1-20 本物に至るための道程
響く音――、それは殴られた音だと分かる。
しかし、いつまで経ってもハワードは痛みを感じることはなかった。
現在の状況をこの目で確かめるために、ハワードはゆっくりと目を開けた。ある意味、こうなるだろうとハワードは推測していた。
視界に光が差し込むと、ジジの前にハワードではない別の者が立っており、その人がジジの拳を手で受け止めているのがハワードの目に映っていた。先ほどの音は、ジジの拳を目の前にいる人が受け止めた時に奏でられたものだった。
「……なっ!?」
ジジは拳を止められたことに驚きの声を上げていた。突然目の前に現れて、自分の行動の邪魔をされたら無理もないはずだ。
「……っ! お前、何なんだ!?」
ジジは伸ばした拳を自分の元へ戻すと、行き場のなくなった怒りを当てるように、目の前にいる人間に問いかけた。
「僕は何でも屋をしているクルム・アーレントです」
目の前の人間――クルムは、堂々と答えた。
ハワードは目の前にいるクルムを見て、想像通りの事態を迎えたことに、誰にも気づかれることなく口角を少し上げた。
「何でも屋……!? ……はっ」
ジジはクルムから発せられた場違いな単語を反芻すると、吐き捨てるように笑った。
「その何でも屋が一体なんの関係がある! 俺達は騙されていた……だから、そいつの言う通りに罰を下す! 関わりのない奴が邪魔をするな!」
そして、ジジは腕を大きく使いながら、クルムにそこを退けるように説得をする。
しかし、クルムは静かに首を横に振った。興奮するジジに、憐れむような視線を向けていた。
クルムはゆっくりと腕を上げ、そのままジジの奥の方へと指を差した。
「後ろを向いてください」
「あぁ?」
ジジは言われた通り、後ろを振り向いた。そして、その光景を見て、ジジは固まってしまった。
そこには、緊張する面持ちでジジの一部始終を見つめている人々がいたのだ。中には、ジジに続こうと拳を握っている者もいる。
「もし、あなたがハワードさんを殴れば、この場は収拾がつかなくなってしまうでしょう」
「……じゃあ、なんだ! シエル・クヴントを――こいつらのことを黙って見過ごせというのか!? 俺たちは騙されていたんだぞ!」
一瞬ジジは唇を震わせ、戸惑いを見せたが、その感情をかき消すように再び声を荒げた。あまりに興奮のため、肩で息をするほどだ。
反して、クルムは落ち着いているように目を閉じ始める。
この場にいる全員は、息を呑んで次の展開を見守っていた。クルムの返答次第では、火に油を注ぐ形になるだろう。
そして、全てを照らす太陽のように輝く黄色い双眸を堂々と世界に見せつけると――、
「騙されないためには、何でも鵜呑みにするのではなく、知恵を身に付けなければいけません。本物と偽物を見極める知恵を」
クルムは眼前にいる人すべてに向けて、伝えた。
時が止まる。
そう錯覚するほどに、この場は静まり返った。呼吸一つするのでさえも躊躇われるほどの静寂、だ。
誰一人として声を上げようとする者はいなかった。
彼らの立場でクルムの言葉を理解するのは、なかなか難しい。
「……なんっだよ、それ」
静寂を打ち破ったのは、ジジの震える声だった。
「お前はこいつらの、騙した奴らの味方をするのか!」
クルムの言葉を理解したジジは怒りに震えながら、大きな声を上げた。
この言葉、つまりは騙された方が悪いと言っている訳であって――。
ならば、ジジが怒るのも当然のことだ。
だが、クルムは首を横に振り、
「いいえ。彼らのしたことは許されることではありません」
とはっきり告げた。
その声色には、嘘や誇張の表現は一切交えていなかった。
「僕は、これ以上カペルによる犠牲者が出ることを望んでいません。だからこそ、僕はカペルの野望を止めるためにここに来たし――」
クルムを見る人々の視線が徐々に変わっていく。
