茨姫
呆然自失していた……。
私が師匠を殺した……。
私が……?
現実逃避するように思考がまとまらない。
抱き留めた師匠の身体からは急速に熱が失われていく……。
返り血を浴びた手からはナイフがこぼれ落ちていた。
アストライアが近づき、傍らに膝をつくと師匠の顔へと手をのばす。
この世の未練から解き放たれたように静かに眠る師匠の美しい顔を撫でている。私は無警戒にそれをぼんやりと見ていた。
呼応するように師匠の身体から魔素の光が溢れ出す。命の灯が消えていく……。
わかってしまう……それは冥府への階段を降る音。
昔、お婆ちゃんを看取った時と同じ……。
やめろ……。
「哀れな末路ですね……」
やめてくれ……。
「ですが美しい愛でした……」
そこに込められたのは怒りか悲しみか……。
独白するようにアストライアは続けた。
「知ってますか? 発端はあなたですよ? あの日、あなたが神獣を倒した日。神々は神託を降しました。それが七識の書の回収。神々はその強大過ぎる力故に下界へ直接手は下せません。そこでああした神獣などを用意するわけですが……。誰かの思惑があったにせよ、それが暴走したのは不幸な事故でした。ともかくそれが一つの契機になったことは確かです」
なんとなく察してはいた。私が原因だと……。
「魔女を殺して七識の書を回収するだけ。簡単なお仕事です。裏切り者さえ出なければね?」
師匠を苦しめたのは私だ……。私の為に師匠は傷ついて……。
「アイリーンに免じて見逃してあげます。黒の書を渡しなさい」
それは慈悲だったのだろうか……。
私の中で何かのスイッチが入る。
ふざけるな……。
ふざけるな!
認めない! こんなものは認めない!
「師匠は渡さない……」
「何です? 私は黒の書を渡せと……」
私は激昂していた。
「誰にも渡さない! たとえ冥府の女神であっても!!」
神々などにこれ以上、師匠の魂を穢させない! 穢させてはならない!
「チッ! おかしくなりましたか!? いいでしょう。ならば引導を渡してあげます。冥府でアイリーンと暮らしなさい」
「渡さないと言った! 誰が冥府など行くものか!!」
「ガキですか。お話になりません……」
苛ついた様子でアストライアは腰の細剣を抜き放つ。
過度に装飾されたそれが私の命脈を経つべく迫る!
だがその前にドーム状にシェルターが組みあがるようにして、私の意思に呼応した青薔薇の庭が形を変えていた!
絶対に師匠を渡さない。その意思の下に……。
「チイッ……!?」
アストライアは苛立ちながらも躱すしかなかった。
私の周囲が強固な結界で護られる。その結界からアストライアは締め出されていた。
だが、この結界の本質はそこにはない。それは逃がさないための結界。
師匠の魂を逃がさないための……。
牢獄に閉じ込めるように……。
それはまるで聖なる柩だ。青薔薇に飾られた聖柩。
その中心で私は儀式を始めるように師匠の身体を横たえる。
ヒントはいくつもあった……。
黒の書、黒の魔女、不死者。
さらにノインに渡された手記の警告……「その魔法、大丈夫か……?」。その言葉と共にそこには魔法の恒常性について記されていた。そう、一時しのぎの魔法では駄目なのだ。
そして私はそれを知っている。それはエリスにあげた青薔薇だ……。
私は黒の書を持っている。私には使えずとも、これが不死者をつくったことはわかる。
黒の魔女にできて、私にできない道理はないはずだ……。
私がやろうとしていることは禁忌の魔法だ。人の世では絶対に認められない禁断の魔法だ。神に抗う魔法だ。
「応えろ黒の書!」
私は横たえた師匠の上に黒の書を置き、そこへ魔力を込める!
使えないはずの黒の書がなぜか反応した……。
黒の書が脈動するように師匠から溢れ出ていた魔素を止める。
いける! と私は確信していた。
だが、まだ方法が見えない……。
青の書・外典。思えばお婆ちゃんの施した封印を解いてなかった……。
きっと今がそのときのはず!
その封印を解く。暴走するように青の光の奔流が溢れ出した!
私はそれに包まれて……。
私は私の中に青の書を見ていた……。青の書・外典はスペアだと思っていた。だが、正確にはどうやら鍵のようなものだったらしい……。
暗号を解読するようにそれらは密接に絡み合う。それを精査する。照合する。
その一字一句を覚えている……
何度手に取ったか知れず。
何度読み返したか知れず。
アストライアに取られた物とは別にして、青の書は私の中にある。記憶の青の書だ。
私の中で青の書の記憶と外典が混ざり合う。
第一章照合……完了。
第二章照合……完了。
第三章……完了。
第四、第五……完了。
……第十章……。
……完了。
私の中で青の書が完成する!
そしてそれは今まで見えていなかった第三の書の形を明確にする……。
眼前に膨大な魔素が青く輝き、集約して形を成す。
その第三の書を私は手に取る。
解放────
『青の禁書』
†
気付けば私はその場所に居た。
心が象る光景……。
その泉は青く澄み渡る。星空は湖面に反射して明るく神気を帯びている。
畔には青薔薇が咲き乱れていた。
「ここは……」
綺麗な泉の畔に女神が一人。流れるような銀の長髪が美しく靡いている。
その美しい泉の女神は私に語りかけてくる。
「来てしまったのですね……」
「貴女は?」
私の問いに女神は応えなかった。ただ悲しそうな顔が印象に残った。
泉の女神は続ける。
「……ここは知恵の泉」
「これが……」
現実離れしたその場所はおそらく識界の最奥……。それは神話の神が知恵を授かった場所……。
ただし、それには代償が必要のはずで……。
だが、それでも私は立ち止まるわけにはいかない!
