1-12 商人らしくない商人
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――時は少し遡り、場所も居住区から商業区へと変わる。
「へい、らっしゃい!」
朝の商業区は多くの人で賑わっていた。しかし、これでも全盛期のオリエンスの商業区と比べると、人の数は少ない方だ。
「すみません、すみません」
その人通りの中を、クルムは前から来る人たちの間を縫って、先へ先へと進んでいた。隙間を通る時、謝罪の言葉は欠かさなかった。
クルムが向かう場所は、人々が進む道とは違い、オリエンスの出口だった。
人々の流れと反するクルムの行動に関して、道行く人の反応は冷たく、視線も鋭く厳しいものだった。
「すみません、道通ります――ぷはっ」
クルムはようやく人通りを抜け、商業区とは打って変わって落ち着いた場所――オリエンスの出入り口である場所までたどり着くことが出来た。
膝に手をついて、クルムは一息を吐く。
居住区からこの場所まで、距離的にはそう遠くはないはずなのに、実際の道の十倍以上の長さを歩いた気分だ。
クルムは目を閉じて、呼吸を整えた。それと同時に、これからどこの町へ行くかについて考えを張り巡らせる。
この行動はクルムの習慣みたいなものだ。どこへ行くべきか迷った時に、いつも目を閉じて、ゆっくりと考える。
目を閉じるのは、余計な考えや情報を遮断するためだ。
そうすることで本当に自分が行くべき道へと、誰かが連れていってくれる。そのような想いに駆られるのだ。
心を落ち着かせ、クルム・アーレントという存在を自然に委ねた状態にする。
オリエンスは国境に隣接する町だ。
クルムが選べる選択肢としては、フラウム国の内部に進むか、超大国グリーネに入るか、それかもう一つの隣国であるジンガに向かうか、この三つがある。
これから行くことの出来る場所を考え出すと、クルムはゆっくりと目を開けた。
目を開けると、世界が透明に見えた。オリエンスから伸びている道は、クルムがその足を踏みいれることを待ち侘びるかのように、光り輝いていた。
きっと、どこに行っても後悔はしないだろう。
クルムは笑みをこぼしながら右足を一歩前へと踏み出した。
これから先の未来に希望を抱いて――。
「そこのお兄さん。今日はリンゴが安いよ。旅の土産に買っていかないかい?」
その時だった。
まるでタイミングを見計らったかのように、クルムの出鼻は挫かれた。
爽やかな声が聞こえた後方を振り替えると、その声の印象通りに爽やかな表情を浮かべた青少年が立っていた。
その青少年の傍らには、荷車があり、手には真っ赤で瑞々しいリンゴを手に持っていた。その様子から見て、彼はおそらく商人だろう。
クルムは辺りを見回すが、他に彼の話を傾聴している人はおらず、忙しくオリエンスの町へと入っている。
つまり、彼が物を売りたい相手は――。
「……僕、ですか?」
クルムは自分を指して、商人に確認をした。無一文のクルムに目をつけるとは、この商人も運がない。
「君以外、誰がいるのさ。このリンゴは、オリエンスの二つ先の町でついさっき買い取ったものでね。新鮮そのもの、味もお墨付きだよ」
そう言うと、商人は手に持っているリンゴを口に頬張った。シャリっという音が聞こえる共に、果汁が溢れ出る。彼は幸せそうな笑みを浮かべながら、口に入ったリンゴの欠片を胃袋へと流し込んだ。
「幸運だね。君が一番目のお客さ」
そのように言った商人の顔には、買ってくれという文字が堂々と描かれていた。
「せっかくですが、今日は遠慮しておきます」
「なんだ、残念だな。苦労してリンゴを得たというのに……」
彼はそう言うものの、その表情は言葉とは違っていた。商人の性か、買ってもらえないということには慣れているのだろう。何も気に留めている様子はなかった。
もう一度リンゴをかじった商人は、やはり幸せそうな表情を浮かべた。
その商人の表情を見てか、それとも瑞々しいリンゴを見てなのか、一人の女性が足を止めた。
「あら、美味しそうだねぇ」
「見る目あるね、お姉さん。このリンゴは美味しそうじゃなくて、本当に美味しいからさ。食べてみれば違いが分かるよ」
