5-27 遠ざかる背中
「――夢、ですか?」
「はい。この世界が、悪魔の手に陥る様を見てみたい――それが私の夢です」
やはりノスチェスが考えていることは、身勝手で傲慢な、自分至高によるものだった。思い描く理想に浸っているのか、ノスチェスは整った顔を、狂気の笑みで歪まさせていた。
クルムは怒りに燃える拳を握り締めながら、静かにノスチェスを見つめる。
「そのような事態になったら、どうなるか分かっているでしょう?」
「ええ、楽しそうですよね。悪魔の手に掛かった人間は、壊れて堕ちていき、生きる希望もなく、ただ欲のまま悪事を行ない、自分も周りも誰も得をしない世界――考えるだけでゾクゾクします。そして、ヴァンには私の夢に賛同して頂けたので、互いに手を貸し合っているのです」
「……人の心を考えたことはないの?」
ノスチェスの非道な思考に、リッカは辟易しながらも、なんとか声を出す。
興が削がれたようにノスチェスはあからさまに嘆息を吐くと、冷徹な眼差しをリッカに当てた。
「おや、失敬なことを仰いますね。私はいつも考えておりますよ。どのようにしたら壊れるのだろう、ってね」
人の面を被った悪魔とは、まさにノスチェス・ラーバスのことを指すのだろう。
リッカは鞭を握る手を、更に強くすることしか出来なかった。仮にここで突っ込んでも軽くあしらわれるだけだと、ノスチェスとの実力差を、リッカは感じていた。
クルムも約束を律儀に守っていて、地面に落ちている銃に手を伸ばそうとはしなかった。
ただ静かに、ノスチェスの独壇場を見守るだけだ。
「ヴァンが憎いですか? 止めたいですか? でしたら、特別にヴァンの内部事情を教えて差し上げましょうか?」
まるでクルム達の顔色を読んでいるかのように、ノスチェスは的確な言葉を投げかける。
何か裏があることは明らかだった。しかし、実際問題、ヴァンという名前自体を初めて聞いたのだ。ヴァンに関する情報は、喉から手が出るほど欲しい。
「なーんて冗談です」
しかし、ノスチェスの口から紡がれたのは、突き放すような人を小馬鹿にした言葉だった。
「そんな簡単に機密事項を口にするわけには行きません。話せる範囲は、ここで打ち止めです」
そう言われても、ここにいる誰もが納得出来るはずはなかった。ノスチェスには聞かなければならないことは山ほどある。
けれど、自身が言葉にしたように、ノスチェスにはもう話すつもりはないようだった。
ノスチェスの口から更なる情報を引き出すためには、多少の犠牲を覚悟してでも、実力行使で行くしかないのだろうか。
リッカはそう判断し、一歩踏み出し、
「まだ聞きたいことは――」
「はい、十分です」
しかし、リッカの行動を止めたのはクルムだった。
クルムの顔には何の躊躇もない。「本気で逃がすの?」と問いかけても、小さく頷くだけだった。
ここで逃がせば、ノスチェスについても、悪魔人で構成されているヴァンについても、はっきりとした情報を掴めないままになってしまうというのに、クルムが何を企んでいるのか、リッカには分からなかった。
「ふふっ、私はこれにて失礼させて頂きますよ」
ノスチェスはそう言うと、クルム達に背を向け、森の中へと入ろうとした。自分勝手に話したいことだけを話して、必要な情報はお預けにしたことに余裕を感じているのだろう、ノスチェスの背中は無防備そのものだった。
実際、これからクルム達は、ヴァンの情報を集め、ダオレイスを右往左往しなければいけなくなる。
みすみす逃さなければならないという事実に、リッカは悔しさのあまり歯噛みした。
「――ふっ」
その瞬間、クルムは足元に落としていた双方の銃を拾い、ノスチェスのがら空きな背中に向けて弾丸を放った。
二つの弾丸は目にも止まらぬ速さで、ノスチェスに迫る。優雅に歩くノスチェスは、背後に弾丸が襲い掛かっていることに気付いていない。クルムの弾丸の速さを考えると、気付いたとしても避けることは難しいだろう。
誰もがノスチェスに攻撃を与えられると確信した、その時――。
「やれやれ、油断も隙もないお方ですね」
クルムの弾丸が虚しく空を切ったと同時、ノスチェスの声が空から降り注がれた。
上空を見上げれば、黒い翼を背中に生やしたノスチェスがいた。