「――だからこそ、あなた達も今後このようなことが二度と起こらないようにするためにも、学ぶべきことをちゃんと学ばければいけません。そして、考えて、学んだことと照らし合わせて、考えて、はっきりと分かるまで考えて……偽物ではなく、本物なんだと確信するべきです。そうしたなら、あなた達自身も――、後世の人達も騙されることはなくなるでしょう」
「……」
ジジの瞳から、あんなにも熱く籠っていた怒りが消え始めていた。ジジは下を向くと、口を閉じながら唇を噛み締めた。反論する言葉が出て来ない。
オリエンスの町の人々は、町の状況が瞬間的に良くなることだけを願って、カペルが扮するシエルに縋った。
結果、確かにカペルに従った時だけを見れば良くなったかもしれない。オリエンスを攻める侵略者も少なくなったし、争うことも減って来た。
しかし、現在はどうだろうか。ジジ達――オリエンスの男性は全員、半軟禁状態になり、願っていた平和を享受する時間も余裕もありはしない。
本当にシエル・クヴントのことを分かっていたなら、こんなことにはならなかっただろう。
目先のことだけを追い求め、確認もせずカペルについて行った結果が、結局は災いを生んでしまったのだ。
「あなたたちが本当に願っていたことは何ですか? 何のための平和か……、自分の胸に手を当てて、よく考えてみてください」
クルムは優しく問いかけた。
ジジは言われた通り、ゆっくりとではあるが、自身の右手を胸へと運んだ。また、ジジだけではなく後ろにいる人みなが、クルムの言葉に従って胸に手を当て始めた。
クルムの言葉を否定することは簡単だった。しかし、その言葉に倣いたいと思わせる不思議な効力が、クルムの言葉には詰まっていた。
目を閉じ、ゆっくりと考えると、心に一つの景色が浮かぶ。
ここにいる人が浮かんだ思いは、恐らく一緒だろう。
浮かんだ景色が二度と消えないように目を瞑りながら、ジジは口を開く。
――何度も開けた扉があり、その先には。
「家に、帰りたい。家族といつまでも平和に生きていたい」
――食卓を囲みながら、愛する家族が屈託もない笑顔を見せていた。
これが、オリエンスに住む人々の本当の願いだった。
ジジがそう告白すると、後ろの方からすすり泣く声が聞こえた。我慢していた思いが、壊れた蛇口のように、溢れ出してしまった。先ほどジジに続こうと拳を握っていた人たちでさえも、大粒の涙を流している。
この場には、自分の心をありのままに曝け出した幼い子供の時のような、大人の威厳とはまるでかけ離れた人たちがいるだけだった。
クルムは一歩前に踏み出す。
「なら、戻りましょう」
クルムは微笑んで、自信に満ち満ちながらそう言った。
その言い方は、実際にそうしてくれると宣言しているようだった。
もちろん、そんな簡単に物事が上手く進むわけがない。誰もが頭では理解していた。
しかし、人々の心は、目の前にいるクルム・アーレントならやってくれるだろうと感じていた。
堂々と怯まずに、また優しく語るクルムの姿に、人々は救われたような気がした。――今度こそは信じても大丈夫だ、と。
「い、言われなくても、そのつもり……だ……」
ジジは鼻をすすりながら、クルムの言葉に返す。ジジの言葉を聞き、ここにいる人達は全員、その素直ではない言い方に笑いを漏らした。
先ほどまで怒り狂った姿を見せていたから、急に素直に礼を言うのも恥ずかしいとジジは感じていたのだ。そのことを、長い付き合いであるオリエンスの人々は分かっていた。
「――では、そろそろ行きましょうか」
笑いが途切れる頃を見計らって、クルムは人々に言葉を掛けた。人々は嬉しそうな表情を浮かべながら、頷いている。
カペルがこの場所にいない状況で、カペルに囚われたオリエンスの男性を助け出したとなれば、もうこの交流所に長く留まる必要はない。
カペルが洗礼を行なう前に、居住区に戻って、その行動を止めなければならない。
そして、平和になったオリエンスで、オリエンスの民の長年の夢を叶えてあげなければならない。
「……ああ。だが、その前にちょっと待てくれ」
ジジは、クルムにバトンが変わってから黙り込んでいたハワードを見つめた。ハワードはその視線に気づくと、すぐにジジの意図を察した。
