2-13 月明りを覆う雲
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――瞳に映るのは、あまりにも美しく、幻想的な景色だった。
クルム・アーレントは目の前の景観に、思考も動きも止められていた。
クルムの心を掴むもの――、それは月だ。今夜は空気が澄んでいるのか、見る者の心を惹きつけて止まない黄色い満月が映えて、悠々と浮かんでいる。
クルムは月が放つ神秘的な魅力に、時間が経つのも忘れるくらいに目を奪われていた。
ヴェルルの外れにあるこの場所にクルムが足を踏み入れたのは、偶然だ。
ソマクが繰り出した圧空壁という技で空から投げ落とされ、命の危機を感じながらも、この場所に辿り着いたのだ。
しかし、普通にしていては足を踏み入れることのなかった場所に導いてくれたことに、クルムは感謝の念を抱いていた。
だが、そういつまでも空を眺めている余裕など、クルムには存在しない。そして、これからのことを案じても、もう最後の機会かもしれない。
だから、クルムは真剣な面持ちで、瞳に、脳に焼き付けるように神秘的な景色に見入り――、
「……今夜の月は、本当に綺麗ですね」
薄く微笑みながら、誰にも聞こえない声で世界に向けて言の葉を解き放った。
その時だった。
「クルム!」
クルムの名前を呼ぶ声が暗く狭い路地から響き渡った。
視線を空に定めていたクルムは、声が聞こえた方角に顔を向けた。
すると、そこには息を切らしているリッカとシンクがいた。二人は信じられないものを見つめるような眼で、クルムのことを見つめている。
クルムは二人の姿を見ると、満面の笑みで手を振りながら、
「リッカさん! シンク! 二人とも探しましたよ」
二人の名前を呼んで、返事をした。
そこに普段通りのクルム・アーレントの姿があることを確認したシンクは、達成感に満ち足りた表情を作り、今の心情を体現すようにクルムの元へと走り始めた。
リッカもゆっくりとシンクの後に続いた。しかし、その表情は暗く、読み取れない。
「勝手に迷子になったら心配するだろ?」
一足先にクルムの元へ辿り着いたシンクは、軽くクルムを小突きながら話し始めた。シンクはこうなった原因を完全に忘れているかのように、自らのことを棚に上げている。
「あー、はは。迷惑をおかけしましたね。ありがとうございます。一日中歩いて大変でしたでしょう?」
クルムはシンクの態度に向けて、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情を向けた。そして、シンクの労苦を労うように、その小さな頭に触れた。
「べ、別にクルム一人くらい探すのなんて余裕だよ。もしまたクルムが迷子になったら、俺がいつでも探してやる」
「――、それは頼もしいですね」
顔を赤らめながら呟くシンクに、クルムは期待を交えた笑みを浮かべる。
その時、ゆっくりとクルムとシンクの元に近づくリッカの姿を、クルムは捉えた。
「リッカさんも、ありがとうございました」
クルムはシンクの頭から手を離すと、リッカに向かって頭を下げた。しかし、ただ立ち止まって頷いただけで、リッカからの返事はない。その距離も、微妙に離れたままだ。
クルムは違和感を覚えたが、続けてリッカに言葉を掛けようと試みる。
「あ、聞いてくださいよ、リッカさん。実は、先ほど二人を探そうとして――」
「――ってる」
「え?」
会話の流れを断ち切る一言を聞き取れず、クルムは思わず呆けた声を出してしまった。
リッカの姿を見れば、肩を小刻みに震わせながら、拳を握り締めていた。下を俯く姿は、まるで自分の内に宿る感情をせき止めようとしているようだ。
「……よ、宜しければ、もう一度お聞きしても……?」
リッカの言葉を聞き取り切れず、クルムは聞き返す。
その言葉に、リッカは俯けていた顔をクルムに向け、完璧な笑顔を作った。その笑みに、シンクは嫌な予感を覚える。
そして、リッカは大きく息を吸うと、
「全部見てたから知ってるって言ったの!」
大声と共に一変、作っていた笑みを崩した。目も眉も吊り上がる。先ほどのクルムの質問によって、リッカが押し留めていたものが瓦解してしまったのだろう。
クルムは驚くように目を見開き、シンクは困ったように溜め息を吐いた。
リッカはクルムが怯んだことを気にすることなく、鋭い目つきで睨み付けると、
「何で私と別れた後すぐに、シンクのことを見失っちゃうの? それで、終いにはクルムが一番の迷子になってるし! いったい私たちがどれだけ探したと思ってるの? 半日間ずっと、ヴェルルの人波の中を行ったり来たりしても見つけられなくて、やっと見つけたと思ったら、あんな状況になってるし! 助けたくても、簡単に助けられるような状況じゃないし! ソマクさんがいなかったら本当に危なかったんだから!」
クルムに止まることのない言葉の散弾をぶつけた。
よほどクルムのことを心配していたのだろう、まるで子供のように支離滅裂とした言葉の連続だった。
