1-30 相違点
クルムは既に体勢を整えており、カペルのことを見下ろすような形になっていた。まるで、クルムとカペルの間にある差を見せつけるかのようだった。
「あなたの行動にはシエル・クヴントを表そうとする心が存在していない」
「……なに?」
クルムは憐れむような瞳で、全てを見切ったような口調で、そう告げた。
それが、カペルの奥底に突き刺さる。カペルは全てを否定するような目つきで、クルムのことを睨みつけた。その凄みは、目力だけで人のことを殺せるほどであった。
しかし、クルムには全く通じることはなく、一切動じる様子を見せなかった。
「あなたは自分を認めさせるためにシエルの名前を利用した。そして、あなたをシエルだと信じる人々の想いを、自分の心を守るために――」
その時、クルムは言葉を躊躇った。この続きの言葉一つで、状況が別のものへと変わってしまうことを予期しているようだった。
クルムは一度目を瞑り、また開くと覚悟を決めた表情を浮かべ、
「――裏切った」
はっきり言い切った。
その時、カペルを取り囲む空気が、一気に変わった。遠くにいるリッカと少年でさえも、自分の周りに取り巻く冷徹な波長を感じ取れた。カペルの波長だけで、まるで人々の心を凍てつかせることが出来るほど冷たい。
カペルは全く動いていないのに、それほどの威圧感を放っている。
「――」
クルムはカペルの姿を見て、納得したような声を漏らす。
「あなたの中には……悪魔がいる」
「あああああぁぁああああ!」
クルムが結論を言ったのと同時だった。
カペルは空が割れんばかりに、叫び声を上げた。カペルの一番近くにいるクルムは眉間にしわを寄せることさえしなかったが、クルムより遠い場所にいるリッカと少年の耳には酷く耳障りとなる声だった。
リッカと少年は同じタイミングで、自分の手で耳を塞ぐ。数秒でもまともに聞くのならば、精神が壊れてしまいそうだ。
クルムがカペルに一歩近づこうとした時だった。嫌な静けさが空間を支配した。大荒れが起こる寸前の海を彷彿とさせる。
そして数秒も経たない内に静寂は壊され、轟音を奏でながら、カペルの周り全方位を囲い込むように黒い衝撃波が走った。
――魔技……っ!
クルムが魔技――読んで字の如く、悪魔が放つ特有の技――と呼ぶ衝撃波は勢いよく襲い掛かる。クルムは魔技よりも高く跳躍することで、魔技に触れずに済んだ。
しかし、クルムが避けた代わりに、魔技は建物にぶつかった。すると、建物はまるで木の棒が折れたかのように、音を立てながら脆く崩れ落ちた。そして、建物に接触した魔技は少しだけ前へ進むと、音もなく消えた。
そのような計り知れない威力を持った魔技が、連続して、まるで波のように押し寄せていた。この魔技に触れたならば、どんな人間も一溜りもないだろう。
クルムは跳躍する最中、その一部始終を瞼にしっかりと焼き付けた。
魔技の威力を確かめたクルムは、空中で銃を撃つ。その勢いで、魔技が届かない距離に足を着けることに成功した。
クルムは離れた距離からカペルの様子を見つめる。
カペルを中心にして全方位に黒い魔技が発生しているが、クルムの予想通り魔技は一定以上の距離を進むと自然と消滅していた。また、カペル自身が動く様子は今のところなかった。
つまり、クルムがいる場所が安全地帯ということになる。
「……」
クルムは次に成すべき行動を考えていた。このまま動き続けないでいたとしても、状況は何も変わらない。
むしろ、当然ではあるが、状況は悪くなるばかりだ。オリエンスの状況も然り、カペル・リューグの状況も――。
「クルム!」
その時、クルムの名前を呼ぶ声が響いた。クルムは声のする方に顔を向ける。
そこには、今まで戦場から身を潜め、クルムの前に姿を見せなかったリッカがいた。ひとまず膠着状態になったのを確認して、クルムの元へとやってきていたのだった。リッカの後ろには恐る恐る近づいて来る少年もいる。
「心配しなくて大丈夫ですよ。ひとまず彼の目的は君ではなくなりました」
クルムは少年を安心させるように微笑みかけた。
そのクルムの笑顔によって、少年の近づく足取りは少しだけ軽やかになった。
「……すみません、リッカさん。聞きたいことはたくさんあると思います」
リッカが目の前に立つと、クルムは申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。リッカはクルムと先ほど別れた時――いや、クルムと今まで共に過ごした時間の中で見せたことのない、いつもと違った雰囲気を出していた。
その理由は、何となくクルムには分かっていた。
「うん、たくさんある。……本当に、たくさん」
リッカは噛み締めるように、一つ一つ力を込めて言葉に出した。
クルムのことを少し考えるだけでも、たくさんのことが疑問として湧き上がる。
罪人として名が挙がっていること。シエルの名を語っていたこと。銃を握っていること。
「でも、今は一つだけ聞かせて欲しい」
それら全部を踏まえた上で、リッカが一番先に聞きたいことは――。
「――黙っていたのは何で? 騙そうとしてたの?」
「それだけは違います」
質問を躊躇ったリッカに対し、クルムは躊躇することなくハッキリと答えた。
