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1-05 一歩ずつ、確実に

 暫くの間、クルムは目を閉じ続けていたが、ようやく客間に静寂が訪れた。食器たちによる悲劇も閉幕を迎えたようだ。大惨事であろう、悲劇の舞台となったキッチンを想像することは恐ろしくて出来ない。

 ゆっくりとクルムは目を開く。

 目を開けると、暗くなって鏡の役割を果たしている窓を通して、扉が開くのが見えた。その扉から、カップ二つと砂糖を載せたお盆を持ったリッカが顔を出した。


「お待たせしてごめんねー」


 リッカはそう言いながら、お盆に載っているカップを机の上に置いた。高級な茶葉を使っているのだろうか、美しい景色を連想させる香りが鼻孔をくすぐる。

 クルムは礼を言うと、カップの取っ手を片手で持ち、お茶を口に含めた。前にいるリッカも、両手でカップを持って、口に近づけている。


「美味しいですね」

「うん。初めてこのお茶飲んだけど、本当美味しいね。頑張って見つけた甲斐があったよ」


 率直な感想が、クルムの口から溢れ出た。リッカもクルムの感想に同意したらしく、カップに入ったお茶を見つめながら、何度も頷いている。


「――ところで、リッカさんに聞きたいことがあるのですが、いいですか?」

「うん、いいよ。何でも聞いて」


 お茶を飲みながら静かで落ち着いた時間を堪能すると、クルムはリッカに顔を向け、話を投げかけた。クルムが抱いている疑問に道しるべを示してくれるのは、おそらくリッカだけだろう。まだお茶を楽しみたいのか、クルムの言葉に反応するものの、リッカの視線はカップから外れなかった。


「では……リッカさんは本当に世界政府の人間ですか?」

「ゲホゲホ!」


 クルムがそう言うと、予想だにしていなかった質問だったのか、リッカは咳を出しながらむせ始めた。その淡い緑の瞳からは、涙が零れ落ちている。


「けほっ……ふぅ。な、なんで、そういう質問が出てくるのかな……?」


 リッカは咳をし終えると、手に持っていたカップを机に置き、空いた両手を太ももの上に乗せた。そして一度深呼吸をすると、リッカは平静を装ってクルムに質問を投げ返す。しかし、その言葉の速さは今までよりも速く、更にはリッカの目は泳ぎっぱなしで一か所に定まらない。

 クルムの目から見ても、明らかに動揺しているのが分かるほどだった。


「理由は、その……服装が世界政府に所属している人の姿には見えないので……」


 クルムは真向いに座っているリッカに目を向けた。


 リッカが着ている服は、よくも悪くもリッカ・ヴェントという人間を表現している。

 上は黄色を基調とした服で、首元には白の襟が付いてあり、下は風船を彷彿とさせるようなシルエットをしたカーキ色のズボンという服装で、リッカが真っ直ぐで、行動力のある人だということを思わせてくれる。リッカにとても似合っていた。――似合ってはいるが、リッカの立場を考えると、場違いな服で、一般人に間違われることもあるだろう。

 リッカの服は、世界政府の人間が着るそれとは違うのだ。本来、世界政府として行動する場合は、白いコートを羽織ることが義務付けられている。そのコートを羽織ることにより、自らが世界政府の関連者だと示すためだ。実際、白いコートを見れば世界政府の人間だと、誰もが分かるようになっている。