買う気がないと判断されたクルムをよそに、商人はリンゴに心を惹かれた女性の客と話し始めた。
これからオリエンスの町で買い物を始めるのだろう、この女性は両手に空になった大きなカバンを持っていた。女性の顔にはしわが寄っていて、年を取っているはずなのに、年齢を感じさせないくらい若々しかった。
商人の巧みな話力で、女性の声はみるみる弾んでいく。
「さすがオリエンスだねぇ。グリーネからわざわざ来た甲斐があったわぃ。ひとまずリンゴ十個もらえるかい?」
女性のお客から満足してもらったのか、商人はリンゴを売るのに成功したようだ。女性のお客からお金を受け取ると、商人はその場でお金の過不足を確認する。
「はい、毎度あり!」
商人は勘定の確認を終えると、商人が用意していた袋にリンゴを入れた。
クルムはその一連の当たり前のやり取りを見ていると、どこか微笑ましくなった。そして、彼らに背を向け、今度こそオリエンスを出ようと歩き始めた。
リンゴを袋に入れる商人は、「お客さん。わざわざ遠いところから来たから、一個サービスだ」とサービス精神を忘れることはなかった。
袋の中に十一個のリンゴを入れるのを待つ間、女性のお客は「すまないねぇ。このリンゴはどこから持ってきたんだい?」と世間話を始めた。
クルムはまだ遠く離れていないため、その声が耳に入る。その何気ない会話を聞きたくて、自然と歩みは遅くなっていく。
「ここから二つ先の町だよ」
「ほぅ、あのプリルの町かぃ。私も若い頃、何度か行ったことがあってねぇ」
「そうそう。リンゴを大量に使ったプリル焼きは忘れられない味でさ。もう舌が蕩け出すのなんの」
「懐かしいのぉ。でも、よくここまで来れたねぇ。今、その隣のビルカは治安が危うくて、余所者は入れないらしいじゃないかい」
クルムはバッと振り返る。商人と女性――二人の会話に反応して、だ。
彼らはクルムの視線に気付くことなく、普通に会話を続けていた。
「そうそう。本当はビルカを突っ切って行く方が早いんだけど、通れなくてさ。仕方なく遠回りして、ジンガを経由してここに来たんだ」
「怖いねぇ。ここも問題がなければいいけど」
「ビルカ自体の問題らしいから、多分大丈夫だと思うけどね。それに昨日の夜の話だから、流石にもう解決しているはずさ。……はい、美味しく食べてくれよ」
そこで話を区切ると、商人は袋に詰め終わったリンゴを、女性のお客に渡した。女性は嬉しそうに礼を言いながら受け取る。
「幸先いいねぇ。今日はいい買い物の日になりそうだわぃ」
女性がそう言って去るのを、商人は頭を深く下げて見送っていた。
「……」
ビルカ。隣町。その問題。
クルムはその場に立ち尽くした状態のままで、頭に残るいくつかの単語を思い浮かべていた。
これらの単語は、リッカからも聞いたことのある単語だ。
オリエンス支部にいた仲間は、皆、隣町の応援に向かっているとリッカは言っていたはずだ。そして、それも今日には終わってオリエンスに戻ってくると言っていた。
だから、商人の言葉を聞いたなら、クルムは安心してもいいはずだ。
しかし、実際はそうはならず、クルムの心には平安がなかった。
何かが繋がりそうな気がする。何かが見落とされている気がする。
「もし……」
クルムは口に手を当てながら、小さく呟く。
もし、本当に解決していたなら、リッカの性格なら、自信に満ちた表情でクルムに報告をするのではないだろうか。
だが、クルムがそう話を切り出さなかったとはいえ、リッカはそのことを言わなかった。
朝の時点でその話をしなかったのに、この時点でビルカの問題が解決されているとは、クルムには思い難かった。
クルムの思い違いならそれでいい。
けれど、仮にビルカの町の問題がまだ解決していなければ、あの真面目で真っ直ぐな世界政府の新人は、一人ででも作戦を決行してしまうだろう。
クルムは空を見た。
陽はまだ半分にも達していない。
オリエンスからビルカに着くのには、今から遅くても日が暮れるまでには着くことが出来る。
念には念を、という言葉もあるように――。
ひとまず隣町のビルカの様子を見に行こう、そう思った矢先だった。
「そこの無一文の旅人さん」
クルムは先ほどの商人に声を掛けられ、商人がいる方に顔を向ける。すると、すぐ近くまでにリンゴが接近して来ていたので、クルムは反射的にリンゴを掴む。
