4-11 垣間見えるもの
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リッカとシンク達が雨風を凌いでいる建物は、雨の突く音が聞こえるだけで誰の話し声も聞こえることはなかった。先ほどオッドやコルス達、ダイバースの住人達に向けて、リッカとシンクがこの状況は変わると宣言してから、口を開こうとする者はいない。
この建物の中には、それなりの人数がいるというのに、誰も言葉を紡ごうとしないのは正直不気味なものだ。自然、リッカとシンクも空気を読んで話すことはせず、息が詰まる思いを感じるだけだった。
「……」
リッカは声もなく溜め息を漏らすと、静かに立ち上がった。そして、そのまま外へと通じる扉の方へと歩き出す。リッカが建物の外へ出ようとする姿を見て、シンクも後に続いた。
二人が外へ出ようとする様子を見ても、ダイバースの住人達は声一つ掛けようとはせず、ただ風に吹かれる枯葉を見るかのように何も関心を向けることなく眺めていた。
「ぷはーっ」
扉を出て、いの一番にシンクは肩を落としながら息を吐いた。リッカも、シンクの気持ちが痛いほど分かるから、大きく溜め息を吐く。
「あー、なんか何もしてねぇのに疲れたなぁ」
「……そうね」
リッカは体を伸ばしながら答えた。
人がいるのに誰も言葉を交わさない環境、雷雨によるどんよりとした空気、そして今も一人でこの町の異変に対応しているクルムへの心配、様々なことが重なった結果、精神的に疲労感を与えていたのだ。
「クルム、大丈夫かな。俺達もやっぱり手助けに行った方がいいんじゃねーか?」
「この状況で私達が行っても、邪魔になるだけよ。私達は万が一の時に備えて、ダイバースの人達の傍にいることが、この状況で最善策なのよ」
「まぁ、クルムなら何とかなるだろうけどよ。それでも、俺もクルムのために何かしてーんだ」
「その気持ちだけで、クルムは十分だと思うけど」
「……俺が嫌なんだよ」
最後に言ったシンクの言葉が小さくて、リッカは聞き取ることが出来なかった。だから、もう一度聞き直そうとすると、
「……クルムさんなら、何とかなる……ですか」
予想もしていなかった方角から声が聞こえ、リッカもシンクも振り返る。
すると、そこに立っていたのは、気配を消しながら雨空を見上げているオッドだった。オッドは力なく壁に背中を預けている。
「オ、オッドさん……。いつからそこに?」
「二人が出て来るちょっと前から、ここで外の空気を吸っていたんです」
オッドは生気のない薄っすらとした笑みを浮かべる。
言われてみれば、建物を出る直前にオッドの姿をリッカは見かけていなかった。そのことに気付かなかったリッカは若干の申し訳のなさを感じて、何を言うべきか逡巡してしまう。
そんなリッカを気遣ってか、オッドの口がゆっくりと動いた。
「……彼、罪人のクルム・アーレントですよね」
しかし、オッドが口にした言葉は、リッカとシンクに確かな衝撃を与えた。
リッカは動揺を隠し切れずに震える声で、
「知っていたの……?」
「はい。一応同じグリーネ大国であれだけの騒ぎを起こせば、嫌でも有名になると思いますよ」
ヴェルルで起こしたクルムの事件は、グリーネ大国の中で大ごとになっている。当然だ。ダオレイス中の人が縋り求めているシエル教団の巡回を邪魔したのだから、非難の声を浴びないわけがない。
この町外れの小さな場所でも、噂が立つのは仕方がないことだ。
「なら、なんで……」
淡々と言葉を紡ぐオッドに対し、リッカの声は震えている。
「普通、罪人が町に入って来たら、警戒なり何なりするはずでしょ? でも、あなたは警戒するどころか、クルムが町の異変を探求しに行くことを容易に認めた。もしかしたら、利用されるかもしれないって思わなかったの?」
もちろん、クルムがそんなことをすることがないというのはリッカは分かっている。
クルムは自分が傷ついてでも、人助けを行なおうとするほどのお人好しだ。その頭には、利益や見返りなどは計算されていない。
