1-13 危険な橋
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暗くなったオリエンスの商業区は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
夜になると商業区では、商売をすることを禁止されている。小さな町のため、商業区の騒ぎが居住区の人の迷惑になるからだ。そのため、いつも商業区の夜は静かだった。
しかし、それにしても、今の商業区は静かすぎている。誰一人の声さえ、しないのだ。
商業区では、夜に商売をすることを禁じられていたとしても、小さい規模ではあるが必ずどこかで商売がされている。
だから、こんなにも静かな商業区とは本来あり得ないのだ。
そんな静寂とした商業区を切り裂く足音が、居住区の方から響いた。
とっと、とっとと一定のリズムが刻まれるその足音からは、一生懸命に走っているのが伝わってくる。走る度に、頭のてっぺんで結ばれた髪が揺れている。
走っている内に商業区の異変に気付いたが、そのことに構う余裕はなかった。一刻も早く、あの場所に行かなければならないのだ。
目的地に向かって、ひたすらに走る。
だが、ふと何かに足が躓いてしまい、盛大に転んでしまった。
転んで出来た傷が痛む。しかし――、
――弱音を吐くわけにはいかない。
そう思い、再び立ち上がり、走ろうとした。
「おい、お嬢ちゃん。こっちは今、立ち入り禁止だぜ?」
そう決意した時、頭の上から声が聞こえた。
お嬢ちゃんと呼ばれた少女――ララは倒れたまま、声がした方向に目線を向ける。そこには、体つきの良い男が立っていた。暗くて、全貌を知ることは出来ないが、どうやらララのことを案じているようだ。
「何かこっちの方に用かい?」
体つきの良い男は、ララを安心させるような優しい声を掛けた。
ゆっくりと、ララは体を起こしながら、
「……うん。家の周りに変な人がいるから、お父さんに伝えようと思って……」
目の前の男を信じ切って、ララは自分が今しようとしていることを伝えた。
居住区に住んでいる女の子、ララは居住区にうろつく怪しい人影を見かけると、商業区にいるはずの父親を捜しに走り出した。
ララの父親は、居住区で野犬が暴れ出した時に退治したり、オリエンスを攻めてくる隣国の者を前線で退ける勇敢な男だ。そのような一面がある一方で、ララが寝付けない時は寝るまで本を読んでくれる優しさも兼ね備えている。
ララにとって、かけがえのない父親だ。
そんな父親だったが、最近はこの町にやって来たシエル・クヴントに慕い仕えているため、家に帰ることはなかった。
ララは寂しかったが、父親が頑張っている姿を邪魔したくなくて、その思いを隠しながら父親に会うことはしなかった。
しかし、居住区の危機となれば話は変わる。
居住区が危険だと聞けば、あの心優しく、頼りになる父親は助けに帰って来てくれるだろう。今は、そのことを知る術がなくて、戻って来ないだけだ。
――なら、私が伝えないといけない。
それが自分の使命だと、ララは幼いながらも自然とそう思っていた。
だから、一人で暗い夜の中、商業区の方にやって来たのだ。
「そうか……。変な人物か」
ララの言葉を聞き、目の前の男は言葉を噛み締めるように頷いているのが分かった。男の言動に期待するあまり、ララは目の前の男の右足にしがみついた。
輪郭通り、男の足はがっつりとしていた。
「うん。もしかして、何か知ってるの? お父さんのこととか、変な人のこととか!」
ララは顔を輝かせながら、目の前の人物に質問をぶつける。
「俺はシエル・クヴント様の特攻隊長、トバス。もしかして、お嬢ちゃんが見た変な奴って」
そこまで言うと、トバスと名乗った男は言葉を切った。ララは、その続きを早く聞きたくて、先を促すことなく黙って待った。
「こんな首輪をしている奴じゃあ――」
「きゃっ」
トバスはそう言うと、右足を一歩前に出した。いや、その勢いの強さは蹴り出したと表現した方が正しい。急な出来事に加え、勢いも子供に耐えられるようなものではなかったので、ララは体を支えることが出来ずに、地面に尻もちをついてしまった。
ララに悲鳴を上げる暇も与えないまま、地面が沈没するのではないかと思うほど力強く、トバスはララの目の前に右足を踏み込んだ。
「――ないかい?」
その言葉と同時に、ララの頭上から何かが襲い掛かって来た。
「――っ!」
ララは息を呑み、目を強く瞑る。
だが、それでも、頭の上に迫り来る悪寒がなくなることはなく、まさしく小さな命の灯が消えようとしていた。
その時だった。
横から体を掴まれるのと同時に、ララは体がふわっと浮かぶのを感じた。そして、力の込められた温もりを感じながら、二転三転と視界がぐるぐると回る。
「けほっけほっ」
視界が正常に戻り、体もしっかりと地に着くのが分かると、ララは思わず咳き込んでしまった。同時に、ララの体は急に震え出す。
寒いからではない。これは、自分の命がまさに潰えようとした恐怖から来るものだ。
「う……」
ララは泣き出しそうになった。
しかし、その時、ララの体を強く抱きしめてくれる存在があった。温かく、甘い香りがして、母親のように頼もしかった。
こんな状況の中でも声を上げて泣かずにいられるのは、この女性のおかげだろう。
一人ではないと強く実感させてくれる存在に、ララは安心すると、徐々に意識が遠のいていくのを感じた。
「ごめんね、怖い思いをさせちゃって……」
柔らかく、透き通った声が、ララの耳に入った。その声には、どこか自戒の念が込められているように聞こえる。
ララはその声を聞くと、小さく首を振り、母親のように抱きしめてくれる女性――リッカ・ヴェントの懐で気を失った。