2-15 英雄と罪人
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予想外の事態が起こっている目の前の現実を、リッカは受け入れることが出来なかった。
歴史の生き証人と言っても過言ではない人物――シエル教団最高指揮官ペテル・コンヴィクトが、眼前で堂々と立っている。
まさかこのような事態になるとは、誰が予想することが出来ただろうか。
リッカ自身でペテルについての説明をしておきながら、未だ事実を受け入れることが出来ないとはおかしな話だ。
現実を受け入れることが出来ない要因は、一つの疑問が脳裏で渦巻いていることが所以だろう。
――何故、シエル教団の最高指揮官が人通りも少ないこの場所にいるのか。
ペテルは今シエル教団が行なっている巡回の舞台に立っているはずだ。仮に巡回が終わったとしても、この場所に来る理由が分からない。
一つ、予想出来ることがあれば――。
「ッ!?」
そう思った時、リッカは息苦しさによって、思考が強制的に遮断されてしまった。この場を占める空気が重く、鋭く、何より痛くなり、呼吸が上手く出来ない。周りを見ると、皆同じように呼吸に苦しんでいた。
リッカは首元を抑えながら、目の前で悠然と立つペテルへと視線を移す。
いきなりこの場に現れたペテルは、深海よりも濃い蒼い双眸で多勢に無勢な状況を見通していた。
「――」
その姿を見て、リッカは察した。
たったそれだけの挙動で、この場にいる人々はペテルの抱く雰囲気に圧倒され、身動きはおろか思考、更には呼吸さえも自由に出来なくなっている。
そして、終には立つこともままならなくなり、一同は膝をついた。いや、つかされた。
時が止まったように、永遠とさえ錯覚する刹那の時間が、惜しみなく流れていく。
リッカもシンクも――、この場にいる誰もが、未だに現実を受け入れることは叶わない。
遠い雲の彼方にいる存在にいきなり対面して、平常心を保てる方がおかしいのだ。
しかし、常識に当てはまらない人物がたった一人――、
「――シエル教団最高指揮官、……ペテル……コンヴィクト」
――クルム・アーレントだけは違っていた。
誰も言葉を紡げない切迫とした状況の中、普段と何ら変わることのないクルムは、目の前にいる人物の名前を噛み締めるように口にした。
それをきっかけにしてか、ペテルは周囲に放っていた威圧を解き、明らかにクルムのことだけを値踏みするように睨み付けた。
無作為に周囲にあてられていたものが標的を絞ってくれたおかげで、呼吸をするのが楽になる。しかし、まだまだ緊縛とした空気が終わったわけではない。
クルムとペテルは、互いに眼差しを交わし合っていた。両者詮索し合って、出方を窺っているようだ。
双眸の交わし合いを、誰一人止めることは出来なかった。結末が分からないこの場の行き着く未来を大人しく見届けることしか――……。
そう思った時だった。
「――はぁ」
この緊縛と張り詰めた空気の中、嘆息交じりの吐息が響き渡る。
この場にいる誰もが、溜め息の持ち主の方へと目を配った。
クルムとペテル――、両方の探り合いに先に動きを見せたのは、ペテル・コンヴィクトだった。
ペテルはクルムのことを見定め終わったのか、準備運動をするように首を動かしてから、
「私はそこの者に用がある。他の者は――、去れ」
行く手を立ちふさがる人々に向かって言い放った。
人々はその言葉を聞いても、動くことはなかった。否、相反する思想に苛まれて、動けなかったと表現した方が正しいかもしれない。彼らの表情は、苦虫を噛み締めたような苦痛に満ちた表情へと変化していた。
「――ッァ!」
そして、悩んだ末に、先ほどの命令とは違って、悪魔に憑かれた人々はペテルに反抗することを選択した。本来ならば、シエル教団の頂点であるペテルは、彼らにとって崇拝すべき存在なはずだ。それなのに、そこまで思考が至ることはなかった。
