1-15 隠された実力
クルムはその細い手で、剣を振るうトバスの両手首を掴んでいる。クルムの立ち姿はどっしりと据えられていて、押され負けする気配は全くしなかった。
「何でも屋、だと――? ハワードに尻もちつかされた、あの何でも屋か?」
トバスはクルムの情報を口で反芻すると、小さく笑いを漏らした。トバスの認識では、何でも屋クルム・アーレントは取るに足らない人間のはずだ。
「そんなひ弱な人間に力負けするわけがない! これでどうだッ!」
トバスはそう叫ぶと、剣を握る手に力を込める。全身を押し寄せ、全体重を剣に乗せた。
これでクルムを斬り、その後ろにいるリッカとララも斬って終わりだ、とトバスは思っていた。
しかし、現実は変わらない。いくらトバスが力を込めようとも、クルムは微動だに動く様子はなかった。
トバスの顔はだんだんと苦痛に歪んでいく。自分の思い通りにならないのが、自分より細い人間に力負けしているというのが許せないのだ。
「あの時は――」
クルムはゆっくりと口を開く。
その言葉を聞くと、トバスは背筋に冷たい汗が流れてくるのを感じた。クルムの顔が見えない今、目の前にいる人間はトバスにとって得体の知れないモノにしか見えなかった。
緊張のあまり、トバスはごくりと唾を呑む。
「あの時は急なことで、油断しただけです。重心を据え置けば、このくらいは何ともありません」
何の迷いもなく、はっきりとそう告げた。
「そんな話……」
クルムの言葉によって、トバスの剣を持つ手はわなわなと震え始めた。
「信じられるかぁぁ!」
トバスがそう叫ぶと同時に、更に力を込めた。
さすがのクルムもその力に押されたのか、腰が少し下がった。
トバスはニヤリと笑う。
「はぁぁ、やっぱりなぁ! お前みたいな貧弱に負けるわけが――」
その瞬間、トバスの視界は大きく変わった。小さく疑問の声が漏れる。そして、すぐに後ろから衝撃が走った。
トバスはすぐに正面に顔を向ける。
先ほどまで触れ合うまでに至近距離にいたはずのクルムは、今や、だいぶ遠くに立っていた。
何が起きたのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。
変わりゆく視界で捕らえたのは、クルムが右腕を上へと押し上げている姿だった。
つまり、その姿が意味するのは、トバスがクルムの力に耐えきれず、後ろに仰け反り、そのまま尻もちをついてしまった、ということだ。更にそれだけではなく、先ほどトバスがクルムに押し勝っていると思ったのは勘違いで、実際はわざとクルムは腰を下ろし、トバスを押し上げる準備をしていただけということも分かってしまった。
トバスは信じられないものを見るような目でクルムのことを見つめていた。
そして、トバスと同様に、信じられないような表情を浮かべている人間がもう一人いた。
「――クルム」
リッカはララを抱きながら、エインセルを懐から取り出して明かりを照らすと、クルムの名前を呼んだ。
クルムは名前を呼ばれたことに気付くと、ゆっくりとリッカの方に半身を振り向ける。
この時間初めてこちらに顔を向けるクルムに、リッカの鼓動は少し早まった。ドクンドクンと心臓が高鳴っている。
目と目が合う。
リッカの胸の内は、色々な想いが渦巻いていた。
聞きたいこと、伝えたいことがたくさんあった。
そのはずなのに、上手く言葉には出せなかった。
何も言いだせずにいるリッカに対し、クルムは、
「大丈夫ですか、リッカさん」
変わらない笑顔を、顔を真っ赤にしているリッカに向けた。
リッカは自然と小さく頷いた。
「う、うん。私は……。それより、どうして戻って――」
「っ、すみません。詳しい話は、また後で」
リッカが質問をしようとした瞬間だった。すぐにクルムの制止が入り、リッカは言葉を呑み込む。
クルムは横目で後ろを確認すると、再びリッカに背を向けた。
リッカも視線をクルムの奥へと移す。
そこには、息を荒くし、血迷った表情を見せるトバスが立っていた。
「――なめ、るなよぉ」
トバスの地を這うような低い声を聞き、リッカの体は強張ってしまった。トバスの一挙一動すべてが、人間の領域を超えているようにさえ感じる。
「遊びはここまでだぁ! 俺はシエル様に忠誠を尽くす者! ここで、たった一人に負けてたら、シエル様の顔に泥を塗らせてしまう!」
そして、トバスは咆哮のように声を出しながら、クルムに向かって走り出した。トバスは我を忘れているのか、走りながら闇雲に剣を振るっていた。
しかし、ただ闇雲に剣を振っていたとしても、その力強さは変わらない。いや、むしろ怒りによって強くなっていた。
剣を振る度に、風を斬る音が、遠く離れているクルム達の方にも聞こえてきた。
「クルム、気を付けて。私も――」
リッカはクルムと共闘するため、体を立ち上げようとする。だが、リッカは立ち上がるのを躊躇した。
クルムはリッカを抑止するように左手を突き出していたのだ。
「リッカさんは、その子の傍にいてあげてください。ここは僕が何とかしてみせますから」
