1-36 夜が明けたなら
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クルムがカペルの頭に弾丸を放ってからコンマ数秒――、カペルはクルムに寄りかかるように前へと倒れた。
クルムは両腕を広げ、カペルを受け止めた。倒れたカペルには、頭に直接銃弾を受けたはずなのに、一切の傷が存在していなかった。
そして、カペルを受け止めたクルムは、今まで深く深い海に潜っていたかのように長く息を吐いた。少し安心したような表情も浮かべている。しかし、その息の吐き方は、まるで呼吸を整えて、再び潜るための小休憩のように見えた。
完全に落ち着く暇もないまま、すぐに倒れ込んだカペルから、行き場を失ったかのように黒い靄が出てきた。
夜明けが近くなった明るい空には、誰の目からもはっきりと分かるほどに黒い靄が浮かび上がっていた。
次第に靄は形を作り上げていく。
出来上がったその姿は、まるで空想上の話に出てくる悪魔のようだった。
人々はその忌々しい形の靄を見ながら、悲鳴を上げていた。
しかし、クルムはその靄を靄として見ることが出来なかった。
クルムの目には、尖った角、鋭い牙、長く生えた尾、歪な目――はっきりと悪魔がそこにいるのが見えていたのだ。
悪魔は怒り狂った表情を見せており、今すぐにでもクルムに襲い掛かりそうな――、そう考えている内に、悪魔は奇声を上げながら、クルムに向かって突撃して来た。カペルを抱えている今なら、楽にクルムを討てると踏んだのだろう。
しかし、その怒りに狂った悪魔の判断は、軽率だった。
クルムはカペルを支えたまま、黄色い銃を持つ右手を悪魔に向けた。
悪魔は命の危険を察知し、急旋回をして、この場は逃げる方向に転換した。悪魔は背を向けながら、離れようとする。
クルムは逃げる悪魔を見て、小さく息を吐くと、
「これで終わりです」
そう言って、悪魔に向けて引き金を引いた。
銃から放たれた弾丸は、逃げようと背後を見せた悪魔の心臓を貫いた。悪魔は苦しそうに呻き声を上げると、その場から消滅した。
完全に悪魔が消滅したことを確認すると、クルムは右手の銃をホルスターにしまった。クルムの表情は達成感に溢れているのか、安堵に満ちた表情だった。
黒い靄が空中で霧散すると、終わりを告げるかのように、東の空から太陽が昇って来た。
オレンジ色の陽光を全身で浴びるようになると、緩やかではあるが、人々の中から声が芽生え始めた。そして、その声はどんどんと人々の中で広まっていき、終にはこの場を揺るがすほどの大喝采と化した。
もう事が終結したことを、誰もが理解していたのだ。
無事に解決した喜び。生きた体をもって、長い長い夜を超えた喜び。
その喜びが、人々の全身から湧き溢れてくる。
誰もこの声を止められるものはいなかった。
カペルは人々の歓喜の声によって、目を覚ました。まだ意識が完全に覚醒していないのか、ボーっとしている。
それも仕方のないことだろう。
七年もの間、自我を深く暗い世界の中に閉じ込め、悪魔に体を使われていたのだから、疲弊するのも当然だ。
クルムが言葉を掛けようとした瞬間だった。
カペルはクルムに向けて短く口を動かすと、クルムの懐から離れ、人々の中へとふらふらと覚束ない足で歩き出した。
クルムはカペルのことを止めることはなく、むしろ笑顔で送り出した。礼の言葉を言われることを目的としてやっているわけではないが、自分の行なったことを分かってもらえて嬉しくない人はいないだろう。
すると、クルムの体に小さな衝撃が走った。
見ると、少年がクルムに抱きついていたのだった。リッカも少年の後を追うように、クルムの元へ近づいて来ている。
クルムは少年の頭に左手を置くと、
「ありがとうございます。君が彼らのことを連れて来てくれたんですよね。おかげで全部解決することが出来ました」
「べ、別に、ただ黙って見てられなかっただけだ。それより、怪我とかは――」
少年は抱きついた視線の先にあるクルムの腹部を見た。剣に貫かれたような傷跡がある。それだけではない。クルムの至る所に、傷跡が目立っていた。
少年はその姿を見て言葉を呑んだ。思わず、クルムの服を掴む手が強くなる。この傷に、自分が間接的にでも関与していると思ったら、申し訳なさが立ったのだ。
クルムは少年が黙ったことを見ると、更に少年の頭を力強く撫で回した。
少年は驚きの声を小さく漏らした。
「これで、君を苦しめる人はいなくなりました。君はもう――、」
途中、クルムは言葉を区切った。撫で回されていた手も、動きが止まる。最後に一番伝えたいことを強調するようかのようだ。
少年は顔を上げて、クルムの顔を見つめる。
そこには怪我とかなんて一切感じさせないほど、心の底から少年を案じているのだと目に見えて分かるような、愛しい笑顔を向けているクルムがいた。
そして、クルムは少年と目が合うと、ふっと微笑み、
「自由です」
はっきりと告げた。まるでこの一言を目の前にいる一人に伝えるために、今までどんな労苦も惜しまなかったように。
