2-09 主役を迎える舞台
「これよりシエル教団による巡回を始めます! 私は司会進行役、マルス・イズリーク! マルス・イズリークでございます!」
先ほどまで誰もいなかった高台の脇には、声を張り上げている張本人――マルス・イズリークが立っていた。手に抱くエインセルも、シエル教団特注のものだ。
その声と人々の心を惹く演出に、待ちくたびれていたことも忘れるように、ヴェルル中から大喝采が起こった。リッカ達が立つ場所も、その影響を受けて地震のように震える。
「知ってるー!」「お前なんてどうでもいいー!」「早く始めろー!」「どんだけ待たされたと思ってるんだー!」
人々はマルスに向かって罵声を浴びせるも、その言葉の奥には悪意というものは一切ない。特に前に前にいる人物ほど、その傾向が著しい。
マルスという人物の人柄を知っているからこそ、まるで友達に軽口を叩き合う感覚で声を上げることが出来るのだろう。所々から笑い声が漏れているのが、その証拠だ。
そのことを理解しているのか、その雰囲気を作り上げた当人は、笑みを浮かべながら、
「そう、その通り! 今宵、私などどうでもいいのです! それより重要なのはなにか!?」
人々に斬り込むように問いかける。
マルスの問いかけに、束の間、ヴェルルは静まった。その静寂の間は、まるで人々がマルスの問いを自分の中に再び投げつけるような時間、ここにいる理由を確認する時間だ。そして、人々の中では、そのことは当然抱いている。
たった一つのために、この場所に訪れたのだから。
人々が、その答えを改めて確信するような瞳で、マルスのことを見つめる。
高台の上から人々の顔を見つめるマルスは、
「この世界において重要なもの! それは、まさに英雄の存在! そして、その英雄について耳にする機会がここにあります!」
声高らかに、人々が抱く想いを代弁するように語り上げる。
「うぉぉぉぉぉ!」
マルスの答えに、人々は更に思いを熱くして、雄叫びを上げるまでに至った。
「相変わらずだな、マルスは……」
ソマクは渇いた笑みを浮かべながら、マルスによって巡回が進んでいく様を見つめている。
リッカとシンクは、異様な盛り上がりを見せるヴェルルに言葉を失ってしまった。先ほど巡回が始まるまでの時間と始まってからの時間は、あまりにも空気が変わっており、その激烈な変化に二人はついて行くことが出来ないでいる。
さすがのシンクでも無謀な行動を起こすことは叶わなかった。
――確かに、ソマクの言う通りだった。
マルスと人々が一つとなって盛り上がっていく様子を見て、ソマクが言った言葉の意味を、この時初めてリッカは真に理解した。
「この世界は残酷です。残念ながら、憎しみや悲しみの連鎖は絶えず、平和の世界なんて遥か彼方夢物語に感じられるほど実現には程遠い」
いつの間にか、マルスの話は進み、雰囲気は百八十度変わっていた。
ヴェルルにいる人々は、マルスの語る苦節を噛み締めるように下を俯き、涙を流す者までいる。
「――しかし! しかし、この世界にも希望は残されている! 彼は言った。私が来た時、真の平和が訪れる――と。世界の中心が光り輝く時! 私は来る、と確かにそう告げた!」
マルスは握りこぶしを作りながら、大きな声で語る。その声は力強く、先ほどまでの鬱屈に耐え忍ぶ声音ではなく、人々の心に焚火を付けるようだ。
「その言葉を希望にし、幾千年……。今か今かと待ち続け、希望の再来に向けて、世界は備えてきた!」
マルスが勢いよく空を見上げた。その動作だけで、どれほどダオレイスという世界が希望を待ち続けたのかが伝わって来るようだ。それが、不思議だった。
ヴェルルの人にも過去からの想いが伝わっているのか、英雄に出逢うことのなかった先祖の分まで、声を張り上げる。
まさに今、ヴェルル全体が英雄に、希望の再来に巡り逢いたいという思いに駆られていた。
一つとなった声は振動となり、屋上にいるリッカとシンクの体全体、血液までもを震わせに来る。
「……っ」
ここまで進むと、リッカもマルスの能力を冷静に理解し、言葉を失っていた。
人々の心に寄り添うように、マルスの語り口は流れていた。否、マルスの語り口に合わせて人々の心が揺れ動かされていた。
その違和感を与えない熟達した言葉選びは、まさに人々の心の流れを読むことに卓越していなければ出来ない所業だろう。
「……君たちは、よく頑張ったよ」
唐突に紡がれたソマクの言葉は、リッカとシンクを労うためのものだ。
いきなりの言葉に理解が追い付かず、懸念とした思惑を抱きながら、二人はソマクに双眸を向けた。
ソマクは広場全体を見下ろしている。
「この巡回が終わったら、私も責任を持ってクルム君を見つけ出すために必ず力を尽くそう。だから、今はこの特等席で巡回を楽しむといい。そろそろ主役も登場するよ」
