2-08 迫る巡回
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「さぁ、着いたよ」
ソマクに案内された場所は、とある建物の屋上だった。
本来ならシエル教団の関係者にしか入れない場所を、ソマクがそのシエル教団としての権限を使い、立ち入ることが出来るようにしてくれたのだ。
屋外で景色が開かれた場所は、巡回の舞台となっている広場全体を見通すことが出来た。
人々の動きも目視で確認することも可能で、よく目を凝らせば顔の輪郭や雰囲気も分かる。
舞台までの距離も、真正面ではないものの、最前列に並ぶ人と同等に近づいた。
「ここなら人の中に紛れることもなく、安全に探すことが出来るはずだよ。それに、滅多に立ち会えない巡回を間近で見ることが出来る特権付きさ」
「おお、見やすい!」
鼻を高くするソマクに、シンクは屋上からの景色を見ての率直な感想を漏らすと、早速人波の中に視線を移す。
「……っ」
リッカもシンクに続いて、屋上から広場を見下ろしてみたが、ヴェルルの現状――否、シエル教団の巡回の影響力に、息を呑んだ。
上から見ると、改めて人の異常な多さを思い知らされる。
人々が敷き詰まって、広場の地面を見ることは叶わない。
グリーネ大国の端に位置する町で、ここまで人が集まるのは後にも先にもないだろう。
こんな中で猪突猛進に一人の人間を探そうとしていたことの無謀さに、リッカは俯瞰して見ることでようやく気付き、渇いた笑みを浮かべた。
しかし、すぐに気を引き締め直し、クルムのことを探そうと目を至る所に張り巡らせる。だが、そんなに簡単に見つかるのならば、今まで苦労はしていない。
辺りを見渡してみても、クルムを見つけることは出来なかった。
――時間がないのに……っ!
陽は確実に傾いていた。オレンジ色に包まれていたヴェルルも、いまやその色を失いつつある。もう少し時間が経過すれば、人の輪郭を捉えることも難しくなるほど暗闇に包まれてしまう。いや、それよりも早く巡回の始まりを迎えるのが先かもしれない。
焦る心からか、柵を掴むリッカの手が自然と強くなる。
「……? あれは……」
リッカは広場に押し寄せる人々を凝視していく中で、あることに気が付いた。
高台の舞台に、それを守るために壁のように並ぶシエル教団の団員。そこから、一般の人々が押し寄せるように並んでいるのだが、その最前列中央を陣取る人々が、どうやら普通の人とは違う感じがした。
老練で、どこか気高く、余裕に満ちた表情で語り合う――、まさに貴族のような振舞いをしているのだ。
「どうだい? クルム君は見つかりそうかな」
ソマクに横から声を掛けられて、リッカは慌てて視線を別の場所に移す。最前列中央に立つ人々の異様な雰囲気に呑まれ、本来の目的を忘れてしまうところだった。
ただでさえ時間が限られているのだ。別の場所に現を抜かしている場合ではない。
「いえ、まだ……」
「そうか」
ソマクは短く相槌を打つと、リッカとシンクと一緒にクルムを探す手伝いを始めた。本職である警備の傍らではあるかもしれないが、それでも今はその行動がリッカにはありがたかった。
ソマクに感謝する心を抱きながら、リッカも改めてクルムを探すために意識を集中させる。
しかし、リッカは色々なところを探すように意識するが、どうも先ほどの人物たちが気にかかり、無意識に何度も何度も視点が中央に行ったり来たりとしてしまった。
「――ああ、彼らかい」
リッカの視線が一定の箇所を右往左往していることに気が付いたのだろう、ソマクはリッカの疑問に答えるように話題を切り出した。リッカはソマクを見つめる。
ちなみに、隣にいるシンクは話に興味を持たずにクルムを探し続けていた。彼らに気付く気付かないという話より、そもそもシンクには関心がなかった。
「彼らは、ダオレイスを治める各界の頂点達だ」
「各界の頂点……?」