クルムとリッカは互いに真っ直ぐに目を合わせている。二人とも視線を逸らす素振りを一切見せない。どちらにも曲げられない思いが存在するのだ。
少年はリッカの陰に隠れながら、二人の様子を心配そうに、口を出さずに見守っていた。
このまま長い時間が過ぎ去ってしまいそうだった。
クルムは収拾がつかなくなることを予測したのか、深く息を吐いた。場の張り詰めた空気がほんの僅かに緩和していく。
「カペルを止めるまで暫しの間、待って頂いてもよろしいですか? その後なら、どんなことも話しますし――、どんな罰則も受けます」
「初めからそうするつもりだよ」
リッカの返事は早かった。
最初から、オリエンスの問題が解決していない状態で、クルムのことをどうこうするつもりはリッカになかった。
今ここでクルムを捕まえたとしても、オリエンスの状況は良くなるどころか悪化していくだろうし、何よりクルムに仕事を任せた依頼主の悲しむ顔はもう見たくなかった。
だから、この問題が解決するまでは罪人クルム・アーレントとしてではなく、旅人クルム・アーレントとして接しようとリッカは心に決めていた。
「最後に、もう一つだけ聞かせて」
黙ったまま、クルムはリッカから視線を外すことはなかった。
「――悪魔って、なに?」
クルムの行動を肯定として受け取ったリッカは、ゆっくりと言葉を噛み締めるように問いかけた。
「架空の生き物、そして、人々の間では恐怖の対象としてよく使われる存在……だよね」
リッカは自分の認識を口にして出す。口に出すと、余計に真実味が薄れていくような気がした。
――つまり、リッカは悪魔のことを信じていないのだ。
悪魔とは目に見える存在ではないし、いると断定できる存在ではないはずだ。
それをハッキリとカペルに告げたクルムは……そして、悪魔という単語を聞いてから異様な技を発するようになったカペルは……一体何なのか――、それがリッカには気がかりだった。
このダオレイスで、確かにエスタ・ノトリアスという人物が悪魔について語っていたこともあった。それをリッカは耳にしたことがある。
そして、エスタが悪魔に対抗する組織を作り、その組織が現在世界を揺るがすほどの力を持ち始めていることも、リッカは知っている。
だが、それでもリッカには悪魔という存在は信じられなかった。
――エスタの組織が、悪魔という言葉にかこつけて、人々を傷つけているようにしか見えなかったから。
「悪魔は目に見えない形ではありますが、実際に存在しています。――そして、憑いた人を通して、その悪魔の性質をこの世界に現す」
リッカが疑問に持つ理由も分かった上で、クルムは悪魔と呼ばれる存在について説明を始めた。その口調は、どこか優しく諭すようであった。
「なっ!」
クルムが話す悪魔の実体は、リッカの知るそれとは全く異なっていた。
リッカが知っている悪魔という単語は妄想や架空の類として使われているのに対し、クルムが知っている悪魔は現実や実際に起こるものとして生きているというのだ。
まさしく天と地ほどの認識の差が、クルムとリッカには存在している。
「信じられないのも無理はありません。けど、彼を見ていただければ――」
リッカはクルムの言葉通りにカペルの方向に目を向けようとした。クルムの言葉の真偽を確かめるためだ。
しかし、リッカが視線を移すのより早く――、
「違う。あれは、カペルじゃない」
「――え?」
今まで黙っていた少年は呟いた。リッカは少年の声に気を取られ、カペルを見るよりも早く少年の方に意識を向けた。
ある一点に紅い双眸を定めながら、少年は異様なほどにただただ震えていた。
リッカは少年の容態にただ事ではない何かを感じ、少年の目の向きを追うように視線をずらした。
「っ!」
そこには、思わず息を呑んでしまうほど様変わりをしたカペルがいた。
裂けんとばかりに口が開かれ、そこから鋭く尖った歯が剥き出しになっていた。加えて、カペルの周りには主人を守らんとばかりに、黒い靄が渦巻いている。
その姿は、まさしく悪魔と形容するのに相応しい。
恐らくずっと前から、少年の視線は風貌の変わっていくカペルに注がれ続けていたのだろう。
リッカはまともに凝視することが出来ず、思わず目を背けた。
――元は同じ普通の人間のはずなのに、こんなにも見るだけでおぞましい姿に人は変わってしまうのか。
「……っ。予想以上にまずい状況になっていますが、これから彼を救いに――」
「――俺に」
突如、今まで動きを見せなかったカペルが口を動かす。すると、カペルの周りに渦巻いていた靄が、カペルの剣に集約され始めた。
「リッカさん! この子を連れて逃げ――っ!」
「ひれ伏せ!」
カペルが剣を振るうと、波動に近い黒い斬撃がクルム達に向かって飛んできた。その大きさは計り知れず、爆弾の威力など可愛く思えるほどだった。
クルム達に逃げる隙など与えないほど、速さもある。
そして、斬撃はクルム達を飲み込み、更に先へと放たれていった。
カペルによって放たれた斬撃は、ざっと五十メートル近い距離を進んでいった。その結果、周りの建物はただの廃屋と化す。
この斬撃に巻き込まれたならひと溜まりもない――、それほどの威力だった。




