3-30 それぞれの進む道
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「オレオルさん、本当に助かりました」
事件解決の立役者であるにも関わらず、一人離れた場所で宵の空を見つめるオレオルに、クルムは声を掛けた。
オレオルは空から目を外し、近づくクルムに琥珀色の右目を向ける。
最初は訝しむような視線を送っていたが、邪気のないクルムの表情を見ると、一つ小さな嘆息を漏らした。
「……勘違いするな。俺はお前との神聖な決闘を邪魔されたから、その仕打ちをしたまでだ。俺はお前やガキ共のためにやった訳じゃねェ」
皮肉な言い方に、クルムは笑い声を零す。
「理由はどうであれ、助かったのは本当です。オレオルさんが駆けつけてくれなければ、危ないところでした。けど、あんな無茶な真似は――」
「あんな三下共の攻撃が俺に効いてたまるか」
縛られているティルダ一行を見て、オレオルは吐き捨てた。
あの後、クルムとリッカは、ティルダとその仲間たちを縄で縛った。万が一、彼らが目を覚ましたとしても、彼らの動きを封じるためだ。特にティルダ・メルコスは、クルムの弾丸を受けたとはいえ、一度負けを認める素振りを見せながらも、子供達に刃を向けた前科がある。
そして、そのティルダ達の横には、リッカがエインセルで世界政府とやり取りしている姿があった。
これで無事にティルダ達を世界政府に手渡せば、小さな町オーヴを騒がせた人攫いの事件に人区切りをつけることが出来る。
ちなみに、ティルダ達に攫われた五人の子供達は、相当の疲労も溜まっていたのだろう、静かに寝息を立てていた。その傍らには、すっかり子供達に懐かれたシンクもいた。シンクも、目を瞑っている。
そんな平和とも言える和やかな光景に、今までの労苦の甲斐を感じるかのように、クルムは唇を綻ばせていた。
「――一ついいか? どうしてお前は俺と戦ったんだ?」
そんなクルムの耳に、オレオルの一つの問いが入って来た。
言葉を紡ぐオレオルの表情は、真剣そのものだった。
クルムもオレオルのことを見つめ返した。
オレオルの琥珀色の右目、そしてそれとは対照に潰れてしまった左目。けれど、それでもオレオルの右目は光を失わない。むしろ、初めて出会った時よりも琥珀色の右目は輝いて見えた。
クルムはオレオルに向けてふっと微笑みを浮かべると、
「戦わなければシンクが危なかったですから」
「違う。そんな建前じゃなくてよ――」
途中でオレオルは言葉を止める。そして、思案するように腕を組んだ。しかし、考えることが苦手なのか、オレオルは前髪を止めているカチューシャを外すと、前髪を乱暴にかき乱した。
「いや、お前にとっては建前じゃねぇよな。けど、そうじゃなくて何つーか」
オレオルは上手く言葉を見つけられず、オレオルには珍しく言葉を濁していた。
そう。今クルムが戦う理由として挙げたシンクについて、そのきっかけを作ったのはオレオル自身だ。
オレオルは無防備で幼いシンクを人質に取り、ティルダの仲間だと嘯き、クルムに戦うことを強いた。
その理由だけで終わってしまえば、オレオルはこれ以上理由を追求することは出来ない。
しかし、オレオルが聞きたかったことは、そういうことではないのだ。
いくらオレオルがシンクを人質に取ったとはいえ、戦うことが嫌いなクルムが、戦いの舞台に立つことが不思議だったのだ。
戦うことの嫌いなクルムが、なぜ戦闘狂のオレオルの言葉を鵜呑みにしたのか、シンクという人質を理由にするだけでは、どこか物足りなかったのだ。
それに、そもそもクルムはオレオルの嘘を見破っていた。
だから、余計にクルムの真意を知りたかった。
「苦しそうに見えたから」
言葉を探し続けるオレオルに、クルムははっきりと答えた。
