3-12 不本意な幕引き
「う、うわぁッ!?」
突如、バルット荒地に響いた叫び声――。それは、隅でクルムとオレオルの決闘を見ているはずのシンクのものだった。
「シンクッ!?」
痛切なシンクの叫び声に、シンクとの距離が一番近かったリッカが真っ先に声を発した。
シンクの周りには数人の人が集まっていた。シンクをどこかに連れ去ろうとしているのか、皆、シンクの体の一部を掴んでいる。
叫び声を上げたシンクは、口を抑えられているのかこれ以上声を出すことは出来なかった。暗がりのせいで詳しい状況を把握することは叶わない。
しかし、これらの情報からでも分かることは一つ。
彼らが今オーヴを騒がしている人攫いの一味だと、リッカは直感した。
リッカはすぐにクルムとオレオルがいる方角に目を向けた。シンクから二人の距離はだいぶ離れている。クルムならシンクを助けようと動くはずだが、ここまで距離が離れていては、すぐに助けには来れないだろう。それにクルムは傷を負っている。無理をさせる訳にはいかない。
リッカは腰にある鞭を構えると、
「シンク! 今助けるから!」
シンクと数人の影が集まっている場所に向かって駆け出していた。
「……」
しかし、数人の影の内、一人――体格の良い輪郭をしていることから男だ――の人物がシンクから手を放し前へと出ると、何かを取り出したのが見えた。
それが何なのか、リッカには分からなかった。だけど、正体不明の物を持ち出されたからといって、止まる理由にはならない。動きがある前にシンクを助け出そうと、リッカは更にスピードを上げた。
だが、男は手に持ち出した物を上に掲げた。
「――ッ。リッカ、危ね――ッ」
何とか人攫いの一味の手から、口だけを解放させたシンクが声を上げたと同時だった。
男が勢いよく手に持っていた物を地面に叩きつけたのだ。それと同時、シンクの声は急激に閉ざされる。
すると、辺り一帯は煙に満たされ、周りが見えなくなってしまった。男が取り出した物は煙幕だったのだ。
「っ、これじゃ前が見えない……っ」
煙を口に入れないようにリッカは左腕を口元まで近づける。それでも、全部を避けるのは困難で、どんどん煙が肺の中へと満ちていく。
このままではシンクを連れて逃げられてしまうのも時間の問題だ。
――どうする。落ち着いて考えなさい、リッカ・ヴェント。
煙幕によって周りが見えない状況でも、リッカは平常心を保ち、冷静に状況を打破すべく神経を巡らせた。
その時だった。リッカの耳に数人が地を踏む足音が聞こえた。その音は、聞き逃してしまいそうなほど微かなものだった。心を乱して無闇に動いていたら、確実にこの音を聞き取ることは出来なかっただろう。
微かな音を頼りに、リッカは足を動かし、そして音が近くなったところで鞭を振るった。
しかし――、
「ッ!?」
空を切っただけで、鞭は誰にも届かなかった。
リッカの憶測が間違ったのか、それともリッカの接近を悟った相手が逃げ足を速めたのかは分からない。だが、シンクが段々と離れてしまっているということは確かだった。
そして、幸か不幸か、このタイミングで煙の勢いが収束し始め、周りが見えるようになった。煙が晴れた景色を見て、リッカは鞭を持つ右手を強く握り締めた。
煙が晴れたバルット荒地には、もう誰もいなかった。
辺り一帯を見渡しても、逃げた痕跡さえも見つけることは出来ない。
リッカは悔しさに唇を噛み締めると、急いで振り返り、クルムがいる場所に向かって駆け出していた。
近付くにつれ、傷の大きい左肩を抑えながら、ゆっくりとリッカの方へ近付こうとしているクルムの姿が見えた。その足取りは、傷の痛みによって引き摺っているのが明らかだった。
その姿を見て、リッカは余計に胸を締め付けられるような感覚を味わった。足が鉛に変わったように重く感じられ、まるで自分の足ではないようにさえ感じる。
クルムはここまで傷を負っているにも関わらず、立ち止まることなく、シンクを助けようとしていた。それなのに、無傷だったリッカはシンクを助けられなかった。
リッカの力不足によってシンクを助けることが出来なかったのは揺るがない事実だ。それでも、早くクルムのところへ行ってシンクを見失ったことを伝えなければならない。
しかし、リッカよりも早く、クルムが口を開こうとし、
「リッカさん! シンクは――」
「ごめん、クルム。あいつらのこと逃した……ッ! シンクが攫われちゃった!」
クルムの言葉を最後まで聞かずに、リッカは追い詰められたように言葉を紡いだ。その瞳は潤んでおり、今にも泣き出しそうなほどである。
シンクの近くにいたのに連れ去られてしまったことに対して、責任を感じているのだろう。
リッカの視線が地面へと落ちていく。
「リッカさん、落ち込むにはまだ早いですよ」
クルムの言葉に、リッカは顔を上げた。クルムの黄色い双眸が、リッカを明るく照らすようだ。
「どちらにせよ、僕達が向かう場所は変わりません。これからシンクを、そして攫われてしまった子供達を、みんな助けに行きましょう」
「――ッ、うん!」
決意を改めるように頬を叩くと、リッカは大きく頷いた。
そして、当初の目的地に向かって足を進める。正確な場所は分からない。しかし、このバルット荒地の近辺に、人攫いの拠点があることは間違いない。
リッカは逸る思いを抱きながら、ふと足を止めた。
「あ、ごめん。……クルム、走れないよね」
「いえ、僕の方こそすみません」