 しかし、目の前にいるリッカはその世界政府のコートを羽織っていない。

 思い返すと、初めて会った時からそうだった。

 クルムと会った時から、リッカは今までずっとこの格好だ。リッカがその正体を明かすまでは、クルムも正義感の強い女性くらいにしか思っていなかった。


「こ、この服装は、オリエンスに無難に溶け込むための作戦だよ? 世界政府に関する人だと悟られなくなかっただけだし、べ、別にこういう服装が好きなわけじゃないし……」


 自分の服装が間違ってはいないと主張するように、リッカは両手を広げた。だが、肝心のリッカ本人は顔を真っ赤にしており、また、話す言葉も速くて舌が回っていなかった。


「そうだったんですね」

「わ、分かってもらえて何よりだよ! それだけが理由?」


 納得したクルムの姿を見て、リッカの表情はパァッと華やいだ。その変化はクルムでも分かってしまうほどに、明らかだった。その声も紛れもなく弾んでいる。


 だが、それも束の間だった。


「あとは……えっと、先ほどの姿を見てしまうと、ちょっと心許ないというか……」


 申し訳なそうに紡ぐクルムの言葉が、心に少し余裕を取り戻したリッカに更なる追い打ちをかける。

それにより、リッカは肩をビクッと震わせた。


 クルムはリッカの姿を思い浮かべる。

 思い浮かぶその姿は、キッチンでの出来事の時だ。実際には見ていないけれど、リッカがその場所で何をしていたのかを想像するのは簡単だった。

 また、クルムの想像が現実だと裏付ける証拠が目の前にある。

 先ほど両手を広げていた時、リッカの手に何か所かに包帯が巻かれているのが視界に留まった。それは、普通の人ならば繰り広げられることのなかったキッチンの惨劇での傷を治療するためのものだろう。


 世間一般における世界政府の構成員の認識は、真面目で、有能で、何事もそつなくこなすというものである。

 だが、クルムの前にいる世界政府の人間――リッカ・ヴェントはどうだろうか。クルムの知るリッカの姿は、世界政府の人間とは少しかけ離れてしまっている。いや、かなりかけ離れてしまっているのだ。

 リッカ・ヴェントという人物は、物凄く不器用な人間だった。


「だ、だって、オリエンスの拠点に来たのは今日が初めてだもん。お茶の場所が分からなくて、手間取っても仕方ないよ……ね? あはは」


 乾いたリッカの笑いだけが、客間に響く。クルムは何も反応を示さず、リッカに鋭い視線を向け続けていた。客間を占める空気は徐々に冷たくなってゆく。

 笑い声が小さくなってくると、リッカの顔は隠すように下に向けられていった。


「は、はは、は……」


 リッカの笑い、否、自嘲が終わると同時に、その場は完全に凍り付く。この客間にリッカが入って来て以来、初めての静寂が訪れた。


 完全に下を向ききっているリッカの表情が、どのようなものになっているかは窺い知れない。クルムの位置から分かることは、リッカはズボンをぎゅっと握っており、手に力が入っているのか、握ったところにはしわが出来ているということだった。また、若干だが、体全体が小刻みに震えている。


「あ、あの……リッカさん?」


 クルムは目の前で震えるリッカが心配になり、声を掛けた。

 その言葉がきっかけとなったのか、リッカの震え方は勢いを増した。まるで、何かが爆発する前触れのようだった。

 そして、その予想は――


「だぁぁ! そんなこと言われなくても分かってるもん! 世界政府に所属されて日が浅いんだから、正直、私だって自分があの世界政府の一員だって感覚まだないよ!」


 当たった。


 リッカはついに平静を装うのを止め、感情のままに叫びながら立ち上がった。クルムの視線に耐えられなくなったのか、はたまた図星を突かれたからなのか、とにかく初めて見る姿だった。

 リッカの勢いが増してくるごとに、客間の空気は熱くなっていく。


「リ、リッカさん、落ち着い――」


 計算違いの出来事に、クルムは額に汗を垂らしながら、リッカを落ち着かせるために言葉を掛けようとした。

 しかし、リッカの気は治まらないまま、「でも、ほら!」とクルムの言葉を遮り、自分の懐から取り出したものを見せつける。急な動きで、クルムは一瞬戸惑ったが、リッカの手にあるものを凝視した。その手の中には、目に新しい世界政府の証明書があった。


「こっちの証明書だと、ちゃんと制服着てるでしょ!」


 写真の中のリッカは、確かに世界政府の白いコートを着ていた。けれど、先ほどリッカ自身も言った通り、まだ入ったばかりだと分かるほど制服に着られているように感じられた。