そのことが心から伝わるから、少年は自然と頬を濡らしていた。
「俺……おれ……」
嗚咽交じりに少年は語ろうとする。でも、何を言えばいいのか分からなかった。
自分がどれだけ今まで耐えてきたことなのか、自分が頑張ったことなのか、はたまた感謝の言葉なのか――。
伝えられる手段はあるはずなのに、上手く言葉が出て来ない。
出てくるのは、絶えず押し寄せる洪水のように流れる涙だけだ。
「……変、だな。つら、くなんて……ないはず、のに……」
少年は今の自分を見られたくなくて、クルムに顔を押し付ける。
クルムは何も言わずに、少年の心を宥めるように頭を撫でた。
そういえば初めてだ、――と少年は頭の中で思った。
記憶を失ってカペルに従うようになってから、こうして受け入れられることも、認めてもらうことも、分かってもらうこともなかった。
自分の心を打ち明けることなんて出来なかった。
嬉しくて、涙を流すなんてことは一度もなかった。
生きるために自分の考えを殺し続けた少年を、縛るものはもうなくなった。考えることも話すことも、まさに自由に出来るようになった。
生き返った少年が最初に言う言葉は――、
「ありがとう」
感謝の言葉だった。
救われたから。受け入れられたから。応えられたから。
一度言葉を告げると、少年はその言葉しか知らないかのように何度も何度も同じ言葉を言った。
「どういたしまして」
クルムは少年の言葉に応える。そのことが嬉しくて、少年の目から更に涙が流れた。
少年の涙によって、クルムの服は更に濡れていく。
しかし、海の中に水が流れ込んでも何も変わらないように、クルムは一切気にする様子を見せることはなかった。
「ぐすっ。良かったねぇ」
クルムと少年のやり取りを静かに見守っていたリッカだったが、ついに我慢しきれなくなったのか、鼻を啜りながら目を擦っていた。
クルムはリッカに目を向けると、
「リッカさんもありがとうございました。リッカさんが先手の行動を取っていなければ、このオリエンスを守ることが出来ませんでした」
笑顔を向けながら言った。
「――」
リッカは何も言わなかった。ただ呆然とクルムに顔を向けているだけだ。
この時、リッカの中で様々な想いが葛藤していた。
オリエンスを救ってくれた英雄として接するべきか、それとも政府の情報通りに罪人として接するべきか――。リッカは、クルムに対する対応を決めあぐねていたのだ。
今までのクルムの行動を見てきて、頭ではクルムが罪人と呼ばれる人とは違うのだと分かっていた。
しかし、リッカの立場が、そのことを素直に受け入れさせてはくれなかった。
表情に迷いが滲み出るリッカの想いを察したのか、クルムは少年の頭から手を離した。少年はクルムの意図を読み取り、クルムの体から離れた。
正直な話、まだ鼻を啜り、目を手の甲で擦っている少年はまだクルムから離れるのは名残惜しかった。しかし、クルムの方が名残惜しそうに手を離すから、少年は何も言うことはしなかった。
「約束、ですもんね。この問題を解決したら、全てを話すし――、どんな罰則も受けるって」
クルムは微笑みながら、リッカに言った。その表情は諦めでも自嘲でもなく、全てを受け入れる覚悟を持った者が織り成せる顔だった。
「……っ」
だから、リッカは言葉に詰まってしまった。それと同時に、リッカはクルムに気を遣わしてしまったのだと悟った。
今のクルムの言葉は、本来クルム自らが言うものではなく、世界政府の立場にあるリッカが言わなければいけないことだった。
何も言えないリッカに、クルムは自分が不利になるのだとしても、選択を与えることで、リッカが世界政府としての行動を取れるようにと後押ししてくれたのだ。
そのことが分かるから、リッカは一度歯噛みをし、世界政府として取るべき行動を取ろうとした。
「……私はまだ新米だから、この件に関与出来ない。だから、これからオリエンス支部に戻って、クレイ支部長から判断を下してもらうけど……、それでいい?」
しかし、リッカが実際に取った行動は、世界政府の立場の者が取る行動ではなかった。リッカの言葉には、私情が交えられていた。
クルムはリッカの言葉に一瞬驚くような表情を見せる。
リッカはクルムの表情を見ると、クルムの返事を待たずにオリエンス支部に向かって歩き始めた。その時、歩き出したリッカはクルムの顔を見つめることはなかった。
自分が直接手を下さないようにするための逃げ道だとバレたくなかったのだ。
今クルムの鋭い眼差しを向けられてしまったら、きっと全てを見抜かれてしまうだろう。
「……分かりました」
クルムは一言だけ短く同意を示すと、リッカの後を追おうと一歩を踏み出した。背後でクルムが歩き出したことを感じると、リッカはホッとして足を速めた。
すると――、
「クルムッ!」
後ろから何かが地面にぶつかる音と少年の叫び声が、リッカの耳に届く。何事かとリッカは後ろを振り向いた。
その先にある信じられない現実に、リッカは大きく目を見開いた。
――そこには、限界を超えて戦っていた英雄の、倒れ込む姿があった。