ソマクは優しくリッカとシンクに語りかけた。
しかし、ソマクの言葉は虚しく、リッカの心には響かなかった。むしろ、不安を募らせるばかりだ。
「――世界政府の力を使ってどうにかならないのか?」
シンクがリッカにしか聞こえない声で囁くように呟いた。シンクの表情からは、どうにかして活路を見出そうとしていることが窺える。
四方八方塞がっている状況だというのにすごい精神力だと、リッカは素直に驚いた。
「……ダメ。巡回の規模が大きい上に、私達の私用のために権力を乱用することは出来ない……」
しかし、リッカはシンクの提案を否定するように首を横に振る。
シンクの言う通り、世界政府の力を使えば、何とかしてクルムを見つけることは出来るかもしれない。
だが、問題はその後だ。
たった一人を探すために、多くの人が待ち望むシエル教団の巡回を止めたとすれば、人々の怒りの矛先は間違いなく世界政府に向く。そうなった時、世界政府がリッカの後ろ盾をしてくれるだろうか。私用のために権力を使ったリッカを、誰も守ってはくれない。
いや、その前に、ただでさえ仲の良くない世界政府とシエル教団なのに、ここで世界政府として問題を起こしてしまえば、シエル教団が黙ってはいない。まさに世界を揺るがすような争いにまで発展してしまう恐れがある。
実力も経験も備わっていないリッカには、巡回を止めた後の責任を取ることが出来ないのだ。
「……なら、他には……」
一つのアイディアがなくなったというのに、シンクの横顔はまだ諦めていないようだった。何か策がないかと、幼い頭で必死に考えている。
しかし、この状況では――……。
「では、いつ理想の世界が来るのか? 私たちは生きている間に、希望の再来に巡り逢うことが出来るのか?」
リッカとシンクの思考を遮るように、マルスが問いかけて来る。
その答えに対する確証はない。何前年も待ち続けた結果、いまや伝説の英雄になっているのだから、誰も抱けるはずがないのだ。
だが、人々の雰囲気は静まることはなかった。彼らは、その問いに対する確信を抱いている。
「――いや、出来る! なぜなら、この世界には! 我々には、この方がいる!」
そして、その確信を助長するように、マルスが自らの問いに自ら答えた。その言葉には、今まで話してきた中で一番に力が籠っていた。
ここまで来ると、リッカは直感で分かる。
もう巡回のメインイベントが始まる。
つまり、それはリッカの第六感を、最高に最悪な形で成就させてしまうということだ。
「シエル教団の中でも、歴代最高峰の実力とカリスマを兼ね備えた、我らが最高指揮官! 語りし名は、代々受け継がれし伝統の名! そして、今最もこの世で英雄に近しき人物!」
マルスがこれから登壇しようとする人物を一単語一単語ずつ説明していく。言葉が区切られる度に、人々は一つとなって大声を取り上げた。
リッカの心臓が今日一番に逸る。
何がここまで不安にさせるのか分からない。この先、何が待ち受けているのか分からない。
――……クルム。
「その名もぉぉ――!!」
人々の求めに応えるように、マルスが大きく声を張る。巡回の主役の前座として、ここまで言葉巧みに導いて来た甲斐もあって、人々も大きな盛り上がりを見せた。腕を突き上げて、自らをアピールするものもいる。
そして、絶妙のタイミングで、破裂するような音が鳴り響くと同時、高台に煙が起こる。
この煙が消える時、求め続けた英雄に近しき人物が登場する――、そのことは誰の目にも明らかだ。
だからこそ、ヴェルルは歓声に包まれた。
――クルム……、どこにいるの?
その現実を前にして、リッカは目を瞑り、探し続けている人物の名前を心の中で呼ぶ。そして、その逸る心につられ、体は柵に乗り出していた。
そうするのは、何が起こるか分からない未来に対する不安からか、探すことの出来なかった罪悪感からか、それとも別の何かからか、リッカには分からなかった。
――クルム!
薄暗い靄を振り切るように、心の中でクルムの名前を叫ぶと、リッカは目を開く。
もう高台にあった煙は消え、そこには一人の影が佇んでいる。
その人物の影に、リッカは目を疑った。
「ペテェェェ――えッ!?」
隣にいるはずの人物の名前を叫びあげようとしたマルスは、心の底からの驚きの声を上げた。
ヴェルルに集まる人々も、皆開いた口が塞がらないでいる。
予想外の事態に、あれだけ盛り上がっていたはずのヴェルルは一瞬にして静まり返ってしまったのだ。
リッカもシンクも目を見開かせて、驚きを隠せずにいる。隣にいるソマクも予想外の顔を浮かべていた。
そこに現れたのは、皆が待ち望んだ人物ではなく――、
「――」
リッカとシンクにはよく見慣れた人物であり、まさにずっと探し続けていた人物が、いる場所のないはずに堂々と立っていたのだった。