1-11 まるで嵐そのもの
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リッカは鏡の前にいる自分の顔を見つめると、大きく息を吐いた。溜め息を吐く顔色は、普段よりも赤く染まっていた。
「私、恥ずかしいな……。何であんなこと言ったんだろう……?」
先ほどのことを思い出して、鏡の中にいる自分に向かってリッカはありのままの疑問をぶつける。その言葉の中には、自嘲の意も込められている。
鏡の中にいるリッカは、顔を赤らめながら、リッカに対して猜疑の眼差しを向けていた。もちろん、リッカの疑問に答える様子は全くなく、リッカと同じ行動しか取らない。
その何の意味もないやり取りに、リッカは再びため息を吐く。
リッカは頭の中で、ある人物を思い浮かべていた。黒い髪で、マントを羽織っており、穏やかな目で、優しく笑うクルム・アーレントの姿だ。
そして、クルムを思い出すのと同時に、先ほどの別れの場面も一緒にリッカの心に映し出される。
次の町に行こうとするクルムに対して、なぜあんな別れを惜しむような言葉を言ったのか――、それはリッカ自身にも分からないことであった。気づいたら、クルムを止めようと勝手に口が動いていたのだ。
確かにクルム・アーレントは良い人ではあった。
出会って一日も経っていないのに、クルムの良さを挙げようとすれば、切りがないくらいに挙げることが出来る。
それほどまでに、クルム・アーレントという人物は、リッカの印象に強烈に残っている。
しかし、リッカとクルムは出会ってから、まだ一日も経っていない。
クルムに多くの良いところがあるとはいえ、リッカは心を全て許していたはずではなかった。
なのに、あのようなことを言ってしまったのは――
「クルムの傍にいることが運命だから、かな?」
真剣な顔をして、鏡を見つめながら問いかける。
しかし、リッカはすぐに自分の安逸的な発言に笑いを吹き出してしまう。
もし、本当に運命だというのなら、今頃クルムはここに留まっているはずだ。
緊張の糸が解けてしまったリッカは、カペルを止めるための準備を始めようと鏡の前から離れようとした。
その時だった。
ビー! ビー! と警報のような大きな音が、静寂に包まれた空間を壊した。
リッカはその音に驚き、肩をビクッと震わせる。ピンと結ばれている髪が、更に真っ直ぐになる。何事かと思いながらも、リッカはその音に対処するために首をきょろきょろと動かし、周りに神経を張った。
だが、暫く時間が経っても、何も起こる気配はなかった。しかし、音は続けて鳴り響いている。
何事も起こらないこの時間が、リッカの体感的には永遠のように感じた。
このまま何事も起こらないのなら、この音の大きさにも慣れてしまいそうだ、と思った時だった。
心に余裕が生まれたからか、リッカはこの音が自身の近くで鳴り響いていることに気付いた。いや、近くどころではなく、この騒音の発生源はリッカの胸元からだった。
そのことにようやく気付いたリッカは、胸元から世界政府の証明書――エインセルを取り出した。すると、エインセルから一人の人物の声が大きく漏れた。
「リッカ・ヴェント様! ご機嫌はいかがでしょうか?」
力強い声の持ち主だ。思わず、リッカはエインセルを耳から遠ざけ、空いている片手で耳を塞いだ。顔は見えないが、すぐにその声の持ち主が誰なのかが分かった。
世界政府の証明書として使われているエインセルには、様々な機能が備えられている。その内の一つとして、通信回線の機能があった。エインセルには、個々に各専用のコードを持ち合わせられている。それによって、遠くに離れている者同士でも、そのコードが分かれば、連絡を取り合うことが出来るのだ。
世界政府に所属されたばかりのリッカには、コードを把握している人間は数えるくらいしかいない。
それに加え、この声と来れば、分からない方が可笑しなほどだ。
ちなみに、細密に説明するのであれば、エインセルとは誰でも手にすることが出来る端末だ。
しかし、世界政府は通常のエインセルを基に、専用の機能をたくさん備え、エインセルを使えば政府としての活動がしやすくなるようにと独自に開発したのだった。通常の通信機能に加え、世界政府の証明書、暗号文の送信と解読、危険物の察知など、多くの機能が備えられている。
リッカは一度深く息を吸うと、改めてエインセルを耳に近づけて、
「――クレイさん」
エインセルの向こう側の声の主であるクレイ・ストルフの名を呼んだ。
クレイ・ストルフは、カペルの騒動を受けて半月ほど前からオリエンス支部長を務めるようになった人物だ。
