2-10 来たる運命の時
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「ク、クルムっ!?」
リッカはそこに立つはずのない人物の姿を見て、思わずその名を口に出していた。
勿論その言葉は、誰の耳にも届かない。
他人の空似かもしれない――、リッカはそう思うことで一種の現実逃避を図ろうとした。
しかし、そう言うにはあまりにも容姿や恰好、雰囲気があまりにもリッカが知っている本人そのものだった。
一方、その高台に立つ当人は、堂々とした佇まいで広場全体を見渡すために顔を動かしていた。その様子は、まるで人を探しているかのようだ。
「……お前、一体何者だ!?」
あまりにも当たり前のように堂々と佇むクルムに、マルスは反応に遅れながらも、言葉を放つ。その質問はまさにヴェルルにいる人全員が思い描いている疑問だろう。
誰かを探すように動かしていた顔を止め、マルスの姿を捉えると、
「――僕は、クルム。クルム・アーレントです。世界中を旅しながら人の力になるために何でも屋をしています」
クルムはいつものような笑顔を浮かべながら、マルスの問いに答えた。
全く物怖じしないクルムに、マルスは一歩後退った。状況を見ると、クルムは巡回を邪魔する輩で、主導権はマルス――シエル教団が握っているはずなのに、誰もクルムのことを取り締まるために動くことも、問い詰めることさえも出来ない。
まるでそこにあるべきように、立っている。
そのような感覚に抱かれるのが、マルスにとって不可解だった。冷や汗がマルスの頬を伝う。
この場にいる誰もが声を出すことも、呼吸をすることさえも困難なほど緊迫した空気の中、
「ははっ、やっぱクルムは俺の英雄だな!」
たった一人――、シンクだけは、クルムを見て笑いを零していた。
そんなシンクに、リッカは構うことも出来ず、ただクルムがいる高台に目を奪われていた。
この先の運命がどうなるのか、リッカには予想することさえも出来なかった。
「――お前……。自分が何をしているのか分かっているのか?」
マルスは自身を落ち着けるように深く息を吐くと、ようやく言葉を紡いだ。
「ここに高台があるとお聞きして、高台から大切な人たちを見つけようと思ったのですが……」
「大切な人、だと……?」
「ええ。それに僕を呼ぶ声が聞こえたので、応えようとこの場に来たのですが……」
クルムは一瞬苦い顔を浮かべたが、すぐにいつもの表情に戻ると、再び広場一帯を見渡し始めた。
マルスは怒りを堪えるように身を震わせ、広場にいる人々はあまりの異常事態に開いた口を塞ぐことが出来ないでいる。
その間、クルムはヴェルル中を見渡していたが、探し人を見つけることが出来なかったのか、落胆を示すように肩を落とした。
「なんだ、俺たちがこっちにいることに気付いていないぞ」
「……」
肩を落とすクルムに向けて、シンクはこちらにいることをアピールするために大きく手を振った。
しかし、リッカはクルムに対して、ふと違和感を覚える。
まるでその表情は、目的を果たせないことを分かっていたかのように象られている。少なくとも、リッカはそのように感じてしまったのだ。十割負けることの決まっている無謀な賭けに挑んで、見事に打ちのめされた――と喩えればいいのか。
けれど、クルムが考えなしに博打のような行動に出るとは、リッカには考え難かった。
「うーん……」
シンクの努力虚しく、クルムは未だにリッカ達の存在に気付くことはなかった。クルムは唸りながら、再び人波の中へと視線を送り込む。
少し目線を上に向ければ見つけることも出来るだろうに、まるでわざと目を上に向けようとしていないように、リッカの瞳に映った。
しかし、そう感じられたのも一瞬だけで――、
「とぼけるのもいい加減にしろ! 今は神聖な巡回の最中だぞ!」
マルスは怒気を現すように、大声で叫びを上げた。その叫び声が、町中に響き渡る。反響した声が、鼓膜に痛く、鋭く突き刺さる。
リッカとシンクは急な声に、身を震わせた。ヴェルルにいる人々の中にも、同じように驚きを抱いた者は多いだろう。ただソマクだけは、溜め息を吐き、肩を竦めている。
その声の通り、目の前にいるマルスはクルムに対して敵意を放っていた。
クルムはやっと自らがどういう立ち位置に置かれているのかを悟った。
「あ、あはは。つい人探しに夢中になってしまいました」
「笑って済まされる問題ではない! これは重罪だ! 神聖な巡回を邪魔した罪! 何より、英雄であられるシエル様を冒涜した罪! そして、英雄に成り上がろうとした罪!」
クルムの言葉は、火に油を注ぐことと同然だった。