悪魔に憑かれた人々の目的は、邪魔者であるクルムを討つこと――、ただ一つなのだ。
命令に逆らう意志の表れとして、人々の奇声が響く。
耳を塞ぎたくなるような怒号の暴風にも、ペテルは全く動じない。
「――ゥ!」
まず緊縛とした雰囲気を打破したのは、前方にいた敵達だ。宴に招いていない部外者を排除するため、跳躍をしてクルム達に最も近づいた敵を除く、前方の敵全員がペテルへと突撃を始める。
屈強な体つきをした者も多いため、いくらペテル・コンヴィクトであろうとも、この数の暴力にはただで切り抜けることは難しいだろう。
「折角の忠告も聞く耳なし……、か。ならば、英雄に背きし罪過は、己自身で負うがよい」
「――ッ!?」
しかし、無秩序に攻撃を仕掛ける敵の姿を見て、ペテルが嘆息の声を漏らした途端だった。
ペテルは鞘から剣を構えたのか、その動きに連動して周囲が一瞬煌めきに包まれる。
その煌めきは自然の光が発する光度を遥かに超えていたのだが、怒りと悪魔の影響によって自我を失っている人々は、瞬間の目くらまし程度にしか感じていなかった。変わらずに、数の暴力で一気に畳み掛けようとする。
「――ッオ!」
そして、一番先頭で駆け抜けた敵が、ペテルに向かってその歯牙を向けた時だ。
異常を察知したクルムは、数秒後に起こり得る未来を予想し――、
「――っ、ちょっと待ってください! 彼はただの――」
「『天恵の大瀑布』」
クルムの言葉をかき消すように、ペテルが一言技名を呟くと同時、突如、世界が光に包まれた。その余りの眩さに目を開き続けることは叶わない。光の強さは、クルムが持つ黄色い銃にも勝っているように、リッカとシンクには感じられた。
「な、何も見えねーっ!?」
「グァッ!」
シンクが叫んだのと同時だった。一人の人物の叫び声が響き渡る。そして、彼の声を皮切りにして――、
「ギャア!」「ウッ……」「ゴフッ!」
視界が奪われる中、前方から人々の断末魔の声と共に剣の振られる音が続々と響き渡る。そして、一拍遅れて背後からも苦痛の声が漏れ始めた。
「な、何だッ!? 何が起こっているのか眩し過ぎて全く分からねー!」
「ど、どうなってるの……?」
リッカとシンクは目を閉じながら、状況の質疑を投げかけるが、誰も答えられる者はいなかった。
ただ一つ、この状況を判断出来る材料は、音だ。断末魔の叫び声と剣が肉を斬る音、そして血飛沫が地に撥ねる音だけが、この状況の歪さを知らせてくれる。
そして、現在奏でられている三重奏は、確実にクルム達に近づいていた。
「……っ。二人とも、ここから絶対に動かないでください」
心を撫でるようなクルムの声が、目を瞑る二人の耳に柔らかく入って来た。「え」とリッカは声を漏らしたが、クルムからの返事はない。代わりに、自らの近くから離れる足音が一つ響く。
「――アアッ!」
そして、ペテルが最後の敵――すなわち、クルム達の最も近くにいる敵に近づいた時だった。
簡単にはやられまいと、最後の抵抗のように今までで一番大きな奇声を上げた。
リッカとシンクは、今日一番の奇声に反射的に耳を塞ぐ。耳を塞いでいても、声による振動が体を貫いている。これにより、二人は、五感の内の視覚と聴覚の機能が遮断されてしまった。
さすがのペテルも、これには動きを止めるしかないだろう。
「まさに人間の皮を被っただけのケダモノ……、か」
しかし、全く動じないペテルは一言だけ吐き捨てると、冷静に大剣を振るって敵の奇声をかき消した。
否――、
「ッ!?」
ただ敵の声をかき消すだけでなく、ペテルは敵の喉元を的確に狙って反撃を加えていた。敵は予想だにしなかった攻撃に、足を崩し、地に項垂れる。
ペテルは目の前でひれ伏す敵を冷酷な眼で見下ろすと、
「恨むなら、格の違いを見極められぬ己を恨め」
まるで遺言を送り付けるように言い放った。