「空を飛ぶ術もない貴方には、流石に私を止めることは出来ないでしょう。これで、今度こそお別れですね」
ノスチェスはそう言ったものの、空中に留まったまま、移動を始める素振りは見せなかった。
クルムは銃口をノスチェスに向けていたが、引き金を引く素振りはなかった。このまま弾丸を放っても、ノスチェスに避けられることは明らかだったからだ。
空中にいるノスチェスは、自然とクルム達を見下ろす形になっている。その瞳は、まるで虫けらを見つめるような、そんな冷酷な瞳だった。
「しかし、闇雲にダオレイスを回られて、二度と出会えないっていうのも面白くありませんね。だから、特別に一つだけ贈り物を捧げましょう」
クルム達を見下ろしながら、ノスチェスは含みの籠った笑みを浮かべると、
「私達の拠点は、イダにあります」
イダはトレゾール大陸の北端にある国だ。今いるグリーネ大国のデムテンからだと、もう一つの隣国であるマーヴィを経由した方が早く辿り着くことが出来る。それでも掛かる時間は、ひと月は覚悟したほうがいいだろう。
「もし私達を本気で止めたいのならば、どうぞ足を運びに来てください。まァ、貴方達の勢力じゃ私達ヴァンの敵になり得ないのは目に見えて分かっておりますし、そもそも私とまた逢えるかも不明確ですけどね」
「どういう意味ですか?」
クルムの問いを、「ふふっ」とノスチェスは一笑に付した。
「先ほども言ったでしょう。これ以上の情報は、打ち止めだと。今のは、私からの大サービスです」
「その大サービスも、あなたのため、でしょう?」
クルムの指摘に、ノスチェスは何も言わなかった。クルム達が――、否、クルムがヴァンの元へ訪れる未来を想像して、一人静かに笑みを浮かべるだけだ。
「それでは、もし命を捨てたくなったら、イダまで遊びに来てください。私達ヴァンは、逃げることも隠れることもなく、いつでもお待ちしておりますから」
ノスチェスは空中で恭しく頭を下げると、そのまま体を翻し、黒い翼を羽ばたかせながら彼方遠くへと飛んでいった。ノスチェスが飛んで行った方向は、先ほどの言葉通りイダの方角だった。
ノスチェスが去り、研究所周りでは静寂が満ち満ちた。この場に立っている者は、みなノスチェスがいなくなった空を見上げている。
クルム達は、ノスチェスの言葉を噛み締めているところだった。
クルムはノスチェスがこの地を悪魔で満たそうとしていることを憂い、リッカはヴァンという存在が世界に与えようとする影響を危惧し、そしてシンクは子供ながらに世界の未来を慮っている。
誰も何も言わない、そんな状況下において、
「さて、これからクルムくん達はどうするんだい?」
一番最初に口を開いたのは、パルマだった。眼鏡の蔓に手を当てるパルマの姿は、どこか達観しているようでもあった。
「あそこまで言われて黙っていられるかよ!」
「あんなの放っておける訳ない! 今すぐ行こう、イダへ!」
シンクとリッカが怒りに燃え、ノスチェスが飛んで行った方角――すなわちイダの方向へと歩き出そうとしていた。
「そうですね。ですが、今は休みましょう」
しかし、熱くなる二人を落ち着かせるような声が、クルムの口から紡がれた。その声に、リッカもシンクも、足を止めて振り返る。
「なんだって?」
「ヴァンを放置していたら、ダオレイスは大変なことになっちゃうよ。それでもいいの?」
「二人の言う通り、ヴァンは一刻も早く止めなけらばならない組織です。しかし、僕達はデムテンに来るまで、ろくに休憩する間もなくここまで来ました。仮にこのままイダへ行ったとしても、ノスチェス・ラーバスの言う通り、勝ち目がないのは目に見えています」
クルムの発言に、反論の余地はなかった。
ただし、クルムの言うことが正論だと分かっていても尚、リッカの心は先を行けと急き立てる。世界政府としてのリッカ・ヴェントが、悪人によって一般人が不当に苦しめられることが耐えられないのだ。
無言のリッカの心を読んでか、クルムは更に言葉を続ける。
「けれど、パルマさんのところにいれば、しっかりと体を休めることが出来ます。それに、先ほど作っていただいた弾丸も、まだ改良の余地があるんですよね」
「あぁ、その通りだ。それに、クルムくんだけじゃない。リッカちゃんの鞭も更に改良することが出来るよ」
クルムに話を振られたパルマは、自信満々に言った。