「そう。政治や経済において、常に頂きに立ち、世界を循環させる者たちさ。今までこのダオレイスという世界を導いて来た自負心から、英雄が来た時、自分がいの一番に歴史の生き証人になろうと、権力を用いてでも前に行こうとしている」
ソマクの言葉を受けてから、リッカは改めて各界の頂点達を見つめた。
確かに新聞などで一度は見たことのある顔だった。自分がどのようにして今の座まで上ったのか、公衆の面前で赤裸々に語ったことのある人物もいる。
「我々も、彼らのことを蔑ろにすることは出来ないから、いつも巡回では彼らのために特別席を用意しているのさ。――平等……、本来ならそうあるべきなのに」
溜め息交じりに滔々と語るソマクの横顔は、どこか憂いに満ちていた。
ソマクにしか、いや、シエル教団にしか分からない複雑なやり取りがあるのだろう。
この溜め息という労苦の結晶の上に、彼らは余裕綽々とした態度を取ることが出来ている。
リッカは言葉を出さずに、小さく頷いた。
「……すまないね。ここまで話し込むつもりはなかったのだが……、つまり、彼らはダオレイスのお偉いさんという訳だ。さぁ、急いでクルム君を探そう」
「はい」
前列を陣取る人物たちの正体が分かったリッカは、今度こそわき目を振らずにクルムを探すことだけに集中する。
だが、どこを探してもクルムを見つけることは叶わなかった。
隣にいるシンクも必死に探しているものの、一喜一憂する顔がその結果を物語っている。
星の数ほど多い人の中で、たった一人を見つけるということがどれほど難しいのか――リッカはそのことを改めて痛感せざるを得なかった。
クルムを見つけることを拒むように、更に世界は黒へと染まる速度を上げる。それにより、人々の輪郭を捉えることも難しくなっていた。
だからと言って、最後まで諦める訳にはいかない。
――ここで諦めたら、クルム・アーレントと二度と会えなくなる。
リッカは得体の知れない予感に囚われながら、力強く前を向く。
「……私だ」
その時、リッカの耳に小さな機械音と共に、誰かと応対する声が小さく聞こえた。その音は、判決を下す槌の音のようにリッカの鼓膜を貫く。
声の方角を振り向くと、空を見上げながらエインセルを耳に寄せているソマクがいた。
もう西の彼方へと帰る陽は、慈悲を掛けるように頭頂部を残しているだけだ。だからといって、その陽の恩恵を最大限に受けることは叶わない。
息を殺しながら、リッカはソマクの様子を窺った。しかし、リッカにはソマクが電話口で誰とどんなやり取りをしているのかは分からない。
だから、リッカはソマクが話す様子を縋るように、祈るように、ただ黙って見つめることしか出来なかった。
「……なに、あの方がそう言ったのか? ……分かった。ならば、予定通り始めよう」
ソマクは終始難しい表情をしていたが、やがて意を決したように短く強く言葉を紡ぐ。
そして、耳から放したエインセルへ切なそうに一度目をやると、ソマクはエインセルを懐に仕舞った。
直後、リッカとシンク、二人の方に振り向いたソマクは、
「――リッカちゃん、シンク君。残念だが、クルム君を探せるのはここまでだ」
微かに残された一縷の希望を打ち砕くような、幕切れを告げた。
「なっ! まだ見つかって――」
「お待たせいたしましたぁぁ!」
反論しようとするシンクの声をかき消すように、空を割らんばかりの声が響く。リッカとシンクは声の大きさに肩を震わせるのに対し、ソマクは一切動じることはなかった。
更に、今しがた響いた声は、ヴェルルの至る所へと反響されていく。恐らくエインセルを通して町中の拡声器と連動させているのだろう。
リッカ自身もオリエンスで使ったことのある手法だから、よく分かる。
問題は、誰がそのようにしているか――、だ。
リッカとシンクは、その声の根源地となっている背後を振り返った。
暗闇に包まれているはずの場所に、突如光が灯される。その突然の明かりに、リッカとシンク、いやヴェルルにいるほとんどの人の視界が、一瞬の間奪われた。
そして、次の瞬間――……。