シエル教団最高指揮官の名に相応しく、その強さはまさに圧巻だった。
ペテルの言葉と人外的な強さに、敵は赦しを乞うように、無言で頭を横に振る。
しかし、ペテルは敵の意見を受け入れることなく、終止符を打つように背丈ほどのある大剣を振った。
「――、英雄の御業を前にして立つことが出来るとはな」
だが、目的に到達する前に、ペテルが振るう剣の軌道は遮られた。ペテルは目の前に立つ人物に対して、冷たい目を向ける。
「――もうここまでで十分でしょう」
そこには、黄色い銃でペテルの剣を受け止めるクルムの姿があった。
命を奪う標的であったはずのクルムに守られた敵は、その丸腰な背を見て――、攻撃を仕掛けることなく地を背にして倒れた。ひとまず命が助かったと思うと、安心して意識を手放すことが出来たのだ。
その地に倒れ込む音を聞いて、クルムは歯を食いしばると、ペテルに真っ直ぐ向き合う。
クルムの表情は真剣そのもので、シエル教団最高指揮官であるペテルを前にしても、その瞳は全く揺れることはなかった。
暫くの間、銃と剣、クルムとペテルの競り合いが始まるかと思いきや、それは長く続かなかった。ペテルは力比べをしても意味がないと判断したのか、惜しみなく自らの手元に大剣を戻す。同時、華麗なバックステップでクルムとの距離を空けると、ペテルは仕切り直すように剣を構え直した。
その時、『天恵の大瀑布』の効果が切れたのか、またはペテル自らが止めたのか、周囲を喰らうほどの光が終息される。
瞼を強制的に閉ざす光がなくなったことで、リッカとシンクはゆっくりと目を開けた。
最初は目が霞んで景色がぼやけていたが、慣れていく内に、徐々に全貌が明らかになっていく。
「……っ!?」
目の前は、もはや見知った景色ではなくなっていた。
ペテルの剣により、辺り一帯は血の海になっており、悪魔に憑かれていた人々がそこらに横たわっていた。しかし、斬られているにも関わらず、彼らの顔はどこか安らかだ。
そして現在、血塗られた舞台の上には、銃を構えるクルムの背中と、神妙な面持ちで自ら構える大剣を眺めるペテルの姿があった。
「……聖剣ヴァンゼロを受け止めても瑕一つないとは……面白い銃を使っているな」
ペテルは聖剣と呼んだ剣を見つめながら言葉を紡ぐ。
聖剣ヴァンゼロはシエル教団最高指揮官に代々伝わる伝説の剣だ。その剣に瑕を付ける物質はこの世に存在しない。現に、クルムの銃に受け止められた時だって、刃こぼれ一つしていない。
しかし、その聖剣を相手にしたのにも関わらず、クルムの銃にも瑕が入ることはなかった。
「どうして彼らをここまで……」
クルムは敵意がないことを示すように銃口を地に向けると、ペテルの姿を瞳に捉えながら純粋な問いを投げかけた。
見当違いの質問をするクルムに、ペテルは鼻を鳴らすと、
「英雄の威光を揺るがす者は、誰であれ処罰を加える――、それがシエル教団の存在意義だ。そうしてこそ、英雄去りし現在でも、英雄来られし未来にも、真の平和が成される」
「けれど、彼らは悪魔に憑かれていたとは言え、その行動の根底には英雄への想いがありました。過ちを認めて、立ち戻る機会もまだあったはずです。だから――」
「だから、貴様が原因なのだ」
クルムの言葉継ぎを奪って話を紡ぐペテルは、容赦なく糾弾するような口調だ。ペテルはその双眸を鋭く光らせて、クルムのことを捉える。
「貴様が神聖な舞台に姿を見せなければ、このような大惨事は生まれなかった。そうだろう?」
クルムは一瞬目を伏せ掛けるが、思いとどまり、ひたすら真っ直ぐにペテルに視線をぶつける。
「沈黙……か。貴様が罪を容認しようと否認しようと、貴様が犯した罪は重い。シエル様の――、希望の再来の準備を邪魔したのだから。……罪を贖う覚悟はいいか」
ペテルは聖剣を改め構え、クルムに切っ先を向けた。もうこのやり取りを、罪人クルム・アーレントを裁くことで幕を引き、ヴェルルでの職務を完全に終わらせるつもりだ。