「ここを出る前に、ハワード――。俺たちは、あんたとちゃんと話をして、すっきりしてから帰りたい」
「分かった。それは当然のことだろう」
ハワードはジジの言葉を受けて、足を前に出した。
クルムはハワードを止めようとするが、すぐにハワードにより制止が入った。
「心配はいらない。これは、私が当然しなければいけないことだ」
はっきりと言うハワードの表情には、迷いや不安は一切混ざっていなかった。クルムはその顔を見て、前に出しかけた体を元の位置に戻す。
「それと……申し訳ないが、少しの間だけこの部屋から離れてもらってもいいだろうか。これは私が一人で解決しなければいけない問題だ」
「……分かりました」
クルムは素直に体の向きを反転させて、扉に向かい始めた。
無粋な真似をするつもりはないが、仮にクルムが何を言ったとしても、ハワードの意志は固かっただろう。
だから、これが正しいのだ。
扉に向かうと、後ろから小さな声で「ありがとう」という声が聞こえたが、クルムは振り向かずにそのまま扉の前へと辿り着いた。
クルムは扉に手を掛けた。背後から人の声が聞こえる。クルムは扉を開けた。振り向かないまま、この部屋から飛び出した。
「言葉なんかじゃ意味がないとは分かっているが、それでも……」
部屋から出た時、それがクルムの耳に入った最後の声だった。その先の言葉は聞こえなかった。聞かなくても分かっていた。
クルムは微笑むと、扉から数歩離れ、近くの壁にもたれかかった。
――運がよかった。
上を向くと、クルムから自然にホッと息が漏れる。そして、クルムはゆっくりと目を瞑り、交流所に潜入した時からここに至るまでのことを思い返し始めた。
もし交流所に入った時、多勢に無勢だったら、クルムも他に対策を練らなければならなかった。多少の傷を与えることも覚悟しないといけなかったかもしれない。
しかし、実際はハワードただ一人しかいなかった。それは、ハワードの証言からも裏を取ることが出来た。更に運が良かったのは、クルムがカペルの手下の中で一番力の強いトバスを倒した後だったということだ。
トバスの剣の柄――つまり、トバスに勝ったという証拠を見たならば、冷静沈着なハワードは戦闘に臨まないということは分かっていた。
しかし、戦闘をせずに終了、ということだけではまだまだ足りなかった。
仮に戦闘をしないということだけを目的にして、あの場を終わらせていたならば、このような現状にはならなかっただろう。
それ以上のこと――ハワードをカペルから完全に離れさせるということが必要だった。そうでなければ、その場しのぎと変わらない。
もしハワードがカペルを慕っていないことを認めないまま、あの場を収束させたなら、クルムが去った後すぐに、カペルへの忠誠心を保つためにハワードは別行動をしていただろう。そして、恐らくその動きはオリエンスの状況を更に悪化させたはずだ。
だが、クルムはハワードに自らカペルの悪態を認めさせることによって、本人の意志でカペルから離れさせることが出来た。
武力が一番であるトバス、知力が一番であるハワードをカペルから引き剥がしたとなれば、カペルに従う人々も、まるで亀裂の入った城壁が崩れていくしかないようにカペルから離れていくだろう。
そして、実際にカペルの呪縛に捕らえられていたオリエンスの人々を開放することが出来た。
オリエンスの状況を、そして、カペルの野望を打破するためには、トバスとハワードは必要な切り口だったのだ。
だから、トバスに一番初めに接触できたこと、そして、全てのことに精通しているハワードを傷一つ負わせることなく事が済んだことが、運が良かったとしか言いようがないのだ。
しかし、せっかく掴んだ運も、結局はカペルを止め、オリエンスに平和が戻らなければ、結局は意味がないものへと化す。
その意味を失わないために――、クルムは出口へと向かう廊下を見つめた。
――だがそこに、靴が床に当たる音が廊下いっぱいに響き渡った。