「……分かったわ」
リッカは小さく嘆息を吐くと、根負けした。
「クルムの言う通り、今は休もう。色々ありすぎて、頭の整理もしたかったし。それに、ここで騒ぎ立てたところで、今の私達じゃどうしようもないもんね」
実際、クルムとパルマの提案は、リッカにとって願ってもいないものだった。
パルマから新しい鞭を譲り受け、初めて悪魔人と一人で向き合ったが、リッカは己の実力不足を感じていた。その中で、更に鞭の性能が上がるというのであれば、喜ばしいことだ。もちろん、この休息期間で自分自身の力をより磨くことは忘れない。
「ちぇっ、まだ行かないのか。ここにずっといても、つまんねーんだよな」
「この町には、シンクくんが知らないものがたくさんあるよ。きっと飽きないさ」
「ふん、そこまで言うなら仕方ないな。暫くいてやるか」
先に進めないことに乗り気ではなかったシンクだったが、パルマの言葉に目を光らせた。
「ありがとうございます、二人とも。パルマさん、申し訳ありませんが、宜しくお願いします」
リッカとシンク、そしてパルマに対して、クルムは頭を下げた。誰に対しても、律儀に対応するところは、変わらずクルムらしい。
そんなクルムの姿を見て、「アッハッハ」と大口を開けて普段と同じ笑みを、パルマは浮かべた。
「ボクとクルムくんの仲じゃないか。固くならないでくれよ。で、どれくらい滞在する予定なんだい?」
「そうですね、一週間ほど休ませて頂こうかと」
「りょーかい。んじゃ、クルムくんに、リッカちゃんに、シンクくん。僅かな期間だけど、自分の家のように寛いでくれたまえ」
そう言うと、パルマは翻して、自分の研究所兼家屋に向かって歩き出した。シンクも弾む足取りで、パルマの後についていく。
「それにしても、一週間か……。それだけ時間があれば、弾丸だけじゃなくて、クルムくんの銃そのものにも新しい機能を加えることが出来そうだよ。――ふふふっ」
これから生み出す新たな創造を思い浮かべながら、パルマは一人静かに笑っていた。そんなパルマを横目にして、シンクは引いたように顔を引き攣らせていた。
「さて、そしたら私は――」
体を伸ばしたリッカは、地面へと視線を落とす。そこには、クルムによって気絶したままであるベルディがいた。
このままベルディを放置して、目を覚ましたら「どうぞご勝手にしてください」という訳にはいかない。悪魔に憑かれていたとはいえ、ベルディはハルバックで建物を爆発させるという事件を起こし、その後悪魔に憑かれるようになった。ベルディには然るべき罰を受けてもらわなくてはならない。
そのために、デムテン支部にいるジュディに引き渡す必要がある。
そう判断し、エインセルを取り出そうとしたリッカだったが、
「って、そうか。ここでジュディさんを呼んでも、来てもらうのは難しいか」
デムテンの町からパルマの研究所までの道のりを思い出し、エインセルをしまった。
あの険しい道のりをジュディに来てもらうことを想像したら、流石に申し訳なさを感じてしまう。
これから一週間、パルマの研究所を拠点にして活動することになるのだから、その挨拶を含め、リッカの方から顔を出した方がいいだろう。
「クルム。私はこれから町に戻って、ベルディを引き渡そうと思うけど、クルムはど――」
クルムの横顔を見た途端、リッカの口は途中で止まってしまった。
しかし、その異変も途中まで。クルムは自分が声を掛けられていることに気が付くと、いつもの優しい微笑みを浮かべ、
「僕も途中までついていきますよ。ベルディさんを背負わせながら、リッカに山道を歩かせる訳にはいかないですから」
軽々しくベルディを背負って、クルムは町の方角へと歩き出した。
淡々とクルムは歩を進め、リッカは静かな空気に満たされる環境に残された。それほど今見たクルムの顔に、意識が持っていかれていた。
「――あ、待ってよ」
リッカは自分が見たものを振り払うように首を横に振ると、現実に戻り、先へと進むクルムの後を追った。
クルムに追いついたリッカは、忘れようとしたばかりのクルムの表情を、一瞬だけ思い出す。
クルムの先ほどの顔。今まで一度も見たことのない顔。それは、まさしく――。
この先待ち受ける未来が、過酷で熾烈になることを予期したように、激しい義憤に燃え盛っていた。




