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2-06 剣影

 ***


「……」


 リッカは神妙な面持ちで、目の前にいる女性が書類を確認する姿を見つめていた。


 女性の書類を確認するスピードは速く、白い淵をした眼鏡の奥に光る彼女の目は上下左右に凄まじく動き、読み終わるとすぐに次の紙へと進む。

 宣告を受けるのを待つかのように張り詰めた空気の中、リッカは緊張のあまり喉を鳴らせた。


 そのタイミングと同時、書類を読み終えた女性は用紙を机にあてて整えると、


「不備は見当たりませんでしたので、以上で滞在申請は完了です」


 と業務をこなすように淡々と告げた。


 その言葉を聞いて緊張から解放されたリッカは、ほっと溜息を吐いてから腕を大きく伸ばした。


「お疲れ様、大変だったでしょう?」


 眼鏡を掛けた女性――世界政府のヴェルル支部に配属されているカーサ・ラフニアは微笑みながら、リッカを労わるように語り掛けた。一仕事終えたカーサからは、淡々と業務をこなしていた先ほどの姿は感じられなかった。


「あ、いえ。そんなことはありませんよ。私より、カーサさんこそ大変でしたよね? 新米の私に一から教えながらだなんて」


 伸ばしていた腕を戻したリッカは、楽にカーサと会話を交わし始める。


 机の上に置かれている書類は、世界政府としてヴェルルの町で行動をするのに必要な書類だ。ここにサインをして申請をしなければ、たとえ世界政府として行動したとしても、その町での功績は一切認められない。


 ちなみに、リッカは世界政府に入ってから滞在申請を出すのは二回目になる。

 しかし、オリエンスで初めて世界政府として活動したリッカは、クレイやラピスから何の説明を受けずに、ただ言われるがままサインをした。あの時は状況が状況だったから、仕方がなかった。

 だから、世界政府の滞在申請について何も知らないリッカは、目の前にいるカーサに優しく一から教えてもらったのだった。


 カーサは大陸支部に所属するリッカを上の立場の人として扱うのではなく、世界政府に入ったばかりの新人リッカ・ヴェントとして接してくれた。カーサと話す時、正直リッカは気負う必要がなかった。


「ふふ、私は教えることは好きだから、むしろ楽しかったわ。はい、リッカちゃんのエインセルの方も無事同期が完了したみたいね」


 言葉の通り、カーサは嫌な顔一つ浮かべることなく、世界政府の証明書であるエインセルをリッカに渡した。リッカは自らの写真が載っているエインセルを笑顔で受け取る。


「ありがとうございます!」


 そして、同期を終えたエインセルを受け取ったリッカは、早速エインセルに触れた。すると、エインセルに詳細な地図が表示された。


「わぁ、本当だ! エインセルから地図が出てきた!」


 世界政府の証明書であるエインセルを各町で同期すると、その町の地図が出て来る仕組みになっている。世界政府が道に迷って業務に支障が出ないようにするための措置だ。

 そして、同期されたエインセルには地図の他にも、各町に滞在した記録が保存され、政府としてどのような行動をしたのかが刻まれる。

 つまり、エインセルの中を見たら、その人の世界政府としての経歴が丸分かりになってしまう仕様なのだ。


「今いる場所が、ヴェルルの北側ね。それで、今日シエル教団が巡回する場所として選んだ場所がこの広場」


 カーサはリッカのエインセルを覗きながら、ヴェルルの町を大まかに教える。カーサが教えてくれたことは、滞在申請の方法も地理関係も、分かり易く理解することが出来た。


「これさえ知っていればオリエンスでも迷わずに済んだのにぃ……」

「あ、あはは……、これから使っていけばいいのよ」


 口を尖らせるリッカに、カーサは細い指で眼鏡の蔓に触りながら、困ったように渇いた笑みを浮かべた。


 その時だった。


 リッカとカーサの間を割るように、ヴェルル支部の扉が開かれる音が響いた。その音を聞いたカーサは一変、先ほど仕事をこなしていたキリッとした表情に切り替わった。眼鏡の奥の目が光る。

 リッカもカーサに向けていた顔を、扉の方に振り向ける。


 そこには、世界政府の白いコートを羽織り、剣を背にした青年が立っていた。


 黒く染まる髪、鋭く研ぎ澄まされた青の双眸、何物にも揺らすことのない頑丈な体躯、強靭な足腰――、そして、そんな身体的特徴など気にも留めさせない、隠しても隠し切れない威圧。

 彼を一目見るだけで、呼吸することさえ赦されなくなる。


 目の前にいる青年はまだ本気の欠片も出していないだろう。彼は平常時で、人を圧倒することが出来てしまうのだ。

 リッカは同じ世界政府の仲間のはずなのに、彼の圧倒的存在感に体の震えを抑えることが出来なかった。警戒するように、睨み付ける。


 そのリッカの様子に気付いたのか、青年はやれやれと言ったように肩を竦めると、


「滞在申請をしたい」


 淡々と口を開かせた。


 その一言で、この場を占める緊縛とした空気が緩和していく。リッカの体の震えは、いくらか治まっていた。しかし、まだ動くことは叶わない。


「はい、そちらの書類に必要事項の記載をお願い致します。あと、エインセルの提出の方も宜しくお願い致します」


 普段と変わらない仕事の姿勢で、カーサは右手で案内をする。青年は横目で提出書類が置いてある机を捉えると、扉から一直線にリッカ達に向かって歩き始めた。先にエインセルを渡すためだろう。

 一歩一歩、青年はリッカとカーサに近づいて来る。その冷酷な視線は、こちらを見定めるように鋭く尖っているようにリッカには感じられた。


 ――この人は何者なんだろう……?