「助けたい人が居ます……。力を貸してください」
私は泉の女神に真摯に訴える。
「この泉に触れるには代償が必要です。何を失うかは貴女次第……」
そうなのか……。いや、そういうことか。
きっと黒の魔女は「死」を捧げた。そして不死者となった……。
「心は決まりましたか?」
「はい……」
当然だ。師匠を助ける以外の選択肢など無い!
「そうですか……」
女神は悲し気に言う。そして何故か私を抱きしめた……。
「!?」
いきなりすぎて私は困惑して、赤面する。
だが、不思議と嫌な気にはならなかった。
「……では捧げてください」
そして離れると何事もなかったように女神は続けた。
私はハッとして黙って頷く。今は師匠を助けねばならない!
泉に近づくとよくわかる。
恐ろしいまでに澄みわたり、神気を放つ泉だった。
そして私は泉に触れた。
「ぐッ……あああああぁアアアアア!」
私の左目が蒼炎で燃え上がるように熱を帯びる!
それとともに魔導知識の奔流が直接流れ込んでくる!
魔素の輝きが増して左目が焼失する!
膨大過ぎる情報量に意識を落とすようにして、私は現実世界へと還って行った……。
一人残された泉の女神は静かに佇み瞑目する。
「ソニア……。いつまでも見守っています」
†
外界の私は自然と魔導式を組み上げ、それを実行に移していた。
横たえた師匠を中心に魔法陣が青く輝く!
それらが集約して結実する────
私は生命の息吹を吹き込むように、茨の眠り姫へと口づけをした。
祈りを込めて……。
微かに師匠の瞼が揺れて……。
「私は……。どうして……」
混乱する師匠は不思議そうに私を見て……。
ただ私はその身体を抱きしめた。泣きながら抱きしめていた……。
「こんなこと許されません……」
「私は悪い魔女ですから……」
「禁忌ですよ……!?」
「神がそれを正義だと見做すなら……。それを許されない禁忌だと言うのなら……。そんな正義、私は認めない!」
制するように決然と私は私の意思を伝える。
「ソニア……」
「神の手に委ねるくらいなら、アイリーンは私が奪ってやる! 貶めてやる! 辱めてやる!」
そう言うと、師匠は目に涙を溜めて……。
次には怒り出していた!
「どうして私のためにそこまでするのですか!?」
あの師匠が珍しく感情的になっている……。私の失った左目を見て……手を伸ばす……。
「こんなになってまで……貴女は!」
喪失してしまったその場所を優しく包み込むように触れながら……。
彼女は瞳を潤ませながら訴える。
「貴女が嫌いです……」
それは辛そうにして。
「顔も見たくありません……」
必至に私を遠ざけようと……。
「いい……それ以上何も言わなくても」
私はただ抱き寄せる。
彼女は崩れ落ちるように私に身体を預けてきた。
その身体は不安定な精神状態が現れたように華奢に感じた。
審判を待つように弱々しく彼女は告げる。
「私は人殺しです」
「わかっています」
「私は貴女を殺そうとしたのです」
「……でもできなかった」
私は淡々と事実を告げる。今度は絶対に逃がさない。
その意思が私の片目となった蒼瞳に宿り熱を帯びる。しっかりと私の意思を視線で伝える。
感情のやり場を失ったように師匠は暴れた。
「もうわかっているでしょう? 私のこの両手はすでに汚れている! 貴女とは釣り合わない! 住む世界が違いすぎる!!」
私はただじっと抱きしめて……。
「それは貴女が美しいからです。人の手を汚させないためでしょう? 」
もう、わかっている。教授の言った通り、誰かがやらねばならぬことを彼女は肩代わりしてしまったのだ。
私に暗殺者が向かって来るというのなら、本来は私が倒さねばならなかった。それをどうして私が責められよう……。
師匠の反論を丁寧に潰していく、本当に悪い魔女だと分からせる。
「!? どうして……」
「住む世界は同じです。むしろ私の方が嫌な事は人に任せる卑怯者です」
師匠は傷を負いながらも誰かの為に戦ってしまう。
師匠を人殺しというのなら、私だってその片棒を担いでいる。直接手を下したわけではないが、ミスト将軍を助けて山賊を殺したことがある。エルフの村娘たちを守るために。
師匠は私を守るためにそれをした。同じ事だ。
私の説得に折れたのか、師匠はついには拗ねたようにして……。
「貴方の見ている私は美しすぎます……」
「でも、当たっている」
私は隻眼で彼女の瞳を射抜くように視線を合わせる。
訴える様に真摯に伝える。
「アイリーン、愛しています……」
それが恋愛かどうかは、私にはよくわからない。ただ愛していることだけは、はっきりとわかった。
「そんな風に認められたら私は……」
師匠の方からギュッと私は抱きしめられた。
「本当に……貴女は魔女なんですね……」
彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる……。
「ええ。私は悪い魔女ですから……」
そう言った私は自然と微笑みを浮かべていた……。
 




