1-39 立場
この場にいる誰もが、声の聞こえた方向に顔を向けた。
そこには、世界政府のオリエンス支部長クレイ・ストルフが立っていた。クレイの傍にはラピスもいる。
「何でも屋のクルム・アーレント……と言ったかな。こうして話すのは初めてだな。私は世界政府に所属するクレイ・ストルフ。以後、お見知りおきを」
こんな状況の中だというのに、クレイは丁寧に頭を下げながら挨拶をした。クレイにつられて、クルムも頭を下げる。
「今回のカペルの一件を解決できたのは、あなたが尽力してくれたおかげだとリッカ様から聞いた。この町を代表してお礼を言わせていただきたい」
クレイは先ほどよりも深く頭を下げた。そのクレイの態度に、誰もが息を呑んだ。
クルムは慌てて何かを言おうと口を開く――、
「ちょ、ちょっと待ってください!」
が、クルムより先に言葉を上げたのは、リッカだった。
「何もクレイさんが頭を下げなくても……いやいや。それより、クルムをオリエンス支部に連れて行かなくてもいいって!?」
リッカの言葉にクレイは下げていた頭を上げた。そして、クルムに一瞥をすると、リッカに顔を向ける。
「言葉の通り、彼を捕まえる理由が存在しないのです」
クレイは企んでいるような顔を浮かべていた。
しかし、リッカもクルムも、更に困惑が増すばかりだ。リッカは開いた口が塞がらない。
「彼はオリエンスの町では何の罪も犯していません。むしろこの町を悪から救ってくれた人間……。だから、オリエンス支部が彼を捕まえる権限は存在しないのです」
クレイはそう言いながら、年を感じさせない悪戯っ子のような笑顔を見せた。クレイの言葉に対してオリエンスの人々は、同調するように首を縦に振る。
「し、しかし彼は……っ」
「もし彼が過去何か大きな過ちを犯したとしたら、なおさらオリエンスのような小さい支部には判断出来かねます。だから、彼の件は大陸支部であるリッカ様にお任せします」
それでも納得の出来ないリッカはクレイにクルムの肩書き――罪人という経歴があることを話そうとしたが、クレイはリッカの話を撥ね退けて、知らぬ顔をしながら話を続ける。
「もし、彼をどうしても捕まえたいと言うのであれば、オリエンスを離れてお願いします。あ、あと隣町のビルカでも彼は何もしていないので、ビルカで捕らえることは出来ないと思います」
クレイはリッカに反論をする隙を与えないほど、つらつらと饒舌に言葉を語った。
リッカはクレイの話を受けて、茫然としていた。きっとクレイに何を言い返しても、柳のように受け流されるだけだろう。
しかし、リッカにはクレイがこのようにクルムを庇おうとする理由が分からなかった。
――世界政府として生きているのだから、罪人として生きている人は捕まえるべきではないだろうか……。
「リッカ様、察してください」
その時、今までと違う真面目なクレイの声がリッカの耳に響いた。
「この町を救ってくれた英雄のような人間に対して、これが私の立場で出来る唯一の謝礼なんです」
リッカはクレイの顔を見つめる。
クレイは薄く微笑んでいた。悩んで悩んでこの場で出せる最善の答えを見出したということが伝わってくる。
――全てを知った上で、クレイはクルムのことを逃がそうとしている。
クレイのその表情に、リッカは完全に言葉を失ってしまった。
今まで考えすぎて溜め込んでしまっていたものが、空気の抜けた風船のように萎んでいく。
「私はリッカ様がどんな判断を下しても、このオリエンス支部の支部長である限り、リッカ様の意見を尊重しますので。では!」
渋々ではあるものの、ひとまず納得した様子のリッカの肩にクレイは手を置くと、豪快な笑い声を上げながらオリエンス支部へと戻っていった。ラピスも、リッカやクルム、この場にいる人々に一礼をすると、すぐにクレイの後について行った。
リッカは拳を握り締めながら、クレイが去るのを見つめている。その姿が見えなくなっても、何かを見極めるようにずっと同じ方向を見続けていた。
「……リッカさん?」
クルムは立ち尽くしているリッカにおずおずと言葉を掛けた。しかし、リッカは何も反応を見せない。
リッカのことを心配しているのか、クルムの足に抱きつくララの力は、少し弱まった。
「あのー……」
クルムがリッカにもう一言掛けようとした時だった。
動きを微動だに見せなかったリッカは、ばっと勢いよく振り返った。
リッカは真っ直ぐクルムに顔を向き合わせた。迷いが風に吹き飛ばされたように、リッカの表情は晴れ晴れとしていて、先刻のような表情は微塵も滲み出ていなかった。