「僕にはオレオルさんのことが苦しそうに見えたんです。より強い力を得るためだと左目の悪魔の異能を喜んで使っているようでしたが、それでもオレオルさんの表情は苦痛に歪んでいた。……けれど、何故オレオルさんが悪魔の力に縋ってまで、力を求めるのかは分からなかった。だから、オレオルさんの土俵に立って、オレオルさんのことを知って、助けられるなら助けようと思いました」
「その弾丸と光る銃とやらを使って――、か?」
「はい」
クルムの声も、瞳も、魂も、嘘は言っていなかった。
オレオルは今はもう何もない左目に触れた。瞼の感触が、オレオルの手に温かく感じられる。しかし、少し力を入れれば、オレオルの指はどこまでも深く潜り込んでしまいそうだった。
「――あの時の俺は、確かに好き好んで悪魔の力を使っていた」
オレオルは左瞼から手を放して、クルムに問う。
「手にした力を手放したくない奴らにとっては、お前の行動はお節介なんじゃねーのか?」
「――それでも」
暫しの沈黙の後、クルムの声が響いた。
「それでも悪魔に関わってはいけません。奴らが与えるのは一瞬の栄光と、永遠の苦痛です。悪魔との間に対等なんて言葉は存在しなく、最終的に損をするのは甘美に思える誘惑に騙された人間です。だから、僕は誰にどう思われようとも、どんな誤解を受けたって、多くの人を救います」
理想を語るクルムを、オレオルは強く睨み付けた。オレオルの鋭い視線を受けても、クルムの双眸は一切揺れることがない。
クルム・アーレントが歩もうとしている道は、果てしなく険しい。
人を救うということは、上からただ命綱を垂れ下ろすような簡単なものではない。その人と同じ状況に陥って、自分を犠牲にしてでも助け出すという覚悟と決意がなければ、真に救うことは出来ない。
そして、更に悪魔に憑かれた人間を相手に手を差し伸べようとするのなら、命がいくつあっても足りないだろう。
それでも、寄り添い、手を差し伸べることをクルムは止めることはない。
オレオル・ズィーガーは、もうクルム・アーレントの身を粉にするような犠牲を、身をもって体験してしまった。
自分を措いてでも手を差し伸べようとするその姿は、昔出会ったオレオル・ズィーガーという人間を作り上げた一人の少女にどこか重なって――。
「――」
オレオルは馬鹿な幻想を吹き飛ばすように、ふっと息を漏らすと、
「傲慢だな」
呆れたように言い放つ口調は、どこか親しみを感じさせるような温もりを感じさせた。
「これが僕です」
クルムも口角を上げて答える。
「――まぁ、そういう考えは嫌いじゃないぜ。……おかげで目が覚めた」
そう言うと、オレオルは今まで外していたカチューシャを再び前髪に付けた。
前髪が上がり、惜しみなく外に晒されたオレオルの表情は、据わっていた。琥珀色の右目は、失われた左目の代わりを務めるかのように、一段と色を放っている。
「俺はこの力を別のところに使う」
――元々オレオルが力を欲しがった理由、それは誰かを守るためだ。
二度と大切な人を失わないように、オレオルは力を求め続けた。
けれど、いつしかその目的を忘れ、ただ力に溺れた。力が与える、支配に、優位に、すべてに溺れた。その様は、人ではなく、自分の権威を振りかざす獰猛な獣のようだった。
しかし今なら、守る、という意味が何となく分かる気がする。
オレオルの世界に彩りを与えたクレディ・ズィーガーのように。
オレオルの世界に手を差し伸べたクルム・アーレントのように。
見知らぬ誰かにも、自分の力を惜しみなく与えることが、守ることに繋がる。
「この世界の中には、どうしようもない理不尽に埋もれて、生きているのか死んでいるのか自分でも分からない奴がいる。だったら、俺は全力でその理不尽をぶっ壊して、そいつを引っ張り上げて、希望を見せつけてやる」
