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2-02 旅の意味~旅立つ理由~(後篇)

「この旅の目的が何なのか――それを、僕は分かっているから、この道も怖くありません」


 遥か彼方を見つめるクルムの黄色い瞳は、遠い先にあるものをはっきりと描いているようだった。その瞳が捉えているものは、目的地――、目的である場所ではなく、クルムの旅の果てにある目的を見据えられていた。クルムの言葉も、同様の意味を持つのだろう。

 その未来を実現させるためなら、どんな困難だって乗り越えていく――、そんな覚悟がクルムの横顔から垣間見られた。


「いいですか、シンク」


 名前を呼ばれたシンクは、静かにゆっくりと、声の聞こえた方に振り向いた。

 いつの間にか、クルムはシンクのことを真っ直ぐに見つめている。


「人生はいつだって楽な道が続くとは限りません。遅かれ早かれ、いつか必ず、立ち止まりたくなるような状況にぶつかります。ビオス平原から、この旅を始めたのも、そのことを知って欲しかったからです」

「……なら、どうやって、その状況を乗り越えていけばいいの?」


 クルムの言葉にリッカも思うところがあるのだろう、シンクの代わりに、今まで口を閉ざしていたリッカが問いかけた。


 クルムは、リッカとシンク二人のことを交互に見つめると、


「目的を持つこと。それを達成することによって得られるものを、確信すること。今その時に受ける苦痛より、それに打ち勝って得られる未来の喜びの方が大きいですから」


 優しい声音で語りかけた。


 クルムの話に引き込まれたように、リッカとシンクは黙って耳を傾けている。

 その集中している二人に、クルムは突如彼らの前に一本指を突きつけた。クルムの表情は、悪戯っ子のように輝いている。


「でも、ここで一つ。目的を達成させるために、必要なことがあります。それは何だと思いますか?」


 リッカは唇に指を当てながら、シンクは脳を絞り出すように唸りながら、クルムの質問に対する答えを考えていた。しかし、突然の質問ということもあり、リッカとシンクはなかなか答えることが出来なかった。

 クルムは二人が必死に考える姿を見ると、自然に微笑みを浮かべた。先ほどの悪戯っ子のような表情とは違い、がむしゃらに挑戦する子供を眺めるような、そんな眼差しだ。


 そして、ゆっくりと一度だけ目を閉じ、強調するように黄色の双眸を開かせると、


「――必要なこと。それは、自分を有能に作ることです」


 クルムは心臓を労わるかのように、自身の胸に触れた。丁寧で、丁重で、自分自身という命を大事にしていることが伝わる。


「有……能……?」


 反芻する二人の言葉に、クルムは首を縦に振る。


「残念ですが、困苦というものは必ずやってきます。でも、その終わりはいつか絶対に訪れる。その問題に押し潰されないよう自分を作れば、例えどんな状況に陥って、一人きりだったとしても――、乗り越えることが出来るようになります」


 クルムは自身に触れていた手を、世界に向けて大きく広げた。その姿は自信に満ち溢れているようで、普段のクルムより何倍も背丈が大きく見えた。


「逆に、作らなければ、微々たることに過剰に反応して、接するもの全てが苦痛に感じることになるでしょう」


 そのクルムの言葉に、シンクの頭に鈍器で殴られたような鈍い衝撃が走る。


 今のクルムの言葉――、それはシンクの今の姿と、まさに重なっていた。

 たった一日しか歩いていないにも関わらず、進む道の果てしなさに嫌気が差すと、子供らしい言い訳で現実から目を背け続けたシンク・エルピスのことを指摘されているようだった。


