3-18 絶望の淵
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「――」
この場にいる誰もが声を失くして、目の前の状況を見つめていた。特にその反応は、ティルダ側に著しく見られている。
ティルダ達の目の前には、横たわった状態のアンガスがいる。
アンガスはメルコス組のナンバースリーで、それなりに実力もある――はずだった。
しかし、そのアンガスがやられてしまったのだ。
ティルダはサングラス越しに、アンガスを打ち破った人物――リッカ・ヴェントを見つめた。
肩で息をしているリッカは、明らかに疲労が溜まっており、己の限界以上の力と知恵を振り絞ってようやくアンガスに勝利することが出来たことが窺える。
そうでなければ、どうして倍近く体格の違うリッカが、アンガスのことを倒すことが出来るだろうか。
そして、リッカの奥にいるクルムを見つめる。クルムはリッカが勝ったことを心底喜んでいるようで、明らかに破顔していた。
「ちィ」
ティルダはクルムから目線を落とし、気を失っているアンガスに誰にも気づかれないくらいに小さく舌打ちをした。
「――っ。さぁ、今度こそシンクと子供達を解放してもらうわ」
リッカは息を整えると、ティルダに向けてはっきりと告げた。
リッカの言葉に、ティルダの手下達三人は動揺を隠せなかった。彼らにとってアンガスは任務をこなす上でいつも共にし、一番身近で尊敬出来る存在だった。その存在が、世界政府の人間とはいえ、女に負けてしまったのだ。
しかし、その一方で、ティルダとフランはまるで動じていない。アンガスを見下ろすティルダの瞳は、同じ仲間だというのに、同情の色一つ浮かんでいなかった。
リッカはそのティルダの瞳を見て、不気味さを感じた。早くここから出なければ、更なる問題が起こる――そんな予感が強くリッカを襲う。
リッカは背後にいるクルムを横目で見たが、クルムも同じように感じているようで、小さく頷いた。
「……恨むなら、あなたの人のことを見下すような甘い判断を恨みなさい」
リッカはそう言うと、ティルダの言葉を待つことなく、シンクと子供達が監禁されている部屋に向かって歩き始めた。
「――待てよ」
しかし、リッカが動き始めた途端、ティルダがその口を開いた。ティルダの声にリッカは足を止める。
ティルダは陰湿な笑みを浮かべると、
「勝手な行動をされては困るな。お前はまだ条件を満たしていないぞ」
「……っ、往生際が悪いわね。あなたは確かにこの男に勝ったら、シンクと子供達を解放すると約束した!」
リッカは横たわるアンガスを指さして言った。
たった今リッカに打ち付けられたアンガスには、立ち上がる気配は全くなかった。命に別状はないとはいえ、恐らくクルムとリッカがシンクと子供達を助けてこの場を去るまでには目を覚ますことはないだろう。
しかし、そのリッカの主張を嘲笑うように、ティルダは笑い声を上げた。人を馬鹿にしたような笑いが、部屋の中に木霊する。その笑う姿を、ティルダの側近であるフラン以外は、怪訝そうな表情で見つめていた。
やがて、一しきり笑い終わったティルダは溜め息を吐くと、
「前提条件が違うんだよ。アンガスのことを、こいつだなんて一言も言った覚えはない」
ゆっくりと腕を上げ、フランを示す。そして、その指をフランに向けた。
「俺はフランのことを指さして、こいつ、って言ったんだぜ。言葉の意味をはき違えたお前に、文句は言われたくねぇなぁ」
ティルダの言葉に、リッカの体に衝撃が走った。無意識に、体が震えてくるのが分かる。
その感情の根源は、恐怖からではない。どこまでも人をコケにした態度を取るティルダに怒りを覚えているのだ。
リッカは拳を握り締め、一度唇を噛むと、
「……あなた、本当に最ッ低ね。そんな話がまかり通ると思ってるの?」
「お前こそ、こんな雑魚一人に勝ってガキ共全員解放できるなんて甘い話、まかり通るとでも本気で思ってるのか?」
ティルダは冷めた口調で、リッカのことを一瞥する。その視線に当てられたリッカは、怖気づいてしまったように一歩後退った。
ティルダ・メルコスという人間が、同じ血の流れる人間のようには到底思えなかった。まさに悪魔に魂を売ったと表現すべき人種だろう。
リッカが一歩後退ったことを見逃さなかったティルダは、フランに手で合図を送った。その合図を正確に汲み取ったフランは、一歩一歩と前に出て、リッカの前に立ち塞がった。
改めて近くで見ると、フランの実力が分かる。
リッカが全力を尽くして倒したアンガスとは桁違いの実力を持っている――、その事実が立ち姿だけで、残酷なほどまでに伝わって来てしまった。
「アンガスに勝つとは見事。その心意気に応じて、すぐに楽にしてやろう」
フランが背にしていた大剣を構える。大剣の大きさは、フランの背丈ほどあった。
リッカにはフランに勝てる光景が見えなかった。
真っ向勝負はもちろん、知恵を尽くしたとしても、アンガスのようには絶対にうまくいかないだろう。
鞭を握る右手が、自然と恐怖に震えた。今度こそ、目の前にいる怪物に対しての恐怖からだった。しかし、それでもリッカの頭には、この場から逃げるという選択肢はなかった。
世界政府として生きることを決めた時から、覚悟はしていることだった。