クルムはリッカの顔を見て、思わず微笑みを浮かべた。クルムの足に手を触れていたララも、先ほどとは違うリッカの表情に、無意識にクルムの足から手が完全に離れた。
「クルム!」
リッカはクルムの名前を一度呼ぶ。
「はい、なんでしょう」
クルムがリッカの言葉に返すと、その言葉が合図になったように、リッカは一歩一歩とクルムに近づく。
クルムとリッカの距離が限りなく零になる。手を伸ばせば触れることが出来るほどだ。
「――こっちに来て!」
リッカはそう言うとクルムの袖を掴んで、歩き始めようとした。
「あ、ちょ、ちょっと待って」
リッカの行動を言及せずにそのまま受け入れるクルムに代わって、ララが制止するように言葉を掛けた。
リッカは立ち止まり、人を守るために力強い瞳を出すことの出来る少女を見つめた。
ララは、クルムの体から離れた手で自分の服を握っていた。どうしたらいいのか分からないと言いたそうに、リッカのことを見つめている。
リッカは、安心させるように優しく微笑みかけると、
「大丈夫。お姉ちゃんは、何でも屋のおじさんにお礼をしに行くだけだから」
透き通った声色で、はっきりと告げた。
つい先ほどのリッカからは想像も出来ないほど、リッカは縛られていたものから解かれているようだった。
「……おじさんは酷いですよ」
「子供から見たらクルムはおじさんよ?」
「じゃあ、リッカさんは――お姉さんですよねー」
「あっ! その言い方、絶対思ってないでしょ!」
クルムとリッカはくだらないことに対して、互いに言い争っていた。
しかし、その言い争いも先ほどみたいな険悪とした雰囲気ではなく、信頼し合っているからこそ言い合える冗談みたいな、どこか優しい気持ちになれる雰囲気で繰り広げられていた。
「……ぷ、あはは!」
そのことを感じ取ったララは、笑いを堪え切れずに声を上げて笑った。急に笑い声を上げたララに、クルムとリッカの言い争いは中断させられた。
ララは単純に二人が仲良くしているのを見て嬉しかった。ララにとって、クルムもリッカも命の恩人だ。だから、二人にはいつまでも仲良くしてほしいとララは心の中で願う。
そんなララの思いを知らないクルムとリッカは、お互い似たようなきょとんとした顔でララを見つめていたが、次第に顔が崩れていった。
「うん、分かった。お礼が終わったら――、また戻って来てね」
ララは一度小さな指で目を擦ると、手を振ってクルムとリッカを見送るようにした。その表情は、別れを惜しむような暗いものではなく、満面の笑みに彩られていた。
「うん、必ず」
「はい、必ず」
ララの言葉に二人とも同じタイミングで言葉を返すと、リッカはクルムの服を引っ張って歩き始めた。
離れていくクルムとリッカを見つめて、ララは小さな声で「ありがとう」と呟いた。
「すみません、ここでお別れのようです」
クルムは人々の横を通る時、謝るように言葉を紡いだ。
人々はお互いに顔を見合わせると、誰からともなく笑い出した。何を言っているんだ、と笑い飛ばしているかのようだ。そして、
「また来てください。次あなたが来られるときは、この町はもっと素晴らしくなって、もっと栄えていますから」
「楽しみに待っていますね」
オリエンスの人々はクルムと約束を交わす。
クルムはリッカに引っ張られながら、オリエンスの居住区から一歩一歩と離れていく。
「フィーオさん、ありがとうございました」
フィーオにちゃんと礼を言っていなかったことを思い出したクルムは、フィーオに話しかけた。声を掛けられると思っていなかったフィーオは、一瞬肩を震わせた。
「世界一の商人になった時、僕に世界一のものを売ってくださいね」
「あ、ああ。任せてくれ。その時は、クルムが見たことのないような最高の物を用意してみせるよ」
クルムの言葉にどこか歯切れが悪かったフィーオだったが、世界一の商人となった時の未来の約束を交わした。クルムはそのことに笑みを向ける。
「では、みなさん。また会いましょう」
クルムは満面の笑みをオリエンスに向けながら、手を振った。
オリエンスの人々も、笑顔で手を振り返す。人々の中には、感極まって涙を流している者もいれば、感謝の言葉を告げる者もいた。
まるで英雄を送り出すためのファンファーレのようだ。
人々の歓声に包まれながら、クルムはリッカに袖を掴まれてオリエンス支部とは反対の方向に導かれていく。
いつも行く先を風に身を任せて決めるように、クルムは目を閉じた。
奇跡的に無事だったオリエンスの居住区の象徴でもある風車が、カラカラと音を立てて回っていた。