3-21 自由を得るための代償
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クレディとこの町を逃げ出すことを決めた翌日、オレオルはいつもの丘に一人座っていた。もちろん、これから一緒に旅立つクレディを待つためだ。
穏やかな風が流れ、花々が揺れる度、オレオルの鼻腔を心地よい香りがくすぐる。この場所にいると、オレオルはいつも気分が和らいでいた。
でも、それも今日が最後になる。
「――ふっ」
オレオルは自然に身を委ねながら、今までのことを回想すると、唇に微笑を携えた。
クレディに出会う前は、自分がこのように心を動かすようになるとは思わなかった。
「――」
オレオルは町から空に目を向けた。
空には雲一つなく、果てしない青が広がっている。これから向かうところにも同じように空を広がっていると思うと、信じられなかった。それと同時、オレオルの心は期待に疼いていた。
ただ一つだけ懸念事項があるとすれば、オレオルの買い主であるコルド・ブリガンのことだ。
もちろん、今回オレオルがコルドから逃げ出すことは、言っていない。コルドには黙って逃げ出すつもりだ。
オレオルが逃げ出すことを知ったコルドは、どういう反応をするだろうか。怒り狂うだろうか、それとも何も感じないだろうか。
コルドの心情を想像しようとするも、いつも隣にいたはずのオレオルには、そのイメージがはっきりと浮かぶことはなかった。
それでももうオレオルの心は穏やかだった。覚悟を決めたからか、コルドに対する後ろめたさは薄れていた。今はクレディと旅立つ未来への希望の方が大きい。
再び心地よい風が吹く。
ああ、これから旅立つというのに、なんと穏やかな日だろうか。まるでオレオルがクレディと一緒に世界に足を向けることを祝福しているかのようだ。
「……それにしても、遅いな」
この約束の丘に来る時、いつもクレディの方が早かった。足を踏み入れたら、必ずクレディがいるから、それが当たり前だと思っていた。
「……あいつはどんな気持ちで俺を待っていたんだろうな」
オレオルは今か今かと待ち焦がれながら、トリクルの町を見下ろしていた。
「――ッ!」
そして、ある異変に気がついた。
「どういうことだ……っ?」
気付けば、トリクルの町の至る所から火の気が上がっていた。
「……一体何が……?」
よく耳を澄ませば、人々の泣き叫ぶ声と、武器が振るわれる音も聞こえる。
オレオルの中で嫌な予感が走った。
ある人物の顔が、オレオルの脳裏の中に鮮明に浮かんでしまったのだ。
「――ッ、クレディ!」
待ち人の名前を口にすると、オレオルは全力で丘を下った。
***
コルド・ブリガンは、椅子に座りながら外の景色を眺めていた。
「――もうすぐ。もうすぐだ」
コルドが所有する建物は六階建てで、トリクルの中で一番高い。六階に位置する広間からは町全てを一望することが出来る。そんな広間から眺める外の景色――火の手を上げ、血の海に染まるトリクルを見下ろしながら、コルドは微笑みを浮かべていた。トリクルには色々としがらみがあった。そのしがらみを壊し、ようやくコルドは大切なものを取り戻すことが出来る。
そんな嬉々とするコルドに、この部屋に集う手下達は少しばかり恐怖した。
コルドはトリクルを壊すように全ての手下に命令を下した。そして、その命令に従い、トリクルを絶望へと陥れた手下達は、コルドが有する屋敷に戻って来た。
自分たちが従っているコルド・ブリガンという男は、目的のためならば、一切の同情をかけることなく冷酷非道な行動を取ることが出来る。
今まで長く過ごして来た町が崩壊する様を見て笑みを携えるコルドは、命令に従って実際に手をかけてしまった身分から見ても、異常と感じざるを得なかった。
「……来たか」
コルドは扉が開かれる音を聞き取り、振り向いた。
コルドが所有するこの建物の中で一番大きく広い部屋の中に、一人の人物が入って来る。
その人物は息を乱しながら、コルドのことを睨みつけている。その風貌は、まるで血に飢えた狼のようだ。
その雄々しい雰囲気に、この部屋に集う者は誰もが怖気づいていたが、コルドだけは違った。
目の前にいる人物――オレオルを買った時のあの戦慄を覚え、コルドはただ一人恍惚としていた。否、あの時以上の戦慄を感じている。
「――コルド、これはどういうことだ?」
オレオルはその獣のように研がれた眼光を更に鋭くさせ、コルドに問いかけた。
「お帰り、オレオル。物騒な顔して、何かあったのか?」
しかし、オレオルの質問を受け流し、コルドは新たに問いをぶつける。
「……何かあったのか、だと。とぼけるなよッ!」
オレオルはコルドの飄々とした態度に怒りを覚えた。
コルドは顔色一つ変えず、異常事態が起こっているにも関わらず、平静を保っている。しかも、仕掛人は本人だというのに素知らぬ顔で質問をぶつけて来る――オレオルの神経を逆撫でさせるのも当然だろう。
オレオルは口の中に鉄の味が染み渡るほど歯を食いしばると、
「どうしてトリクルの町が、火の海になってるんだ!」
コルドの背後を指さしながら、叫びを上げた。
しかし、コルドはオレオルの指の先を追うことはしなかった。まるで、当然の質問を今更受けたかのように、興味のない視線をオレオルに当てていた。