マルスに同調するように、状況を理解し始めた人々も強い語句を用いて野次を飛ばし始める。
待ちに待ち続けた巡回を邪魔されたことが、ヴェルルにいる人々には赦せることではなかったのだ。
その荒れた言葉の応酬を耳にして、クルムは目を閉じた。しかし、その瞑り方は、目の前の現実から逃げるために強く閉じるのではなく、現在の状況を深く身に沁み込ませるように優しく、ゆっくりと瞼を下ろしていた。
小さな動きながらも、その所作はどこか洗練されていて、ヴェルルにいる一部の人は目を奪われていた。
そして、ゆっくりと目を開けると、
「確かに結果的に巡回の進行を止めてしまったことは謝罪します。けれど、僕は英雄を冒涜したつもりはありません」
クルムは堂々と答えた。その瞳は揺れずに、真っ直ぐマルスのことを捉えている。
思わぬクルムの言い返しに、マルスは容易く二の句を継ぐことが出来なかった。
「それに、僕は自身のことを英雄だなんて、大層な思い上がりはしません。ただシエル・クヴントのように生きたくて、いつも英雄の姿を思いながら、人々に寄り添おうとしているだけです。勿論、まだ実力不足であることは認識していますが――」
「――き、貴様ァ……ッ!」
マルスはクルムの言葉を聞いて、耳まで顔を紅くさせた。その紅色の原材料は、怒りだ。
全てマルスの意向の反対へと向かおうとする、クルムの言動に腹を立てているのだ。
選ばれた人物だけが英雄について語ることの出来る舞台で、見ず知らずの人間が英雄について語るのだから、どれほどシエル教団を、そしてこの世界が信じてきた英雄を背徳する行為だろうか。
マルスはエインセルを右手から左手に持ち替え、空いた右の手で剣に手を伸ばし始めた。
その行動をきっかけに、まさにヴェルルは一触即発の雰囲気へと変わる。
そして、マルスの行動を後押しするように、巡回の邪魔をするクルムを排斥する声が、ヴェルル中に響き渡った。
今まで黙って見つめていたリッカとシンクも、その危うさに動揺を隠せない。クルムはいつ命を奪われても文句は言えない状況へと陥ってしまったのだ。
――胸騒ぎの正体はこれか……っ!
リッカは嫌な予感が最悪な形で的中してしまったことに、唇を噛み締める。
「なぁ、リッカ! これ、ヤバいんじゃないか!? 助けに行かないと!」
「……っ。ここから行っても間に合わない。黙って見つめることしか……」
シンクの言葉に、リッカはただ当然の言葉を返すことしか出来なかった。目の前の状況を見ると、リッカ達には動くことは到底叶わない。
相手はシエル教団に加え、ヴェルルにいる人全員。いや、シエル・クヴントを求めている世界全てが相手だ。
そんな中、クルムを穏便に助けるための案を、リッカとシンクは持ち合わせていない。
リッカは自分が何も出来ない不甲斐なさを味わうと、自然と柵を握る手が強くなった。
シンクもリッカの意見が正しいと認めたのか、大人しくクルムがいる高台を見つめている。
「……! リッカ、俺はクルムのところに行くぞ!」
しかし、静かにしていたのも束の間、決意を固めたシンクはリッカに向かって声を上げた。今から屋上を飛び出しても不思議ではない勢いだ。
「……ッ、待って! あなた一人が行って何が出来るの!?」
あまりにも身の程を知らない行動に出ようとするシンクに、リッカの声も自然と強くなる。
リッカの問いかけにシンクは俯いて、刹那、思案する時間を持つ。しかし、小さく、弱々しく、シンクは首を横に振った。
「――分からねぇ……。俺は何も知らないガキだから、行ったって意味がないかもしれない」
「なら……っ!」
「でも、ここで傍観しているだけなんて、俺には我慢できないんだ!」
リッカの言葉を遮り、シンクが高台に向かって走り始めようとした時だ。
「ふぅ」
突如、この緊迫とした空気に似つかない溜め息に近い吐息が漏れた。その溜め息の出所に、リッカとシンクが顔を向けると、
「命の恩人に放つような技ではないけど……、致し方あるまい」
今まで静観を貫いていたソマクが、自らの腰にかざしている柄から剣を取り出し始めていた。
そして、クルムに真っ直ぐ切っ先を向けると、集中するためか、目を瞑り出す。
「――ソマクさん……?」
ソマクからの返事はない。ただひたすらに、自らの体に滞在している余分な重み、思考、一切を吐き出すように、息を吐き続けるだけだ。
そして、体の中の不純物を吐き出す代わりに、ソマクの周りには光の粒子のようなものが集い始めていた。その光の粒子は、意志を持つように剣先へと集約されていく。
「――」
リッカもシンクも、ただただ静かにソマクの行動の末を見守ることしか出来なかった。