 リッカは緊張のあまり、息を詰まらせ、瞬きをする。


「頼む」


 たった僅かな瞬きの瞬間で、十分にあったはずのリッカとカーサとの距離を、青年は詰めていた。青年は懐からエインセルを取り出し、カーサの目の前に置く。カーサは丁重に頭を下げ、エインセルを預かった。

 青年はリッカのことを一瞥だけすると、書類が置いてある机へと歩き始めた。


「……彼は?」


 青年が書類を手にしたのを見て、リッカは一息吐くと、エインセルの同期作業に取り掛かり始めたカーサに問いかけた。まだリッカの額に冷や汗が流れている。


「彼は世界政府が誇る戦士、シオン・ユーステリア」


 カーサが青年の名前を名乗ると同時、同期を始めたエインセルから、今なお同じ空間にいる青年――シオン・ユーステリアの顔と基本的な情報が映り出す。


「所属部署は世界支部で――、恐らく世界政府の中でも十指の実力の持ち主よ」

「世界政府の中で……? 世界の中で、の間違いじゃないか?」


 カーサがシオンの説明をした途端、即座にその説明を否定する言葉がリッカの背後から降り注がれる。


 リッカが後ろを振り向くと、そこにはシオンが立っていた。

 その氷のように冷たく透き通った青の瞳は鋭く、どこか熱い焔のような意志が垣間見られた。その声音にも、先ほどの淡々とした口調とは変わって、怒りの色も滲み出ていた。きっと本人の中で譲れない誇りなのだろう。


 カーサはシオンの指摘を受けて溜め息を吐く。


「はいはい、多くの罪人を傷一つ受けることなく捕らえた功績を買われて、今回のシエル教団の巡回の護衛を任されたシオン・ユーステリアさんは世界でもお目に出来ないほど最強の戦士で、世界政府の誇りです」


 カーサは口早く言うと、シオンに向けて催促するように手を伸ばした。


 シオンはこれ以上話すのは無駄だと言わんばかりに、サインを終えた書類をカーサに無言で渡す。カーサは受け取ると、その場で手慣れたように書類の確認を始めた。教えながらやっていたリッカの時に比べ、その手つきは明らかに早かった。


「はい、これで手続きは完了です」


 書類の確認を終えたカーサは、同期が終わったエインセルをシオンに渡した。シオンはエインセルを受け取ると、先ほどのリッカのように起動することなく、懐に入れる。


 これにて世界政府としてヴェルルを自由に動けるようになったシオンは、カーサとリッカに背を向けて、一歩を前に出した。


 しかし、そのままヴェルル支部を出ていくかと思いきや、シオンは一歩出したところで立ち止まると、「ラフニア」とカーサの名を呼んだ。


「またな。次はもっと早く会えるといいな」

「私は願い下げよ。あんたの近くはいつも物騒なんだから。あんたと会うのは五年に一回で十分」


 シオンの言葉に、カーサは溜め息交じりに応じる。だが、言葉とは違って、その表情からは嫌気は感じられなかった。

 シオンは最後に微かに口角を上げると、ヴェルル支部の外へと出て行った。


 ヴェルル支部を張り詰めていた痛々しい空気は、シオンが去ると共に消える。リッカはようやく深く息を吐き、平常心を取り戻すことが出来た。


「カーサさんは、彼……シオンさんと知り合いなんですか?」

「うーん、まぁ、一応世界政府の同輩なんだよね。初めて会ったのが、もう十年位前になるのかなぁ。互いに別の部署に配属された上に、シオンはどんどん地位を上げていくから、なかなか接点も少ないんだけどね」


 頬杖をつきながら語るカーサは、過去を思い出しているようだった。眼鏡の奥にある瞳も、遠くを捉えている。


「シオンは自信家で掴みにくい人間に見えるけど、ああ見えて面倒見もよくて、面白い奴なの」


 リッカはカーサの言葉を信じられなくて、思わずシオンが去った方向を見つめた。その様子を見て、カーサは口元を隠しながら笑った。

 そして、笑いを止めると業務をこなす時と一味違う真剣な面持ちに変わる。


「でもね、シオンの実力は本物よ。彼の速さの前には、並大抵の罪人なら影を追うことさえも出来ないわ。だから、人々は彼の持ち味であるその速さから、シオン・ユーステリアのことを――」