「――そんなことさせると思いますか?」
逡巡するリッカの頭を、割って入る声があった。
「……クルムッ!」
振り返ったリッカの先には、クルムがこちらに向かって走っている姿があった。まだ回復しきっていないため、その足取りはいつもより断然重い。それでもクルムはリッカを助けるため、自分の身を削っている。
「明らかにリッカさんに分が悪すぎます。ここは僕が――」
「だからこそ、面白いんだろ」
ティルダの冷徹な声が響き渡ると、走るクルムの前に三人の手下が現れ、その道を塞いだ。それにより、クルムは足を止めざるを得なかった。そして、クルムは同じ場所から一歩も動かないティルダを見つめた。
「せっかくのショーを邪魔するなよ。怪我人は怪我人らしく大人しくしておけ」
クルムが足を止めたことに納得したような笑みを浮かべると、ティルダはその視線をリッカに移し、
「……今度こそ約束は守るぜ。お前がフランに勝ったら、ガキ達を解放して、俺もこの商売から手を引いてやる!」
一方的すぎる約束を交わした。ティルダの表情は、明らかに余裕綽々としたものだった。
「ほら、簡単なことだろ!? 出来るならやってみろ!」
立ち尽くすリッカに、ティルダは野次を飛ばし続ける。受けて立つ、と言わんばかりにリッカは一度だけ鞭を地面に叩きつけた。渇いた小気味いい音が、部屋中に響き渡った。
リッカの若草色の双眸は、揺れていなかった。真っ直ぐに目の前にいるフランと、その先にいるティルダを捉えている。
「――いい瞳だ。圧倒的な力の差を感じていながらも、まだ目に輝きを残しているとは、さすがは世界政府に所属しているだけのことはある。だからこそ……」
フランはそう呟くと、ゆっくりと目を瞑った。瞼を下ろす――、そのたった一つの小さな行為にさえ、フランが熟達した武人だということを感じさせる。
そして、今度はパッと目を開かせると、
「私の全力をもって、相対しよう」
フランの双眸は、もはや獲物を捕らえる獅子のように鋭く研ぎ澄まされていた。
その瞳を見て、リッカはフランが一切手を抜かないことを悟った。きっと勝負はほんの一瞬で済むだろう。けれど、リッカは全力であがくことを決めた。せめて、一度だけでもフランの攻撃を躱す。
「フラン、全力でこいつを捻り潰せ!」
「我が主ティルダ様の邪魔をしたこと――、あの世で後悔するがいい」
そして、ティルダの命令をきっかけに、フランが動き出した。一歩を踏み込み、そのまま自分の背丈ほどのある大剣を軽々しく振り下ろし始める。
死の音が、リッカに着々と近付いた。リッカは瞬きする猶予さえも許されない。先ほどの決意は、見事フランの大剣に斬り裂かれてしまった。
剣を振るフラン以外、動けるのはこの場でただ一人、
「――リ」
クルムがリッカを助けようと腕を伸ばす。先ほどのオレオルとの戦闘で受けた傷の痛みが、全神経に鋭く走るが、構わない。
ティルダの手下達がクルムの道を阻んだが、その壁も上手く躱した。
しかし、目の前の障害が消えたにも関わらず、クルムがリッカを守りに行くよりも、明らかにフランの刃がリッカに届く方が速かった。
クルムの手は何も掴むことは出来ず、それでも必死にリッカを手繰り寄せるように、声を大にして叫ぶ。
「リッカ――ッ!」
「弱った女相手に全力を出すなんて、それでもお前は男か?」
リッカの肩にフランの大剣が届く直前、何者かの声が建物の中に響き渡った。それと同時、大剣の軌道に向かって何かの影が飛び交い、フランの攻撃を阻害する。
――槍だ。
突如飛んで来た槍に、フランの剣は弾かれた。突然の攻撃にも大剣を手放さなかったフランは、流石とでも言うべきだろう。
そして、剣を弾いた槍は、そのまま持ち主の元へと戻っていく。
命を奪い損ねたリッカに、フランは追撃を加えようとしなかった。
クルムも、リッカも、ティルダも、フランも、そして手下の三人も――、この場にいる誰もが槍の戻るところ、すなわち突然の来訪者にただただ目を向けていた。
その来訪者はメルコス組の入り口と外の境に立っていた。そのため、その顔が絶妙に暗がりに隠れてしまっていて、その存在が誰なのかを見極めることが出来ない。
「貴様……っ、誰だ!」
ティルダが声を上げ、来訪者に問いかける。その言葉を合図に、来訪者はアジトの中へと足を進めていく。
「――俺か?」
そして、だんだんとその姿が明るみに出る。
線の細い体の割に鍛え抜かれて引き締まった体躯。リッカの命を守った槍が、その手中に収められている。更に、その男は派手な金髪をカチューシャでまとめていた。
「……まさか」
予想だにしなかった人物の参戦に、クルムは驚きの声を上げた。
それもそのはずだ。ゆっくりと近付いてくる人物は、先ほどまでクルムと死闘を繰り広げていたのだ。この場所まで足を運ぶ理由はないし、クルムとリッカのピンチに手を差し伸べる理由もない。
それに、声を漏らしたのには、もう一つ。
目の前の男は先ほどと違い、色違いの双眸の内の一つ――、漆黒の左目がなくなっていたのだ。強引に左目をくり抜いたのか、その左目付近の傷は痛々しい。
けれど、まるで左目がないことなど気にしないように、
「俺の名前は、オレオル・ズィーガー。世界最強を目指す男だ」
突然の来訪者――オレオル・ズィーガーは、そう名乗りを上げた。