「――」
リッカとシンクは二人のやり取りを黙って見ていることしか出来なかった。さすがのシンクも、この場に割って入れるほどの実力を備えていないことを悟っているようだった。
二人にとって出来ることは、ただクルムの無事を祈ることだけだ。
「……確かに」
ペテルの聖剣を前にして、クルムは独白をするように静かに言葉を紡ぎ始めた。
「希望の再来は、このダオレイスにいる人なら、ほとんどの人がやきもきする問題でしょう。英雄を迎えるために世界各地を巡回して、シエル・クヴントという英雄を伝えることは素晴らしいことだと思います」
クルムが語る言葉に、ペテルは無言を貫いている。否定しないということは、無言で肯定しているということなのだろう。しかし、
「でも――」
反語を用いるクルムは、勿体ぶるように合間を開けた。想像もしていなかった切り返しに、聖剣を持つペテルの手が微かに揺れる。
「言葉だけの巡回なら、行なう意味がない。僕はそう思います」
一瞬、ペテルを取り巻く空気が変わった。
「……どういう、意味だ?」
冷酷な殺気を放つペテルの言葉に、
「シエル・クヴントは言葉だけでなく、その言葉通りに人々と共にし、自身の命も顧みずに人々を救ったからこそ、英雄になることが出来ました。言葉だけで終わらせるなら、英雄列書を読めば事足ります。大事なのは、言葉よりも行ないです」
クルムは全く物怖じせずに、堂々と大胆に答えた。
「――――、愚弄の極み……だな。そこまでシエル様を、そしてシエル教団を馬鹿にされれば怒る気にもなれん。そうやって貴様は、英雄シエル・クヴント様が築き上げた名声を、自らの手中に納めようとするのか。それが、貴様の過ちであり、罪だと言うのだ」
「いいえ、僕は名声なんて求めていません。ただ英雄がしたように、僕も人の力になりたいだけです」
「傲慢、だな。本物の英雄はただ一人――、シエル・クヴント様だけであって、他の人間には決して英雄と同じ道を歩むことは叶わない。貴様はシエル様の価値を貶め、英雄の座を奪おうとするただの罪人だ」
ペテルは断定的に言葉を紡ぐと、聖剣の切っ先をクルムから天に移して、自身の目の前にかざす。ペテルの表情は刀身に隠れて、クルムからは見えない。
そして、ペテルは目を閉じると聖剣に念を送り始めた。
その動作に応えるように、風が、大地が揺れ動くのが分かる。全ての力を、ペテルは聖剣に込めているようだ。
ペテルと距離が開いているリッカとシンクでさえ、気を引き締めていないと、ペテルの実力に圧倒されてしまいそうだ。
それなのに、ペテルと面向かっているクルムには、どれほどのプレッシャーが掛かっているだろうか。
しかし、クルムは気を保ったまま、ペテルに堂々と向き合っていた。
準備を終えたのか、ペテルは目を開けると、
「希望の再来の道を正すため、私はシエル教団最高指揮官の名をもって、受け継がれしこの聖剣でお前を裁こう」
出し惜しみをすることなく、聖剣ヴァンゼロに集められた力を解き放った。
どんな技を使ったのかは分からないが、聖剣を中心にしてペテルを取り巻く周囲が歪曲、それに応じてペテルの姿も滲み、歪み、そして――忽然と目の前から消えた。
「ッ!?」
クルムもリッカもシンクも、その現象に驚愕を隠せなかった。
先ほどから痛いほど感じていたプレッシャーも、いまや微塵にも感じない。まさにこの空間から消えたと表現しても、過言ではない。
「――裁かれる己の運命を受け入れろ」
しかし、それにも関わらず、声だけはどこからか響いて来る。
クルムがペテルの姿を探そうと、辺りを見渡すが、姿を見出すことは出来ない。そして、クルムが探す様を嘲笑うかのように、
「――罪人クルム・アーレント」
まるで死刑宣告を告げる冷徹な声が、クルムの左隣から唐突に聞こえたのと同時、命を刈る刃の近づく音が鼓膜を貫いた。