クルムは肩を抑えながら、申し訳なさそうな表情を浮かべる。先ほどオレオルと死闘を繰り広げた時、クルムは相当の傷を負ってしまった。むしろ歩くことが出来ていること自体が奇跡そのものだろう。
リッカはクルムが隣まで近付くのを待った。クルムにこれ以上負担を負わせないように足取りを揃えて、これから人攫いの拠点を探しに行かなければならない。
その時、リッカの目に、項垂れたまま微動だにしないオレオルの姿が映った。
それと同時、リッカの頭の中にある言葉が衝撃的に思い浮かんだ。何故、この情報を今まで忘れてしまっていたのか、自分自身を恨めしく思ってしまうほどだ。
ゆっくり近づくクルムの横を通り越し、リッカはオレオルの前に立つと、
「ねぇ! あんた、彼らの仲間なんでしょ!」
必死の剣幕で問いただした。
そう、オレオルがシンクを理由にしてクルムに戦いを挑んだ時、確かに人攫いの一味でその矛だと自ら言っていた。
つまり、オレオルは人攫いが構えるアジトに足を踏み入れさせないために、ここで足止めの役割を担っているということだ。
ならば、人攫いの拠点もシンクを助ける術も、オレオルは知っているはずだ。それをオレオルの口から割り出さなければならない。
「――」
しかし、オレオルからは言葉が返って来なかった。むしろ、罰が悪そうにリッカの視線から顔を逸らしている。
その仕草に、リッカの中で苛立ちが募り、
「正々堂々とか言っていたくせに、私たちの注意を逸らしてこういうことするの?」
自然とオレオルへの言葉が荒立っていく。
それでもオレオルは言い返すことなく、ただ唇を噛み締めるだけだった。
「何が世界最強よ。聞いて呆れる――」
「――リッカさん、オレオルさんと彼らは何の関わりもありません」
「え?」
突然割って入った言葉に、リッカは自然と疑問符が口から漏れ出した。
声のする方を振り返ると、クルムが左肩を抑えながら薄く笑っていた。まるで子供の悪戯にあえて騙されていた大人のように、その表情は柔らかなものだった。
俯いていたオレオルも顔を上げ、クルムを見つめた。
「きっとオレオルさんは、僕と戦うために嘘を吐いたのでしょう」
「じゃあ、なんで――」
そこまで分かっていながら、どうしてクルムはオレオルと戦うことを選んだのだろうか。リッカはその理由が分からなかった。
クルムはこれ以上説明するつもりがないのか、オレオルに視線を当てると、
「すみません、戦いはここまでです。これ以上戦う理由はなくなりました」
一度だけ頭を下げた。
今まで茫然とクルムのことを見ていたオレオルは、そこで我を取り戻したように、ようやく反応を見せた。
オレオルは左目を抑え、咬み付くように力強く琥珀色の右目でクルムを睨みつけると、
「……ッ、待てよ! 逃げんのか! まだ決闘は終わってねェぞ!」
「なら、僕の負けにしてください。どちらにせよ、この傷では戦うこともままならないでしょうから」
立ち上がって吼えるオレオルに取り付く島さえ与えずに、クルムは淡々と言葉を紡いでいく。
その言葉を耳にすると、オレオルは右手を力強く握り締めた。口の中で鉄の味が広がっていくのを、オレオルは感じた。
どれほど人のことを馬鹿にした発言だろうか。今まで生死の狭間を潜り抜けて生きてきた――そして、これからも生き続けるオレオルをあまりにも侮辱している。
自ら敗北を懇願するなど、戦いの中であってはならないことだ。
オレオルの中で膨れ上がっていた思いが爆発し、
「ふッざけんなよ、そんなんで納得する訳ねェだろ! テメェにはプライドっていうものが――ッ!」
「――あなたは何のために強くなりたいんですか?」
クルムの黄色い双眸は、真っ直ぐにオレオルを捉えていた。その瞳に、舌まで乗っていたはずの言葉は、口の中で弾けて霧散した。
先ほどと同じだ。
オレオルの中で曖昧模糊として、深く追求してこなかった答え。最強の境地に辿り着いた先、そこを目指す理由。いつからか、まるで自分の使命のように思い、何も疑問を持つことなく、己を磨き、目的に向かって一直線だった。
オレオルが抱く疑問も、靄が掛かったような心も、世界最強になれば、全てが解決されると信じていた。だから、今まで深く掘り下げることもなく、がむしゃらに生きて来た。
まだ世界最強に昇り詰めていないオレオルには、クルムの質問に答える術はない。
「僕は大好きな人を救うために、強くなろうと――強くあろうとしています。そのためなら、僕は自分自身を捧げても構わない。それに比べて……、いえ、比較するものではありませんね」
クルムはもうすでに持っている。オレオルが得ようとしている答えを、すでに見出しているのだ。
オレオルはそのことが直観的に分かった。
実力的にはオレオルの方が上のはずなのに、傷だらけのクルムに敗北感を抱いてしまった。
「……」
オレオルは負けを認めたくなかった。しかし、クルムのことを真っ直ぐ睨みつける気力はもうない。
「僕はシンクを助けに行きます。――リッカさん、行きましょう」
無言を貫くオレオルに、クルムはそう言うと、左肩を抑えながら一歩ずつ前へと歩き始めた。クルムはオレオルのことを振り返る素振りも見せないでいる。
リッカは一度だけ、オレオルのことを見た。
オレオルは魂が抜け落ちたかのように茫然と立ち尽くしている。
リッカはオレオルから目を背けると、クルムに追い付き、支えるように歩いた。人攫いがいる場所までどれくらい掛かるか分からない。
けれど、前を向いて歩くしかない。
――オレオル・ズィーガーは、これ以上クルム達の後を追うことはしなかった。