 カーサは次に繋がる言葉を強調するために、一度区切りを入れ、目を閉じた。リッカもカーサの仕草につられて、思わず息を呑む。


 そして、カーサは眼鏡の奥に隠された双眸をゆっくりと開くと、


「――剣影、と呼ぶ」


 はっきりとシオン・ユーステリアの異名を告げた。


「剣……影……」


 リッカは言葉を詰まらせながら、カーサが語ったシオンの異名を口に出す。


 確かにシオンの速さは並大抵ではなかった。瞬きをした瞬間に距離を詰められてしまったが、あれもシオンにとっては遊びにも及ばない動きなのだろう。


 リッカはもう一度シオンが去っていた扉へと目を向けた。

 トレゾール大陸しか回ることの出来ない大陸支部のリッカには、世界中を自由に駆け巡る世界支部のシオン・ユーステリアに出会える機会などなかなか巡って来ないだろう。


 そう思った時だった。


 静寂に包まれたヴェルル支部に、再び扉の開く音が響く。


 ――もしかしてシオンさんが戻って来た……?


 そう思い、リッカはカーサの顔を盗み見るが、カーサは完全に予想外の表情を見せていた。カーサの表情から、リッカはヴェルル支部に訪れた者がシオンではないと踏む。

 きっとカーサだったら、シオンの動作音も分かっているだろう。

 だから、リッカは扉を睨み付け、何があっても対応できるように気を張った。


「……リッカぁ」


 すると、その緊張を水泡に帰すような弱々しい声がヴェルル支部に響く。リッカには何度も何度も聞いたことのある声だ。


「シ、シンク!?」


 突然の来訪者の名前を呼ぶと、リッカは急いで扉へと近づいた。リッカの予想は当たり、扉のそばには、悪いことをしでかしたかのように顔を俯かせているシンクがいた。


「……リ、リッカちゃんの知り合い?」


 カーサは警戒心と心配の入り混じった声でリッカに問いかけた。


「はい、ちょっと色々な理由で面倒を見ているのですが……シンク、どうしたの?」


 リッカはシンクに視線の位置を合わせながら、優しく語りかける。いつになくシンクは思い詰めている表情だ。


「クルムが……」

「クルム?」


 クルムの名前が出て、リッカは辺りを見回した。


 そういえば、クルムの姿が見当たらない。

 リッカがヴェルル支部に向かう直前までは、確かに二人は一緒に行動していたはずだ。

 そのはずなのに、今シンクはわざわざヴェルル支部までの遠い道を一人で歩いてやって来たのだ。


 リッカはシンクのことを詳しく観察する。

 シンクの表情は青ざめており、全身から汗が湧きだしていることから急いで駆けてきたことも分かる。それに加え、シンクの体には所々擦り傷が付いていた。


「シンク! クルムはどうしたの? まさか……」


 ――まさか、平和を脅かそうとする輩に遭遇して、クルムはシンクのことを命からがら逃がしたのか……? そして、今もなおクルムは交戦中とでもいうのだろうか……?


 シンクはゆっくりと確かに縦に首を振る。恐怖からか、唇をぎゅっと噤んでいた。


 どうやらリッカの嫌な予感は的中してしまったようだ。


「……ッ! カーサさん、今すぐ応援を呼んでください!」


 居ても立っても居られなくなったリッカは、後ろにいるカーサの手を借りようと叫ぶ。


「え、ええ。で、でも、リッカちゃんは……?」

「私は今からクルムのところに――」

「俺が買い物をして目を離している内に勝手にどこかいなくなっちまったんだよ」


 ヴェルル支部を飛び出そうとしたリッカだったが、シンクの言葉に、リッカは言葉の通り力が抜けて転んでしまった。

 緊縛していた空気には似つかない間の抜けた音が響き渡る。

 カーサも応援を呼ぶためにエインセルに伸ばした手を引っ込めた。


「は、はい?」


 リッカは思わず聞き返す。


「だーかーらー、俺が色んな店に走り回っている間に、クルムが迷子になっちまったんだよ。まったく、一緒に買い物に行くって言ったのに」


 シンクは拗ねるように唇を尖らせながら言った。その言葉にリッカは呆れて物も言えず、無言のまま体を起こした。


 ――確かにリッカが早とちりしたから、リッカにも悪い部分はあるだろう。


「は、はは、は」

「ん? リッカ、大丈夫か?」


 体を起こしたまま、小さく嘲笑だけ浮かべて震えているリッカに、シンクは心配になって声を掛ける。しかし、シンクは誰のせいでそうなったのか分かっていないため、その気遣いは逆効果だ。


「リ、リッカちゃーん? 応援は必要かしら?」


 カーサは恐る恐るリッカに声を掛けた。カーサからは背中を向けているリッカの表情は分からないが、リッカの心境は推して図ることが出来る。


 リッカは小さく首を横に振った。


「……あのね、一つだけいい?」


 口調は優しいが、全く笑っていないリッカに気圧され、シンクは何も言わずに首を縦に振った。いや、縦に振らされた、と表現すべきか。


 ――悪い部分があると認めた上で、どうしてもシンクに言いたいことがある。


 リッカはまさに絵に描いたような作り笑いを浮かべると、大きく息を吸い、


「それは迷子になる側の典型的な主張よー!」


 ヴェルル支部の屋根を突き破らんばかりに、心からの叫びを上げた。

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