再びクルムがリッカの方を振り向くと、クルムは笑顔を見せ、堂々とトバスの方に歩き始めた。
リッカはただ歩くだけのクルムの姿を見て、
――私が出るまでもなく、何とかなる。
と、そう感じた。だから、「頑張って」と誰にも聞こえないくらいに小さく口にした。
「随分余裕だなぁ! 俺に勝てないとそう判断したかぁ!?」
トバスは怒声を上げながら、剣を振っている。
いつの間にかトバスは普通にクルムを斬れる距離に近づいていたし、剣を空に突きつけ振り下ろす構えが出来る距離にまで近づいていた。
それにも関わらず、クルムは何も言葉にすることなく、目立った動きのないまま、ただただ真っ直ぐに歩き続けていた。
抵抗する様子を一切見せないその姿は、一種の自殺志願者のようだ。
「はっ、図星か! 威勢の良かったのは最初だけだったなぁ! なら、お望み通り、シエル様に捧げる血肉となれ!」
トバスは再び剣を垂直になるように突き上げた。
「シエルに、捧げる……?」
「ああ、そうだ! 昔のシエル様は剣で人を斬って斬って斬りまくった!」
トバスの言葉が気になったのか、同じことを繰り返し言葉に出したクルムに対し、トバスは待っていたかのように説明を加えた。
「それは誰から聞いたのですか?」
「再臨されたシエル様が仰っていた!」
――シエル・クヴントは、過去に人を斬ったことから、首を斬られて処刑された。でも、今や私は人々の希望になっている。それは、人を斬ることが正しいからだ。しかし、ただ斬るのでは人殺しと変わらない。私のために斬る時、私に捧げる思いで斬る時に、正しいものとなるのだ。あなたはこれから私の剣として生きなさい。だが、この首輪をつけている者は、私の味方だから斬ってはいけない。この首輪は、二度と首を斬られることがないように、守るためのものだから。
トバスはシエルの名を語ったカペル・リューグの言葉を思い出しながら、子供のような純粋の笑みを浮かべた。しかし、傍からトバスの歪む頬を見れば、それは単なる殺人鬼のものと変わらない。
「俺はその話を聞いて感動したねぇ! 人を斬ることに意味を見いだせた! 俺が人を斬る行為は、すべてシエル様が喜んで受け取ってくださる! まさしく最高の捧げものってわけだ」
隙だらけに見えるトバスの剣の構えには意味があった。
剣を天高く突き上げることで、自分以上に貴いシエルに心も体も全て委ねる姿勢を表現していた。そうすることで、トバスが人を斬った時、シエルに喜ばれ、更にシエルと近くすることが出来る。
そうトバスは信じていた。
トバスは剣の柄を思い切り握り締めた。剣に全ての力を込め終わったのだ。
あとは、目の前にいるクルム達の首を斬って、トバスが信じるシエル・クヴントにその命を捧げるだけだ。
「これこそが、俺が英雄シエル・クヴント様に仕えている証明! 俺の生きる意味! だから、ここで――」
目の前にいるはずのクルムに向かって、トバスが剣を振り下ろそうとした時――
「――全部、間違っています」
クルムの声がトバスの上から降りかかってきた。
トバスは剣を振り下ろすのを止め、声が聞こえた頭上の方に目を配る。
そこには、剣よりも更に高く跳びあがっていたクルムの姿があった。瞬間、クルムと目と目が合う。まるで、鷲が獲物を狙うかのように、目的を定めた鋭い目つきだった。
しかし、実際に目の前の現象を見ても、トバスは現実を受け入れることは出来なかった。
トバスと剣を合わせた全長は、クルムの身長の軽く倍以上はあった。クルムはその高さを悠々と飛び越えたのだ。
今までトバスの剣に対抗しようとする者はいることにはいたが、いずれも斬り倒してきた。その行動は、トバスにとっての自負心として蓄積されていった。
しかし、トバスの頭上を超えようとする人間は初めてだった。しかも、悠々と飛び越えられるようになるとは想像さえもしていなかった。
自分が井の中の蛙となっていたことに気付くと、トバスのちっぽけな自負心にひびが入る。
トバスの後ろで、音もなくクルムが華麗に着陸するのが分かった。トバスは恐ろしくて、後ろを振り向くことが出来なかった。
ここは戦場。もしトバスがクルムの立場だったら、迷いなく殺すだろう。そうされても文句は言えないのだ。
トバスは上に突き上げていた剣を、自然と首を垂れるように地面に着けた。
「あなたが言葉にしたことは全部嘘です。あなたはシエル・クヴントを理由にして、人を斬りたかっただけです。シエルは人を斬りつけるのが好きな罪人ではありません」
クルムの言葉を聞きながら、トバスは黙っている。指一本も動かすことはない。
「それに、そもそも何も知らないあなたにシエルを語る資格はありません」
図星だった。
シエル・クヴントについて、トバスは何も知らないのだ。どこかの王様を剣で貫いた、とうことだけしか、人を斬ることが好きなトバスは分かっていなかった。
しかし、そのことを言い当てられたことよりも、何をしても勝てないと自ら認めてしまったことによって、トバスは言葉を紡ぐことが出来ずにいた。