「……圧空壁!」
準備を終えたソマクは一言呟くと、体を捻り、勢いよく剣を突き出した。空間を切り裂くように突き出された剣の切っ先から、目に見えない塊が勢いよく射出される。
リッカの結んである髪がソマクの剣に吸い込まれるように、高台の方向に向けて揺れた。
確かに目に見えることが出来ないのだが、ソマクの剣に突き出された空気が、クルムに近づいていくことが分かる。まるで迫り来る壁に物が接すると、触れる物全てを一緒に押し出してしまうように、そのように一瞬の間だけ空間が歪曲し、変化していく。
そして、それは瞬きをすれば行く末を見逃してしまいそうなほど、速かった。
このような技を、リッカは目にしたことがなかった。
ソマクが放ったそれは、体技でも個人技でもなく、何か特別な技に映った。まるで世界に臨在する力を借りているかのようであった。
クルムがカペル・リューグに向けて撃った弾丸と近しい感覚を、リッカは身に感じていた。
「ッ!?」
超高度に圧縮された空気の塊が、クルムに迫り、触れる。すると、声を出す隙も与えないまま、高台の上から忽然とクルムの姿は消えた。
鞘から剣を取り出そうとしていたマルスは、たった今まで目の前にいた罪人がいきなり消えた事実に目を丸くした。
ちなみに、マルスはタネも仕組みも理解している。その出所も、予想はついている。分からないのは、何故罪人に肩を貸すような真似をするのか、だ。
出所を失った剣に触れながら、マルスは考え込んでいた。
ヴェルルにいる人々は、怒りを向けていた罪人がいなくなったことでやり場のなくなった憤りを、どう処理していいのか分からずに隣同士で推測を交わしあうだけだった。
「す、すげぇ……」
シンクが口から率直な感想を漏らすと同時、ソマクは剣を元の鞘に戻した。その慣れた姿に、やはりソマクがシエル教団の一員だということを実感せざるを得ない。
「さぁ、今の内に行こう!」
「……っ、どこに向かうんですか!? それに今の技は……!?」
「ひとまずここから降りて、先ほど通った路地裏へ急ぐんだ! 申し訳ないが、説明は後だ!」
普段は温厚なソマクらしくない早口でリッカとシンクに指示を出すと同時、ソマクは屋上を後にして走り出した。
リッカとシンクには、ソマクの意図が分からなかった。しかし、今ここで説明を全部聞いてからでは、全てのことが手遅れになってしまうのだけは分かる。
だから、リッカとシンクは指示に従うことにし、後を追った。
ソマク達が屋上からいなくなる様を見つめていたマルスは、ソマク達の後ろ姿を見ながら――否、ソマクの後ろ姿だけを目で追いながら、
「……所詮、無駄なことだ。ここで裁かれずとも、結局はあの方に裁かれる運命に変わりはない」
誰にも聞こえないくらい小さな声量で吐き捨てた。
その直後、マルスは誰もいなくなった高台で、「はぁ」と頭を押さえながら小さく溜め息を漏らした。巡回を進行させていた時とは、あまりにも違う姿だ。そして、「冷静、冷静、冷静」と何度か小さく呟くと、
「……お――っと! 想定外の出来事が起こったが、何事にもアクシデントは付き物だ! でも、これで本物に会いたいと思っただろう?」
クルムが現れる前と何も変わらないように、巡回を取り直し始めた。
その声に人々も我に返ったように、一拍遅れながらも反応を示していく。しかし、先ほどのような最高潮の熱気までは戻らない。
マルスは一瞬苦い顔を浮かべたが、すぐに表情も雰囲気も、切り替えた。
人々の気持ちが追い付いていなかろうと、ここで止めては今まで行なって来たものが全て水泡に帰してしまう。
それを避けなければ、マルス・イズリークの立場は危うくなる。
「さぁ、全ての準備は整いました! 来たる時を待ちに待ち侘び、遂に来た! それではお呼び致しましょう! 英雄に近しき男! ダオレイスの至宝!」
「おおお!」
何事もないように進行するマルスの言葉が続けて紡がれていくことで、改めて自分がこの場にいる目的を思い出した人々は、雄叫びを上げ始める。先ほどのように最高潮とまではいかないが、十分盛り返せたと言える出来だ。
そして、その歓声は路地裏を進むリッカ達の耳にも響いたが、リッカとシンクは見向きもせずにクルムのいる場所へと駆けていた。
ただ前を行くソマクは一度だけ心配そうに、広場の方角へと視線を向けた。しかし、すぐに迷いを振り払うように一層足を速める。
そのタイミングと同時、鳴り止むことのない大喝采がヴェルル中に満ち溢れた。
本日の主役――、ヴェルルの人々が待ち続けた人物が登壇したことが明らかに分かるほど、ヴェルルを包む空気は変わった。




