1-14 また会えた
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懐で抱く少女――ララが眠ったことに気付くと、リッカは世界政府の白いコートを脱ぎ、ララを包み込むようにそのコートを羽織わせた。
リッカはララに目を向ける。ララの体には小さくはあるものの、幾つかの傷が出来ていた。その傷を見ながら、リッカは申し訳ない思いで胸が締め付けられた。
ララが襲われていることをリッカが認識したのは、ララがトバスに蹴られた時だ。
暗い夜中であるはずなのに、道の真ん中に小さな子供の影と大きな男の影があることに、リッカは違和感を覚えていた。二人が何か話していることは分かったが、声が小さかったために詳しい内容までは聞き取れなかった。
リッカが男に対して注意をし、帰宅するように促せばいいと最初は思っていた。だから、リッカはひとまず二人の影に近づき、その様子を窺おうとした。
しかし、次の瞬間、男の影が足を蹴り上げたことで、小さな子供の影は吹き飛ばされた。小さな可愛らしい声を上げていたことから、その子供は女の子――ララだと分かった。
そして、男――トバスは腰から剣を取り出し、畳み掛けるように剣を振り上げていたのだ。
リッカはララを守るべく、全力で走り出していた。
しかし、距離にしたら長くはなかったが、間に合うかどうか微妙なものだった。
――走っても間に合わないっ!
そう判断したリッカはなりふり構わず、ララの元に飛び込んだ。リッカは宙に浮いたまま、ララの体を自分の方へと引き寄せ、抱きしめた。
その直後、地面の割れる大きな音が響いた。トバスが持っていた剣によるものだ。
ほっと一息吐く間もなく、リッカは地面に足を着けようと思ったが、勢いを殺しきれず、ララを抱えたまま、二転三転と体を転がしてしまった。
リッカはララの体を守ろうと、さらにギュッと抱きしめ、身を挺して守った。
そして、現在に至る。
――気づいた瞬間に早く駆け寄っていれば、怖い思いをさせなかったのに……。
目を瞑っているララの頭を撫でながら、リッカは自分の不甲斐なさに歯を食いしばっていた。
「ひゅぅ。やるねぇ、世界政府のお嬢ちゃん」
リッカは後ろから口笛がなるのを聞こえ、意識をララからトバスの方へと向けた。トバスの軽い口調とは裏腹に、冷ややかな視線がリッカに向けられているのが分かる。
トバスはリッカに対して完全なる敵意を剝き出しにしていた。
――そうだ。まだ何も解決されていない。
敵意に当てられたリッカは、その場で深呼吸をした。自分を落ち着けるため、そして、次の行動の準備をするためだ。
「こんな小さな子に……自分が何をしたのか分かってるの?」
「俺はただこいつがシエル様の計画の邪魔になるような行動をしたから、それを止めようとしただけだ」
リッカの問いかけに対し、トバスは悪びれる様子もなく、むしろ当然のことをしているかのように主張する。
「それに、だ。その嬢ちゃんは父親の場所を聞いて来たんだ。ははっ、ちょうどよかったじゃねえか。こいつはあの世で父親に会えるはずだった」
一歩、一歩とトバスはゆっくりとリッカの方に近づいて来る。余裕なのか、剣を片手で振り回していた。
「だが、感動の親子の再会をお前が邪魔した。その代償はしっかりと――ぐっ!?」
突然、暗かったはずの世界に、光が満ちる。
その眩しさのあまり、トバスは声を漏らしながら、空いている手で目を覆った。
リッカは光る光源――エインセルを右手に持つと、トバスに向けて照らした。
光が当たったことによって、トバスの全貌は明らかにされる。トバスはリッカより一回りも大きい体つきをしており、腰には鞘、手には大剣が収まっている。目元が隠されているため、どのような顔をしているか分からなかったが、体に見合った顔の形をしていた。
何より特徴的なのは、トバスの首元にある黒い首輪のようなものだ。
「あなた、カペル・リューグの関係者ね」
その姿を見て、トバスの正体に更に確信を持ちながら、リッカは言った。
理由は分からないが、カペルに従う人間は例外なく黒い首輪をつけている。
つまり、目の前にいる人間がカペルの仲間だということは、火を見るよりも明らかなのだ。
