1-16 交わした約束
しばらくの間、商業区一帯を沈黙が支配する。
「……殺せ。俺はお前に絶対に勝てない……」
沈黙を打ち破ったその言葉は、自ら敗北を認めることのないトバスにとって、あり得ない言葉だった。その一方で、何度も人の命を奪ってきたトバスらしい、極端な論理で、相応しい降参の仕方だった。
「いいえ、殺しません」
しかし、絞り出すように出したトバスの要望は、クルムに受け入れられることはなかった。
「――な、ぜ、だッ! 俺はお前にとって殺す価値もない男だというのか! お前は俺に生き恥を晒せというのか!?」
トバスは後ろを振り向いて、クルムに向かって大きく声を張る。すべてを曝け出す思いだ。
その時、剣を振るわなかったのは、ここでクルムを斬ったとしたら一生恥を背負って生きなければならないと直感していたからだ。
至近距離でトバスの大声を聞いたにも関わらず、クルムは顔色一つ変えることはなかった。眉を寄せることもしない。
まるでトバスの言葉を全て受け入れ、その意味を吟味しているようだった。
そして、クルムは小さく首を振ってから、
「ここで殺したら、あなたの語るシエル・クヴントと同じになりますから」
諭すような声色で、クルムはトバスに語り掛けたのだった。
その言葉を聞くと、空気が漏れた風船のように、体の力が抜けていくのをトバスは感じた。
腕力でも敵わなかったが、クルムには人格的にも敵わない。もはや、根本的に敵わないということをトバスは悟ってしまった。
クルムと顔を向き合わせることが出来なくて、トバスは俯く。
この感覚は、トバスにとって初めてだった。
シエルを名乗るカペルにも、敵わない、と思って屈服したが、心の中は煮え切らない思いでいっぱいだった。
だが、クルムに対しては、そのような負の感情は、不思議と一切湧いてこなかった。
「……なら、よ」
トバスは顔を下に向けたまま、その口を開く。
「……俺にも、人を斬るのが好きなシエルじゃなくて、あんたが知っているシエル・クヴントを教えてくれよ」
それは、自分の想像をはるかに超えた存在への、憧れ。
英雄シエル・クヴントから多くの話を聞いた時よりも、クルム・アーレントの一言の言葉に心が震え動いた。
そして、何より知りたくなったのだ。
――自分の限界を更に超えたクルムが知っている「本来のシエル・クヴント」という人物を。
「はい。すべてが終わったら」
トバスはクルムのその言葉を聞くと、下に向けていた顔を上げた。
その先には――、
嘘偽りのない満面の笑みを向けているクルムがいた。
赤色に染まっていたトバスの人生に、新たな色が加わり始める。その色は見たこともなく、この先どうなるか分からないが、今までにない自分に出会える気がする。
それを拒むことはしない。
「――ありがとう」
そう言うトバスの頬には、水が流れたような跡が残っていた。
「あ」
クルムは思い出したように、間の抜けた声を漏らした。トバスは何事かと思い、緊張の糸を張り巡らせる。
「念のため、この剣を壊させてもらいますが、大丈夫ですか?」
「はっ、そんなことか。ああ、問題ない。もう俺には不要のものだ」
トバスは薄く笑うと、剣をその場に刺した。剣を突き刺した時、砂利が音を立てて飛び散った。
トバスの半生は剣と共にあった。
剣に出会って、血の味を覚えてから、まるで憑りつかれたように、人を斬って斬って斬り倒した。
まるで自分の体の一部のように使ってきた剣を捨てるということは、トバスにとって一大事だった。
でも、未練も何もない。
斬る喜びよりも、生かされる喜びを分かってしまった。
――だから、堂々と剣を捨てよう。そして、これからは生かす人になろう。
トバスは清々しい気分で、その場を離れ始めた。
後ろの方から剣が砕け散る音がトバスの耳に入ったが、一切振り向くことはなかった。
「……ふぅ」
剣を拳で壊し、戦意喪失したトバスを去っていくのを見送ると、リッカとララの方へとクルムは歩き出した。
「――……」
リッカは何か言葉を紡ごうとしたが、二の句が継げなかった。
傷一つ負わせずに終わらせたクルムに、驚きを隠せなかったのだ。
しかも、ただ終わらせたのではない。
相手が真っ当な道を歩めるように、正しい方向を示したのだ。そして、実際にトバスは剣を捨て、人を斬ることを止めた。
一番正しい対処法だ。これ以上、文句のつけようがない。
だからこそ、リッカはクルムが怖かった。
世界政府の教えでも、犯人を傷つけることは良しとされていない。しかし、実際にそうするということは、頭では分かっていても、相当な腕がなければ出来ないことだ。だから、多くの世界政府の人間は、傷をつけて犯人を捕らえてしまうことが殆どだ。最悪の場合、死で終わらせてしまう時もあるほどである。
そして、仮に無事捕らえたとしても、犯人が改心することもなく、いつも人々を貶めようと策略を練っていて、世界政府は常にその動向に気を張り巡らせないといけない。
――いったい、傷つけることなく敵を改心させてしまうこの人は何者なんだろう?