 だが、クルムはリッカの勢いに押され、思ったことを発する余裕はなかった。


「どう!? これで信じる気になった?」


 リッカがそう言い終わると、客間の熱気は冷めていった。今、この場所で聞こえる音は、興奮したリッカが肩を上下に揺らしながら呼吸する音だけだ。

 自分の言いたいことを言い終わったのか、リッカはこれ以上言葉を続けることはなかった。手に持っている証明書をクルムに突きつけたまま、動かないでいる。

 クルムは、ひとまずリッカが話を聞ける状態になったのを確認すると、小さく口角を上げた。


「はい、信じています。さっきの話は全部冗談ですから」


 微笑んだまま、クルムは真っ直ぐに告げる。リッカはその言葉を聞いて、ホッと一息を吐いた。憑き物が落ちたように、表情も明るくなっている。


「分かればいいの……って、冗談!?」


 リッカは腕を組みながらクルムの話を吟味していたが、途中でリッカの動きは鈍くなり止まった。そして、何かに思い当たったのと同時に、反射的に声を上げた。クルムの言葉――特に、その最後の一言がおかしなことに気付いたのだろう。

 反応の遅れたリッカを、クルムは子供を見るような愛しむ目で見ていた。


「僕は、リッカさんが世界政府の人間じゃないと本当に疑っているわけではありません。……確かに、気になってはいましたけど」


 キッチンでのリッカの姿を想像して、クルムはクスッと笑った。ただ笑う理由は、それだけではない。リッカのような人が世界政府に所属していると思うと、純粋に口から笑みがこぼれた。


 クルムが言った言葉は半分本当でもあり、半分嘘でもある。


 お茶を出すだけなのに大惨事を生んでしまう不器用さでも、世界政府に入れるのか気になったのは事実だ。

 しかし、リッカが世界政府の人間かどうかを疑っているのではなく、正直な話、クルムにとってリッカの立場が何であろうと関係はなかった。クルムが着目している点は、リッカ・ヴェントという女性の人間性にあるからだ。


 看板を背負っている時は取るべき行動を取れるが、その看板を下ろした時には正しい行動が出来ないというのはよくある話だ。

 けれど、リッカは世界政府だということをクルムに明かしていない状況の中でも、誰かのためになろうとする姿勢――世界政府が取るべき姿勢を取っており、その姿でクルムにも接していた。黒い首輪をした少年を追おうとした時も、リッカは最後までクルムのことを案じていた。


 リッカには、先天的か後天的かは分からないが、人によくするという体質が身に沁みているのだった。


 ――当の本人は、そこまでは意識していないかもしれないが。


 ともあれ、リッカのそういうところを、クルム・アーレントも見習わなければと思っている点だ。


「……君、意外といい性格してるね」


 そんなクルムの言葉をお茶目の一面として受け取ったリッカは、クルムの思いを分からないまま椅子に座った。頬杖をついたリッカの表情は、ふてくされているようだった。しかし、その表情からは真の嫌悪感は出ていない。もし、本当に嫌悪を抱いているのなら、この客間からリッカが出るか、もしくは、この客間からクルムを追い出していることだろう。

 その証拠に、「まぁ、嫌いじゃないけど」と小さく呟くのをクルムは聞き逃さなかった。


「それで、そろそろ本題に入らせてもらいたいのですが……」

「うん。話をずらしたのは、クルムだけどね」


 真面目な表情で新たに話題を作ったクルムに、リッカは真面目な声色でクルムの言葉を訂正する。

 一瞬の沈黙があったが、すぐに、どちらともなく二人は笑った。


「では、改めて。リッカさん。この町で何が起こっているのか、もしよければ教えてください」


 クルムは呼吸を整えると、本当に聞きたかった質問をようやくリッカに投げかけた。

 そのクルムの質問に対し、リッカは一度目を瞑った。今までと違った、真剣な空気が流れる。その空気に、クルムも無意識のうちに喉を鳴らした。


「……分かった。もう感づいているかもしれないけど、現在はシエル・クヴントの再臨者と名乗る者がこの町を牛耳っているの」


 開いたその目は毅然としており、そこにいるのはやはり世界政府のリッカ・ヴェントだった。

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