よ。これは君への恩返しだよ……」
教授はそれだけを言葉にして残した。