こちらに向かってくるクルムを見て、このような疑問がリッカの頭に浮かんでいた。
昨日、共に時間を過ごしたから、クルムのことを分かった気になっていた。しかし、世界政府でも出来ないことを成し遂げたクルム・アーレントの正体が、リッカには分からなかった。
ただ言えることは、普通の何でも屋ではない、ということだ。
圧倒的な力を持ち、殺気立った戦場でも動じず、それでいて敵であった者でさえも助けようとするその姿はまるで――。
リッカの頭の中で、クルムの姿が誰かと繋がりそうになる。
恐怖からか、緊張からか、または不安からか、リッカはクルムのそばに自ら近づくことは出来なかった。
だから、まず初めにクルムに言葉を掛けたのは、目を覚ましたララだった。
「もう……終わったの?」
クルムの周りにトバスがいないことを確認すると、世界政府の白いコートを引きずりながら、ララは走り出した。リッカはララが自分の元から離れるのを止められなかった。そして、クルムの元に駆け寄ると、ララは足にギュッと抱きついた。
クルムは一瞬驚いたが、ララの体が恐怖によって小刻みに震えていることに気付いた。
「もう、大丈夫ですよ。僕がそばにいます」
安心させるようにララの頭を撫でると、クルムは優しく言った。しかし、ララはその言葉を聞くと、クルムの足に額を当てながら、首を横に振った。
「何でも屋さん、お願い」
ララはクルムの足から一歩離れると、上目遣いにクルムに懇願する。クルムはララの言葉を一言も聞き逃さないように、耳を傾けた。
「お父さんに、変な人がいるから早く帰ってきてって伝えて」
「はい、分かりました」
クルムはララの依頼を受け取ると、ララの目線までしゃがんで、力強くそう答えた。ララはクルムの言葉を聞くと安心したのか、その場で再び意識を失ってしまった。
ララが倒れそうになるところを、クルムは地に着かないようにと抱き留める。ララの表情は、一仕事終えて安心したといったように安らかに目を閉じていた。
クルムはララの頭を優しく撫でると、ララを抱きながら、リッカの傍へと近づいた。
近づいて来るクルムに対して、リッカはどう接していいか分からずにいる。
「リッカさん」
クルムはリッカの名前を呼んだ。
名前を呼ばれたリッカは、クルムにゆっくりと視線を向けた。一体、クルムはどういう表情でいるのだろうか。
目と目が合うと――。
クルムは変わらない笑みを浮かべていた。
優しく微笑みかけている。
――ああ、この人は。
リッカはその表情を見て、自ら納得してしまった。その納得したところに、クルムは胸に抱いていたララを、リッカの懐に預けた。リッカはララを優しく抱きしめる。
そして――、
「僕はこれから何でも屋として、カペル・リューグの野望を止めなくてはいけないようです。でも、世界政府の方が動こうとしている中で、そのようなことをしたら公務執行妨害になるのではないでしょうか?」
クルムは指を唇に当てながら、素っ頓狂な声を上げた。
それは、いつも通りのクルムで、前にリッカの言ったことを忠実に守ろうとしている純粋なクルムだった。
「はは」
思わずリッカの口から笑いが漏れる。
――馬鹿だな、私。
リッカは心の中でそう思う。
静かな町に、リッカの笑い声が響く。クルムは意味が分からないような、困った表情を浮かべていた。
クルムはクルムだ。変わらない。
その姿を見て、更に確信する。
リッカはひとしきり笑い終わると、指で涙を拭いながら、
「……残念ね。世界政府は人数が集まらなくて、今日の作戦は延期するって聞いたから――、だから、何も問題はないよ」
そう言い切った。
困惑した表情をしていたクルムだったが、リッカの言葉を聞いて、口角を上げる。
「……悪い政府の方、ですね」
「あなたの目の前にいる人間は、ただのリッカ・ヴェントよ。コートも着てないし、証拠もない。どこか悪いところある?」
開き直ったような言いぶりを見せるリッカに、クルムは笑いを隠し切れなくなり、声を上げて笑った。
リッカもつられて笑う。
もうどこにも、先ほどまでの、迷い、弱ったリッカはいなかった。
「いいえ、リッカさんは素敵な方ですね」
そして、クルムは心の底から湧き出た言葉を、目の前にいるリッカ・ヴェントに惜しみなく届けた。
真っ直ぐなクルムの言葉を受け、リッカは顔を下に向けた。照れたことで、顔が紅くなってしまったのだ。
――ほんとに、ずるいな。
リッカはクルムに顔を向けると、鋭く睨んだ。だが、すぐに柔らかく微笑みかける。
「私はこれからこの子を無事に居住区に届ける。だから、クルムはその間に、この子の依頼を果たしてくること。いい?」
リッカは人差し指を突き出しながら、クルムに指示を出した。いや、指示という固い言葉なんかではない。
これは、クルムを信じているからこそ、言ったのだから――。
「はい! リッカさんの方こそお願いします」
クルムはリッカに向けて親指を立てると、商業区の奥の方へと走り出した。
リッカはクルムの背中を見送っていたが、すぐにクルムと違う方角を向いた。
ずっと見届けなくても大丈夫だ。背を安心して任せられる。
――それよりも、私は私がやるべきことをやる。
だから、リッカはクルムに商業区の運命を託し、ララを抱えながら居住区へと走り始めた。