クレイは世界政府の中で重鎮と呼ばれるだけあって世界政府内で信頼は篤く、小さな町でありながらも国境という重要な場所に位置するオリエンスの管理を任されるほどだ。また、ハッキリとした言葉に、大胆に突き進む行動力を持ち、それに加えて礼儀も弁えている。声が大きすぎることと真っ直ぐすぎて時折周りが見えなくなることが、たまに傷だ。
ちなみに、オリエンス支部長であるクレイが現在この町にいないのは、隣町のビルカで起こっている事件を解決するために、オリエンス支部の数少ないメンバーを全員連れて援護に向かっているからだ。
「ここに来た時に言わせて頂きましたが、様付けは止めてもらえないでしょうか? 私はそんな人間では――」
「いえいえ、あなたは私より立場が上である大陸支部の人間なのですから、そのような訳にはいきません」
クレイはリッカの願い事をすぐに正論を持って断る。
初めて会った時から、クレイはそうだった。クレイは立場を理由にして、リッカに敬語を使うことを止めなかった。
倍以上も年齢が離れているクレイから敬語を使われてしまうのだから、リッカはもどかしい思いを感じていた。
リッカは言葉を返さず、納得がいかんばかりに、唇を小さく尖らせた。
「ところで、リッカ様。そちらで変わった様子はございませんか?」
話題を切り返すクレイの声は、普段の大きな声から想像もつかないほど穏やかなものだった。リッカのことを心から案じていることが分かる。
「……ええ。今のところ問題はありません」
リッカは一瞬言葉に詰まったが、すぐに言葉を繋ぎ直した。クレイの質問が耳に入ると同時に、クルムのことがリッカの脳裏に過ぎったのだ。しかし、クルムはオリエンスに対しては大きな変化を与えたわけではないので、そのことは口に出さない。
「それは安心しました」
クレイの声は、憑き物が落ちたように明らかに軽くなった。懸念していた疑惑が晴れたからだろう。
「ですが、これから――」
リッカは自然とエインセルを持つ手に力が籠る。今夜、このオリエンスの町を苦しめるカペル・リューグを捕らえに行くのだ。
これはリッカが世界政府に入って初めての任務に当たる。緊張しない方が無理な話だろう。
カペルを捕まえ、オリエンスに平和を取り戻す。絶対に上手くいく。そう信じている。
けれど、それでも作戦のことを考えると……、ほんの刹那リッカは言葉を詰まらせた。
その隙だった。
「ビルカの現状ですが、私が予想したよりもよくない状況でして、オリエンスに戻るのにあと数日はかかるかと思われます」
クレイの言葉はリッカの言葉を断ち切り、リッカの精神をも切りにかかった。もちろん、クレイにその意図はないのだが、リッカにとってはそれくらい衝撃だったのだ。
一人でやると決めたものの、どこかクレイ達が戻って、共に解決してくれることをリッカは自分も気付かない内に期待していたのだった。
「申し訳ございません。三、四日で戻ると言いながら、このような失態になってしまい……」
――いや、話と違うではありませんか。私は、今日帰ってくると聞いていたから、カペルを捕らえようと作戦を考えていたのに……!
「――い」
リッカは脳裏に浮かんだ言葉を出そうと口を動かす。
「いえ、こちらのことは心配せずに、ビルカの問題を解決することを最優先にしてください。まだ事態も急な動きを見せていないので、オリエンスは私にお任せください」
しかし、実際に口にしたのは、考えていた言葉とは違う言葉だった。
嘆いても、文句を言っても、現実は何も変わらない。
それに、クルムに対して心配するな、と豪語してしまったのだ。
ここで弱音を吐いたら、リッカは自分で自分のことが許せなくなるだろう。
「……心強いです。ですが、くれぐれも無理のないように。カペル・リューグとその一派の身柄を拘束するのは、我々が戻ってからにしましょう」
「……ええ」
リッカはそう答えるが、心は既に全く違うことを決めている。だから、その声には全く力が籠っていなかった。
「それでは! ご武運をお祈りいたします!」
クレイの力強い言葉を最後に、エインセルの通信は途切れた。
リッカは声が聞こえなくなったエインセルを見つめる。そこには、希望に満ちた表情を見せているリッカの写真があった。
リッカは写真を見つめながら、シャッターの光が差したあの瞬間こうあろうと心に誓ったことを思い返す。
「――正しい人が苦しまない世界を作る」
リッカは、この写真を撮影する時に決意したことを口に出した。そうすることで、己を鼓舞させる。
「そのために――!」
リッカは両手で頬を叩くと、早速作戦を練り上げるために、書斎の方へと向かった。書斎へと向かうリッカの足は速かった。
――立ち止まっている時間なんてない。
その表情からは、迷いも恐れも感じられず、ただ揺れない決意だけが刻まれていた。