トバスはまだ光に対応できず、苦しそうに目を押さえていた。
「さぁ、大人しく私をカペルの元に――」
――連れていきなさい。
そう告げようとした時だった。
「……カペルじゃない」
リッカの言葉は、低く重い声によって遮られた。いや、トバスから発せられていた雰囲気が明らかに変わったことにより、リッカは怯み、言葉にする前に喉の奥で潰されてしまったのだ。
「……な、何?」
リッカはトバスが急変したことを理解できず、思わず疑問にならない疑問を言葉に出していた。
しかし、トバスはリッカの言葉にまるで耳を傾ける気配はなかった。
リッカは驚きのあまり、トバスに目を奪われている。だから、その時、リッカの胸の辺りで何かが疼くことに、全く気付けなかった。
トバスは、目を押さえていた手に力を入れた。それによって、こめかみから血が溢れるが、全く気にも留める様子はない。
痛みすらも超越する動機が、今のトバスを動かしている。
それは――、
「あの方は! シエル・クヴント様だッ!」
そう叫ぶと、トバスは目元を隠していた手を外した。初めて見るトバスの目は黒く、ただ黒く染まっていた。血も滴っていることもあってか、その目には、邪魔者に対する怒りしか存在していないように見えた。
今のトバスを動かす原動力。それは、侮辱されたことに対する憤慨だ。
信頼しきっているシエル・クヴントを、カペル・リューグと言われた。
英雄として崇高しているのに、人――それも英雄とは反対の存在である罪人に間違われること以上の侮辱があるだろうか。
それが、トバスの逆鱗に触れたのだ。
怒り狂う姿は、もはや、ただ我を忘れた獣の姿のようだった。
リッカはその時、初めて「危険」という思考に至る。次の行動に移ろうとするが、上手く頭が回らない。脈打つ鼓動が、思考の邪魔をする。
「絶対! 許さんッ!」
トバスは剣を持つ手に力を入れると、怒号を上げながら、リッカの方へと駆け出した。トバスが動き出したことに気付くと、リッカはハッと我に返った。そして、リッカは大きく息を吐き、全神経をトバスに傾ける。
――私が彼を止めるしかないっ!
リッカはトバスの動きを見逃さないように、目を見張る。トバスは剣を引きずりながら、走っている。その動きが変わる様子はなかった。
トバスはただ一直線にこちらに向かって突進しているだけだった。
そして、その後のトバスの行動は剣を振り上げることだろう。その時、両腕を天に突き上げるように真っ直ぐに伸ばすに違いない。
トバスがそのようにするとリッカが確信するのには理由がある。
先ほどトバスが剣でララを斬ろうとした時、剣先を空高く向けていた。その姿は、まるで捧げものを捧げるようだった。
隙だらけの構えであるはずなのに、わざわざそうする理由は限られる。
この構えこそ、トバスがシエル・クヴントに忠誠を尽くす意思の表れなのだ。
ならば、トバスが剣を振り上げた瞬間を狙って、腰にある鞭で、剣を握っている手を払い、剣を手放させるしかない。そして、トバスが動揺した時を狙って、取り押さえる。
これが、リッカの出したこの場を切り拓く打開策だ。
それ以外、最善の策は浮かばなかった。浮かんだとしても、結局、ララを抱えている以上、大きな行動は出来ない。
結局、現状はこれしかトバスに対抗する方法がないのだ。
不幸中の幸いか、トバスの剣の構えを一度だけ見ることが出来たのはよかった。その情報があるだけでも、傾向と対策を立てることが出来たからだ。
目の前に迫り来るトバスを見ながら、リッカはエインセルを持つ手に自然と力が入る。作戦を始める機会を見極めるためだ。
トバスが剣を振り上げるために踏み込むまで、あと数歩のタイミング――
「ッ!?」
商業区一帯は、再び光を失った。
唯一の光源であったエインセルを、リッカが懐に閉まったのだ。
急激な状況変化と共に、トバスの動きはほんのわずかだが鈍くなった。
リッカはその隙に、音を立てないように、右手を懐から腰に移動させる。
「そんなのぉ! 無駄なあがきだぁ!」
トバスが叫ぶと、リッカの目の前からジャリッと石を踏み込む音とが聞こえると共に、風が下から上にと吹き上げた。
トバスが剣を振り上げた証拠だ。
――今だ!