最初は戸惑いを隠せずにいたクルムだったが、リッカの言葉が連なっていく度に想いが響くから、一言一言心に沁み込ませるように頷く。
「だいたい自分が何をしたのか分かってるの!? あんなところに立ったら、これから――」
「きっと僕の想像を超えるようなことが、これから待っていると思います」
リッカから引き継いだクルムの言葉は、熱い感情とは相反する冷静な感情で紡がれた。まるで冷たい水を、一気に頭から流されたようだ。
目の前にいる人物と自分との寒暖差に、リッカは二の句を継げなかった。
リッカはクルムの方へゆっくりと視線を移すと、クルムは覚悟を決めたような、穏やかな表情を浮かべていた。
「――じゃあ、何で……?」
一瞬の間を空けて、リッカの心は口を通じて、純粋に湧き出た疑問を自然に言葉として紡いでいた。
リッカにはクルムの意図を理解することが出来なかった。
子供でも容易に予想できる結末を分かっていながらも、あの時あの場所に立とうとするなんて、果たしてどのような想いがクルムを巡回の進行する舞台に立たせたのだろうか。
思考が複雑になっていくリッカの想いを知らないクルムは、二人の顔を相互に見ると、いつものように柔らかく微笑み、
「どうしても逢いたかったんです」
と堂々と告げた。
「――」
その言葉に、クルムの横に立つシンクは自信満々に笑みを浮かべる一方で、クルムを前にするリッカは完全に唖然としてしまった。
答えを得るために問いかけたというのに、更に疑問に疑問が増し加わった。不理解な問題に、不理解な公式を与えられたような感覚に近い。
しかし、リッカがそう思うのは当然のことだろう。
その直球する行動原理のためだけに、誰がどうしてあそこまでリスクを負うことが出来るだろうか。
「……どうしてもって」
理解が出来ないようにクルムの言葉を反芻するリッカに、クルムはこれ以上言葉を紡ぐことなく、空へと視線を送った。先ほどまで美しい光を放っていた満月も、雲に覆われてしまい、本来の形を失われてしまっている。
空を見上げるクルムの表情はどこか切なかった。
そのような表情を見せられては、クルムにどう言葉を掛けていいのか、リッカには分からなかった。
リッカは静かに胸に手を当てながら、揺れる瞳をただクルムに向けた。先ほどと違う表情を浮かべるクルムのことを、シンクも様子を探るように見つめている。
僅かな間、空を見つめていたクルムだったが、やがてリッカとシンクの方に視線を戻すと、
「……ひとまず宿屋に戻りましょうか。今日は色々とありましたから」
優しい声音で語り掛けた。しかし、クルムの提案に対する応答は、リッカとシンクからは返ってこない。
それでも、続けてクルムは僅かに微笑みを浮かべると、
「それで休んで、動けるようになったら、旅の支度をしてヴェルルを出立しましょう」
シンクの頭に手を置いた。そして、クルムは宿屋へと戻るために、リッカとシンクが来た道へと足を踏み出した。
「……そうだな。俺ももう疲れたよ」
クルムが触れていた頭にシンクは手を置くと、クルムの言葉に純粋に頷き、その後を追いかけた。すぐにシンクはクルムの隣を歩き始める。
「クルムを見つけるために、色々なことがあったんだぜ。ソマクのおじさんがいなかったら、どうなっていたことやら」
「宿屋に戻ったらソマクさんに言わなければいけないことがたくさんありそうですね」
歩き出したクルムとシンクは互いに会話を交わしながら、宿屋に向かうために、リッカの方へと近づいて来る。
二人が距離を詰めて来るというのに、リッカは動くこともせずに、ただ正面を見つめていた。雲によって月明りが断たれてしまったために、クルムとシンクの顔はよく見えず、二人の背後には暗闇だけが広がっている。
「……」
今、リッカの心に映るのは、先ほどの疑問とクルムが導き出した答え――、そしてクルムの切なげな表情だった。
その姿は、いつものクルムとは違って見えた。
いや、クルムが巡回の行なわれた舞台に立った時――、その時からリッカの知っているクルム・アーレントではなかった。
クルムの振る舞いは、どれも並大抵の人物には成すことの出来ない代物だった。
リッカが旅に出た理由は、クルム・アーレントという人間を見極めるためだ。罪人なのか、人好きの旅人なのか、そのことを白黒つけたくて、クルムについて行った。
しかし、関われば関わるほど、クルム自身について分からなくなってくる。
その深みに入れば後戻り出来ないのではという不安が、リッカを襲う。
「リッカ?」
「リッカさん?」
全く動かぬまま茫然と立ち尽くすリッカを心配し、シンクとクルムは同時にリッカの名前を呼んだ。
雲が風になびかれたのか、闇を払うように月明りが、再びこの地に照らされる。
リッカの瞳に映る、クルムの表情は――……。
「どうかしま――、ッ! リッカさん! 伏せて――っ!」
異常事態を察知したクルムは続く言葉を遮り、リッカに対して声を張って勧告を上げた。それと同時、クルムは懐の銃を取り出し、上空に向かって構えた。