手の平にすっぽりと収まったリンゴを見ながら、何事か、とクルムは思う。
商人が投げたのは分かるけれども、わざわざ商人がそうしてくれる理由が理解できないのだ。
「そのリンゴ、旅のお供にするといい」
頭に疑問符を浮かべているクルムに対し、商人は当然のように話す。その表情には微笑みが混ざっていて、どこか自信にも満ち溢れていた。
「え、でも、僕はお金が……」
クルムは戸惑いながら、言葉を紡ぐ。
確かにこのリンゴは魅力的ではあるが、クルムはリンゴを買うお金さえなかった。このオリエンスで、一度もお金を稼いでいないからだ。
素直に受け入れようとしないクルムを案じてか、商人は
「初めての町に来た時、初めて会った人には売り物をただであげるって決めているんだ」
と言った。
そう言う商人の表情は、堂々としているものだった。
「これは俺の考えかもしれないけど、初めて来た町で最初に会った人によくしてあげれば、その先の商売とか色んなことが上手くいくと思っている。商品をもらった人の喜ぶ顔を見たら、やる気も出てくるし、何よりそれが商売やっている者としての最高の特権だろう?」
商人の問いかけに納得の出来るところがあったのか、クルムは小さく頷いた。クルムの頷きを見逃さなかった商人は口角を上げる。
「それで商売的に損したとしても、後悔しないよ」
語る商人の瞳は、どこか遠い未来を見据えているようだった。
クルムは、いつの間にか商人の話――いや、目の前にいる商人自身に引き込まれているのを実感した。
「……もちろん買ってくれたら、それが一番だけどね」
商人はクルムの方を見つめると、最後に冗談を交えて笑っていた。
「いい信条ですね」
目の前にいる商人の話を聞いて、クルムは心に湧いた素直な想いを言葉にした。
「だろう? これがサルナック商会の売りだからね」
その言葉を聞いて、商人は自信満々な笑みを浮かべて答える。
しかし、商人の満足そうな顔とは違い、クルムは難しい顔を浮かべていた。聞き覚えのない単語が出てきたからだ。
「サルナック?」
「ああ、すまない。自己紹介がまだだったね。俺はフィーオ・サルナック。いずれダオレイス一の商人になる男。以後、ごひいきに」
そう言って、商人――フィーオ・サルナックはクルムに手を伸ばしてきた。
「フィーオさん、ですね。僕はクルム・アーレントです」
手を指し伸ばすフィーオに、クルムは握手をもって応じる。
「……クルムか。いい名前だね。……さて、クルム」
フィーオはクルムから手を離すと、空を見上げてクルムの名前を呼んだ。クルムもフィーオにつられて、空を見上げる。
太陽の位置は、先ほどよりも少し高く昇っていた。
「引き留めてしまった俺が言うのもなんだけど、時間は大丈夫かい?」
「……。どうして、それを?」
「さっきの君の表情を見れば、焦っていることくらい簡単に分かるさ」
フィーオにそう言われ、クルムは自分の顔に触れた。
――そんなに分かり易く表情に出ていたのだろうか。
自分の頬に触れているクルムを見ながら、フィーオは笑っていた。
「ははっ、面白いね。じゃあ、俺はそろそろ本格的にオリエンスで商売を始めようかな。楽しかったよ、クルム」
フィーオは別れを告げると、クルムに背を向けてリンゴがたくさん積まれている荷車に近づいた。
その背中を見て、クルムは言うべきことを思い出す。
「……あ、フィーオさん! 夜には気を付けてください!」
クルムは声を張り上げてフィーオに伝えた。
今夜リッカが作戦を決行した時、カペル・リューグがこのオリエンスで悪あがきをするのを抑えることが出来ないかもしれない。もし、そうなったならば、この町全体に危険が及ぶ可能性があるのだ。
フィーオはクルムの方を振り向かず、腕を真っ直ぐに突き上げた。そして、そのまま荷車を引きながら、商業区の方に姿を消した。
「――なれますよ、きっと」
クルムはフィーオのことを見送ると、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。そして、体の方向を変え、そのまま一歩前に踏み出す。
少しでもこの町のリスクを減らすために――、クルムはオリエンスを発った。