リッカは腰にある鞭を右手で掴み、狙い通りに行動しようとした。あとは鞭を振って、トバスの手から剣を落とすだけだ。
しかし、この絶好のタイミングで、リッカの予想外の出来事が起こった。
「う、うぅん」
リッカの懐に眠るララが息苦しそうに小さく吐息を漏らした。
その瞬間、リッカの意識はララの方に向いてしまった。いや、向けてしまった。
ララは目を開けてはいなかったが、どこか苦しそうな表情を浮かべていた。安心させようと、ララを抱えている左手に自然と力が入る。
そして、リッカは失態を犯したことに気付く。
すぐさまリッカは視線をララからトバスに移した。
剣を垂直に立てているトバスの影は厳かで、刑を執行させるための冷酷な断頭台のように感じた。そこに遠慮という言葉は一切なく、トバスはニヤリと笑いながら、剣を思い切り振り下ろした。
「二人ともに散れぇ!」
風が、空間が切り裂かれていくのが分かる。リッカとララの命を遠慮なく奪おうとしている。
そうさせまいと、もう一度リッカは鞭で迎え撃とうとした。
しかし、剣はリッカの予想よりも速い速度で振り下ろされている。もう剣を払うことはおろか、鞭を取り出すことさえ出来ないと、リッカは判断してしまった。
リッカはララを守るように、鞭を掴んでいた右手をララに回した。せめてララだけは守れるようにと、両腕で強く抱きかかえる。リッカの服を掴む力が、少しだけ強くなった気がした。
リッカは死を覚悟して、目を固く閉じる。
――私一人だと、こんなにも何も出来ない。この小さな女の子、一人だって守ることが出来ない。
リッカは自分の無力さを嘆いていた。
世界政府の大陸支部に配属されてから、どこか浮かれていたのかもしれない。
あの世界政府なのだから、何でも出来ると思っていた。一人でも、町一つくらいなら守れると思っていた。
リッカの夢――正しい人が苦しまない世界を作ることが出来ると思っていた。
しかし、現実は違った。
所詮は、肩書だけだったのだ。リッカ自身に力が付いたわけではない。
そのことに気付いて、今更助けを求めるにしても、もう遅い。
クレイや世界政府の仲間は来ない。
クルムも、もうどこかへ旅立ってしまった。
成す術は、どこにも何もない。
唯一リッカに出来ること――、それは奇跡が起こることをただ祈るだけだ。
この状況を打破できるのは、もはや奇跡以外はなかった。
リッカはララを強く抱きしめながら、現実から目を背けるようにずっと目を閉じていた。
命が奪われる瞬間というのは、こんなにも長く、孤独で、辛いものなのかと、リッカは初めて知った。一瞬が永遠のようだ。
しかし、いつまで経っても自分の命を閉ざす刃は、襲ってこない。迎えるはずの終わりが来ないのだ。
リッカは不審に思い、固く閉ざしていた目を開くと、信じられない現実が真っ先に目に入った。
リッカの意志とは関係なく、そうすべきであるように涙が流れる。
「お、お前……何者だ……?」
そこには、困惑する敵と、何者かの後ろ姿があった。
「――僕、ですか?」
優しい声。穏やかな声。それでいて、人を安心させる心強い声。
マントを羽織っているその人の顔は、背中越しで見ることは叶わない。
「僕は、ダオレイスを駆け回る何でも屋――」
しかし、それが誰なのかは、リッカはわざわざ問わなくても、答えられる自信があった。
「クルム・アーレントです」
目の前にいる男――クルム・アーレントはそう告げた。