あの幼い少女は、もっと優しい方法で手を差し伸ばしただろう。
目の前にいるお人好しも、もっと一緒に解決する方法を見出すはずだ。
今もなお人々に希望を与え続ける伝説の英雄は、存在そのものが希望になっている。
その中で、オレオルに出来ること――。
それは、自分の中にある力を発揮することだ。彼らには出来ないことをする力が、オレオルには備わっている。
今度こそ、間違えない。
――光に導かれたオレオル・ズィーガーは、背負った名に恥じない生き方で生きなければならない。
随分遠回りをしたが、ようやく成すべきことがオレオルにも見えて来たのだ。
オレオルは昇って来る朝日に向かって、誓いを立てた。
そんなオレオルの様子を、クルムは一瞬だけ呆気に取られていたが、すぐに祝福を与えるかのような温かい眼差しで見つめた。
「――」
しかし、ここでオレオルは朝日から目を逸らし、クルムに体を向けると、
「だが、勘違いするなよ。アーレント、お前にだけはいつか決闘の続きをして、俺が本当に世界最強だってことを証明してやる」
指を突き付けて、宣戦布告をしたのだった。
朝日を背にするオレオルの顔は、真剣そのものだ。
その張り詰めた空気を解かすように、クルムはふふっと笑いを零すと、
「――その時は、お手柔らかにお願いしますよ」
宣戦布告を受けているとは思えないほど、緩んだ顔で許諾した。
「ハッ、男と男の勝負に、手加減があってたまるか。やるなら――、真剣勝負だぜ」
オレオルはそう言うと、クルムに背を向ける。そして、そのままオレオルは足を進めた。
「オレオルさん、どこへ――」
「これ以上、お前らには付き合ってられねェよ」
取り付く島も与えずに、オレオルはどんどんと距離を開いていく。
もちろん、クルムもオレオルの後を追うなんて無粋な真似はしない。
そして、互いの顔も声も確認するのが難しくなった距離で、オレオルは一度だけ立ち止まると、
「――あばよ」
そしてオレオルは風と共に姿を消した。
きっとあの超スピードで、オレオルは大地を蹴って、まだ見ぬ世界へと飛び立ったのだろう。オレオルがいなくなった場所を、朝日が眩く照らしている。
クルムは目を細めながら、刻々と昇っていく朝日を見つめた。
「クルム」
後ろから聞こえる声に振り返ると、リッカがいた。
「どうでしたか、世界政府の方は?」
「ちゃんと連絡がついて、こっちの方に人を派遣してくれるって。オーヴとは違う町から来る関係で少しだけ時間が掛かるって言っていたけど、私たちは待たずに、次に移っていいって言ってた」
「そうですか」
クルムはリッカの言葉に安堵の息を漏らした。
正直、ティルダとフラン、そしてその仲間たち――計六人の大の男達を連行する術はクルム達にはなかった。だから、もし世界政府が、クルム達はバルット荒野で右往左往していたことだろう。
しかし、クルムとは違って、リッカはまだ気を緩めることが出来ないようだった。
リッカはクルムのことを訝しむように見つめている。否、その双眸が捉えているのは、
「……オレオルは放っておいて大丈夫なの?」
クルムより先の景色だった。つまり、すでに影も形も見ることが出来ない、オレオルが去って行った地だ。
「オレオルさんなら心配する必要はないですよ」
クルムの言葉に、リッカは首を横に振った。クルムの言葉にも、リッカの胸中を疼く不安は消えない。
「――確かにティルダの一件は、オレオルに助けられた。でも、そもそもオレオルが無駄な勝負を吹っ掛けなければ、クルムだって怪我を負わずに、ここまで苦戦を強いられることはなかったはずよ」
無限に広がっていると錯覚してしまうほど広い大地を見つめながら、リッカは滔々と言葉を紡ぐ。