「ああ、なんだ。そんなことか」
コルドの口調も、激昂するオレオルが拍子抜けしてしまうほど、あっさりとしていた。
「実は今日でトリクルを離れようと思ってな。だから、今、清算すべきものを清算しているところなんだ」
「――ッ」
怒れる感情を乗せて、オレオルは拳を強く握り締めた。元より抑えようとは思っていなかった感情だが、コルドの暴論にはもうとっくに限界を超えてしまっていた。
「わざわざ分かり切った質問をするなんて、一体どうしたんだ。こんなの俺達にとっては日常茶飯事じゃないか」
コルドの言葉が、オレオルの心を更に荒立てていく。
確かにそうだ。コルド・ブリガンという人間は、自分の気に喰わない人物がいると、その人間に関わる全てを徹底的に壊しに来る。そして、二度とコルドに逆らおうという意思が芽生えないくらいに、制裁を加えるのだ。そのコルドの行動に、オレオルは加担していた。
しかし、この町は違う。
コルドにとっても長年過ごして来たはずの町だ。情が湧いていたなら、離れるからと言って町を潰すことは出来ないはずだ。
やはりコルド・ブリガンという人間には、常識など通用しなかった。コルドの行動の比重を占めているのは、いつも自分自身のことだけだ。
オレオルは深く溜め息を吐くと、
「クレディはどこだ?」
怒りを抑えて、なるべく静かに言った。
今の状態のコルドには何を話しても無駄だ。ならば、早くクレディの安全を確かめて、この町を二人で逃げた方がいいだろう。
そうしたら、もうコルドと関わることはなくなる。
「――ちィ! 堕ちたな、オレオルよ」
真っ直ぐコルドを見据えるオレオルの瞳を見て、コルドは苛立ちを隠せなかった。オレオルの琥珀色の双眸は、宝石のように輝きを発していたのだ。その瞳の輝きの中、コルドは昔のオレオルの双眸に見た深い闇を見出すことが出来なかった。
それが、コルドにとっては我慢のならないことであった。
コルドがオレオルに求めているモノは、今明らかに抜け落ちてしまっている。
オレオルという存在に、コルド・ブリガンが求めているモノ。それは――、
「俺の道具であるお前に感情なんていらねェ! 俺がお前に期待しているのは、人の心がない冷徹非道な戦闘マシーンだ!」
広い部屋の中に不釣り合いな怒号が響き渡った。
そのコルドの声に、オレオル以外の人物は耳を塞いだ。
「出会った頃のお前は最強だった! ガキのくせに、他を寄せ付けない力を持っていた! それなのに、お前はトリクルに来てからだんだんと弱くなって来やがった! それが許せねェ! だから、俺はお前を弱くする全てを壊すと決めたんだ!」
そう、コルドはたったそれだけのために、このトリクルという一つの町を火の海に沈めたのだ。
コルドはたった一つの小さな町で終わる人間ではないと自ら思っているし、本気でダオレイスという世界を治めたいと思っている。
そのためにはオレオルという道具が必要だった。そして、誰も手が出せない、恐ろしいまでの強さの次元にオレオルを至らせる必要があった。
その目的のためには――、
「トリクルも、あの女も、邪魔だったんだよォ! それが理由だ! それ以外に、手を出す理由がどこにあるってんだ!」
コルドは興奮を抑えきれないまま、声を上げた。そして、全てを言い切ったのか、コルドは満足げに舌で唇を舐め、笑みを浮かべると、次第に声を上げて笑った。
狂っている――、その一言以外にコルド・ブリガンを適切に表現する言葉はなかった。
そして、その一連のコルドの行動に、オレオルは心臓を掴まれるような感覚を得た。
今のコルドの言葉に、オレオルは自身がとんでもない思い違いをしていたように感じられた。
そんなオレオルの機微を察することなく、コルドはオレオルに向けて手を伸ばすと、
「さぁ、オレオル。今ならまだ間に合――」
「……クレディに」
「――あァ?」
消え入るようなオレオルの声に、コルドは疑問符をぶつけた。
オレオルはコルドのことを鋭い目で睨みつけ、
「クレディに手を出したら赦さねェぞ!」
自分でも驚くほどに声を高らかに上げて叫んでいた。
戻らないと誓った場所に、わざわざオレオルが戻って来た理由――。
それは、クレディを取り戻すためだった。
いつもオレオルより遅れたことのないクレディが、約束の丘に姿を見せなかったのは、コルドに囚われているからだと思っていた。
オレオルの想像するコルド・ブリガンだったら、クレディに利用価値を見出し、オレオルを強請りに来るだろうと判断していたのだ。
しかし、コルドの話ぶりはオレオルの想像とは懸け離れていた。
激昂するオレオルを見て、コルドは一瞬呆気に取られた表情を浮かべた。しかし、すぐにその表情は緩み、コルドは口から笑い声を漏らした。
「ククク、あーそうか。道理で話が通じないと思ったぜ」
「……何?」
「そうだよな。知っていたら、わざわざここに戻って来る必要なんてないもんなァ」
「……どういう意味だ」
なかなか結論を口にしようとしないコルドに、オレオルは拳を力強く握った。
対して、コルドは余裕そうにオレオルを眺めていた。まるでオレオルの反応を楽しんでいるかのようだ。
そして、コルドは短く息を吸い込むと、
「――お前がいつもあのメスガキと会っていた丘の下で見つけなかったのか?」
人の心を抉り取るような冷たい声で、言った。