 目の前で腕を大きく広げるクルムと共にビオス平原の広大さを改めて認識してしまうと、シンクは気圧されするように生えている草を握り締めた。


 いつになったら、目の前にいる人物のように、堂々と自信をもって生きる自分自身を作ることが出来るだろうか。


 ――いや。


 そこに至るためには、あまりにも長い時間を要するだろうと本能的に分かってしまった。


 シンクは下を俯きながら唇を噛み締めると、


「俺には荷が――」

「シンク」


 諦めの言葉を吐き捨てようとする直前、クルムに名前を呼ばれ、その続きは遮られる。耳に入ったクルムの声音は初めて聞くもので、鋭く心に触れた。

 そして、シンクに反応をする隙も与えぬまま、


「始める前から挑戦する気がないのなら、いつまでも変わることは出来ません」


 クルムはばっさりとシンクの心を裂いた。シンクは下を向きっぱなしでいたため、クルムがどのような表情をしているのか分からない。


 しかし、それでも、シンクに分かることが一つある。


 クルムの言葉は、理想論だ。机上の空論であり、クルムのように最初から力のある者だけが語ることの許される答弁に過ぎない。


 生まれもって力のある者に、弱い者の気持ちは分からない。

 自分の信じた道を切り拓くクルムに、勢いしか能のないシンクの心は分からない。

 その状況を、この心境を経験せずに生きているからだ。


 ――みんな、お前みたいに完璧じゃない……っ。


 シンクがそう言おうとした時だった。


「僕も初めから出来たわけじゃありません。何もない場所で悔しい思いも苦しい思いもたくさんしてきました」


 クルムがシンクよりも早く言葉を紡ぐ。

 出鼻を挫かれてしまったシンクは、勢いに乗ったままクルムのことを見つめた。


 クルムは自分の手に目線を当てていた。その訝しむ表情は、遠く苦い記憶と対峙しているようだ。

 今までにないクルムの表情に、シンクも、隣にいるリッカも、口を挟むことは出来ない。

 その姿は、クルムが壮絶な道を歩んできたことを――歩んでいるということを二人に悟らせるには十分だった。


「知っていますか?」


 クルムは言葉を重ねていく。


「かの英雄も自分を作ってから、人々に寄り添い、力になったことを」


 ――かの英雄。


 この世界で英雄と呼ばれる人物は、たった一人、シエル・クヴントしか存在しない。


 クルムの言葉をきっかけに、シンクが追い続けた英雄の姿が脳裏にはっきりと思い浮かび、シンクはハッとする。


「だから、誰にでも自分を作ることは出来ます」


 クルムは手の平を握り締めると、揺るぎない声ではっきりと告げた。その声は実際に経験した者だけが出せる声で、そうなることをまるで疑ってはいないようだ。


「シンク」


 力強く自身の名前を呼ばれ、シンクは意識をクルムに向ける。

 クルムは心からの笑みを浮かべていた。


「どうせ作るんだったら、このビオス平原のように、大きく作りましょう」


 クルムの言葉に引っ張られるように、シンクは再びビオス平原を見つめた。先ほどと何の景色も変わっていないはずなのに、ビオス平原の見え方は百八十度違う。

 あんなにも怖かった広大さも、いつか自分も大きくなれるという指標に変わっていた。


 シンクはクルムから目を離さず、地に生えている草を自然と握った。その手は僅かに震えている。しかし、その震える意味も、先ほどとは全く違う理由だ。


 衝撃――。心に受けた抑えきれない衝撃が、体にも影響を与えている。


 クルムの言う通り、シンクには旅をする明確な理由がなかった。だから、たかが先の見えないだけの道で、シンクは立ち止まり、文句を言った。


 けれど、今、シンクの旅は変わった。


 ただついて行くだけの好奇心で終わる旅ではなく、変化した自分に出会うという意志で始まる旅に変わった。


 シンクは自分でも気づかない内に、思い描く未来に向かって、口角を鋭く尖らせた。


「……」


 その傍らで、リッカはいつの間にか、クルムの言葉に聞き入っている自分に気付いた。話し方、声量、ジェスチャーなどのクルムの話術は、あまりにも人の心に響かせることに長けていた。


 長く長いビオス平原を歩きっぱなしで疲れているにも関わらず、疲れも吹き飛んでしまうくらいにリッカはクルムの話に集中していた。その感覚は、現実から非現実に連れていかれた感覚に近い。


 クルム・アーレントは優しく、力が強い――、ただそれだけの人間ではなく、話術に優れていることもリッカはこの時間で認識した。


 ――だから、過去にクルムについていく人が多かったのだろうか。


 リッカが口に指を当てながら考えている間、未だ衝撃から抜け出せないでいるのか、シンクは微動だにしなかった。

 その姿を捉えたクルムは、ふと我に返ったように破顔していく。


「それでも――、やはりシンクはビオス平原が震えるほど怖くて、動くことが出来ないですか? ……なら、もう少しここで休みましょう」


 クルムは一度だけ微笑むと、疲れをほぐすようにその場で大きく腕を伸ばした。

 突然の態度の変わりように、リッカとシンクは呆気に取られた。

 しかし、すぐその意図に気付いたリッカは口元を手で隠し、小さく笑いを漏らす。


 安い挑発だ。シンクを動かすために、クルムはわざと憎まれ口を叩いている。


「――……クルム!」


 リラックスするクルムに、シンクは元気を取り戻したように立ち上がった。クルムの意図した通りの展開である。

 しかし、クルムの狙いに全く気付かずにそのまま挑発を受け取ったシンクは、まるで自分の力を示すかのように、クルムに人差し指を突きつけた。


 先ほど座り込んでいたシンクと、今立ち上がっているシンクはまるで別人だった。


「こんな場所にこれ以上一秒だって使ってやるもんか! 早く抜け出して、次の町へ行こうぜ!」


 シンクが高らかに宣言し、あんなにも重かった足を、一歩また一歩と前に出した。


 先ほどとあまりにも違うシンクの姿に、リッカは驚きを隠せず、


「クルム、あんたってやっぱり只者じゃないね」


 と本心から言った。


 立ち上がる意志がなかった者を、再び歩けるように力づけるということは、当たり前に出来ることではない。


 クルムはリッカの言葉に、小さく頬を緩めると、


「……何のことですか?」


 まるで素知らぬ振りをするかのように、とぼけた口調でそう言った。リッカは「ふーん」と腕組みをしながら、クルムのことを眺めた。

 そのリッカの姿は、クルムが本当のことを話すのを暗に促しているようだった。


「ほら、遅いぞ! 何やってるんだよー」


 クルムとリッカを逆に催促する立場になったシンクは、既に少しだけ離れた場所にいた。早く先に進むよう、手を振って指示をする。


 リッカはこれ以上追及するのを止め、「今行くから」とシンクに返事をすると、一歩踏み出した。しかし、リッカは先に進むことなく、そこでぴたりと立ち止まってしまった。

 クルムは何事かと頭に疑問符を浮かべる。


「とぼけるつもりなら、それでいいけどさ」


 リッカはクルムに背を向けたまま、語る。そして、


「いつか絶対に白状してもらうから!」


 クルムに振り返りざま、リッカは笑顔を向けると、シンクと距離を離さないよう走り出した。


「立ち上がったのはシンク自身です。僕はきっかけを与えたにすぎません」


 リッカが走り出したのを見送り、クルムは誰にも聞こえないような声で呟いた。その瞳は、元気に前を進むシンクとリッカを捉えている。

 一度口角を上げると、クルムもシンクとリッカに後れを取らないように、右足を前に出した。


 その時だった。突如、ビオス平原を揺るがす激しい振動が襲った。

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