リッカの表情は、どこか悔しそうだった。
恐らく今回オレオルの手を借りなければいけなかったことに対して、納得しきれていない部分もあるのだろう。
リッカは一度きゅっと唇を結ぶと、握り拳を作った。
「あいつの戦闘狂の部分は変わってない。きっと旅の先々でまた強敵を手にかけて、腕に磨きをかけてから、クルムを襲いに来る。その時は本当にクルムを殺しに――」
「僕はそう思いません」
話を遮ったクルムの顔は、穏やかで、油断しているように見えた。
クルムの一つ一つの所作が、自分には関係のない話だと言っている。
「……何で?」
だから、リッカは思わずクルムに尋ねていた。
純粋な疑問だった。
本来なら、クルムが一番オレオルのことを疑うべきなのに、どうしてこうも断言し、安心していられるのだろうか。
どうして命を奪われかけた相手を、ここまで信じられるのか。
「――先ほどのオレオルさんの戦い方」
柔らかなクルムの物言いに、一瞬リッカは理解が追い付かなかった。
オレオルの戦いは、フランとの戦いにおいてもティルダの手下三人組においても、獣を彷彿とさせるような荒々しい戦い方だった。
その戦い方は、クルムと戦った時と変わっていないように思える。
フランと戦った時は、クルムとリッカが子供達を助けるまでの時間稼ぎをしていたが、それもオレオルが左目を失ったばかりで頭と体の感覚がズレていたからだ。もし本調子だったら、時間稼ぎなどする気もなく、自分が好きなようにフランと戦っていただろう。
首を傾げるリッカに、クルムは指を一本立てた。
「僕との戦いの時は、命を奪うための必殺技を何度も何度も放ったのに、先ほどの戦いの時は一度も放っていません。本当に戦闘狂の部分が変わっていないのであれば、彼は命を奪うための技を躊躇なく放っていたはずです」
「――あ」
リッカはクルムの言わんとすることに思い当たった。
確かにその通りだ。クルムと戦っていた時は、大技を繰り出す度に名前を叫んでいたが、フランと戦った時は一度も叫んでいない。
クルムは小さく頷くと、続けて二本目の指を立てる。
「それに、自分自身で悪魔の呪縛を断ち切ったことも象徴的です」
オレオルは悪魔の力を、強敵と出会うための道具として使っていた。その道具を、オレオルは自らの意志で手放したのだ。
今まで縋っていたものを断ち切ることは、誰にとっても難しい。特に、それが自分の生活の一部と化してしまったのならば、より一層だ。
しかし、オレオルは自分の業を振り返り、見事自分が縋っていた悪魔を断ち切ることが出来た。それにより得られたものは、オレオル自身が一番分かっているに違いない。
「――」
リッカはすっきりしたような表情を浮かべながら、オレオルが去っていった方角を見た。オレオルの進んだ道は、眩く朝日に照らされている。
その照らす日差しがあまりにも眩し過ぎて、リッカは思わず目を細めた。
「きっとオレオルさんの中で何かが変わったのでしょう。だから、目に見える戦い方も行動も、追随して変わった」
「……相変わらず、クルムは甘いんだから」
リッカは呆れたような溜め息交じりに言う。
クルムはリッカの声を受けても、全く機嫌を悪くさせることなく、まるで誉め言葉を聞いたかのように、口元を緩ませた。
「とりあえず、オーヴに戻りましょうか」
「……うん、そうだね。きっと町長達も心配しているわ」
朝日に照らされる地を背にして、疲れて眠りこけているシンクと子供達の元に、クルムが歩き始めた。リッカもその後ろについていく。
小さな町、オーヴを騒がした人攫いの事件――。
クルムとリッカを待つ最後の大仕事は、目を覚ました子供達の双眸に愛しい両親の顔を真っ先に映すことが出来るように、眠りを妨げることなく丁重にオーヴへと送り届けることだった。