しかし、あくまでも、それはクルムのことを知っているリッカとシンクだから、そう言えることなのだ。ただの情報でしかクルムのことを知らない人間にとっては、クルム・アーレントという人間は脅威にしか感じないはずだ。
オッドはふっと嘲笑を浮かべると、光が灯っていない目をリッカとシンクに向ける。
「私を含め、この町の人間はもう何も望んでいません。支配されようが解放されようが、罪人が来ようが役人が来ようが、生きようが死のうが、もうどうでもいいのです。その時の流れに従って、ただただあるがままに生きるだけですから」
ダイバースが抱える闇は、想像以上に深い。
このダイバースという町は、何度も何度も、悪人の手によって利用されて来た。そして、その度に人々は虐げられ、搾取された。誰にも町として認識されないダイバースでは、わざわざ助けてくれるような人間もいない。もう希望はないのだ。ならば、逆らうことも抗うこともせず、心を殺して生きていけばいい。
それが、ダイバースで生まれた人間の処世術だった。
「誰も運命には逆らえない。私達は生まれついたこの環境で最後まで生きていかなければいけないんです」
「……運命だからって何もしないわけ? このままだと、この町はいつか本当に壊滅してしまうわよ」
「先代からずっと同じ状況です。今更誰かが頑張ったところで、結局この町は死んでいるんです。諦めました。希望を抱いた分、裏切られた時の傷は深くなる」
「……」
リッカはダイバースの異常なまでの関心のなさに言葉を失い、拳をきゅっと握った。
きっとリッカが何を言ったところで、オッドやダイバースの人間が変わることはないだろう。
それは、外れ町を蔑ろにし、そこに居座る悪を野放しにして来た世界政府の責任だ。もしも世界政府が、廃れた町にも関心を向け、住民を良い方向に導き、悪を挫いていたのなら、状況は変わっているはずだ。少なくとも、この町に住む人間があそこまで悲観的になることはない。
確かに世界政府でも手を回すことが出来ないほど、ダイバースと似た町がダオレイス中に多く存在する。けれど、だからといって、廃れた町だからと見捨ててしまうのは、世界政府の怠慢だ。
つまり、まだ世界政府になってから日は浅いとはいえ、自身にも責任があるとリッカは考えていた。
知識では知っていても、実際に目の当たりにするまで、世界政府の管轄外の町の状況を本当の意味で把握していなかったからだ。
そんなリッカが、今オッドに何を言うことが出来るだろう。明確な正解は分からない。だけど、正解かどうか分からなくたって、リッカの中にはどうしても言いたいことがあった。
視線を真っ直ぐオッドに向ける。オッドは変わらず、どこを見ているか分からない空虚な瞳を浮かべていた。
「それでも、諦めて歩みを止めてしまったら一生変わらないままだと……私はそう思う」
一瞬、オッドと視線が重なった気がした。今までも確かに目を見て話してはいたが、本当の意味で、初めてオッドがリッカのことをしっかりと見つめた。
しかし、すぐにオッドはリッカから視線を逸らし、尚も雨が続く空を仰いだ。オッドは何か考えているのか、言葉を返すことはなかった。
これ以上、何の言葉も出せなくなったリッカは、小さく溜め息を吐くと、同じく空を見上げた。
「……俺も」
雨音にかき消されるかのような、小さな声が下から聞こえた。リッカは視線を落とし、シンクのことを見た。シンクは真っ直ぐな瞳で自分の手の平を見つめていた。
そして、その手をきゅっと握りしめると、
「俺も、記憶を失ってカペルって奴にずっと利用されてたけど、諦めなかったらクルムに救ってもらえたぞ」
子供さながらの屈託のない笑みを浮かべながら言った。
実体験に基づいた嘘偽りのない言葉。ダイバースと似た環境で生きて来たシンクだからこそ、言える言葉だ。
オッドの体がピクリと震えたが、
「……運が良かっただけですよ」
空を仰いだまま、嘲るように口角を上げた。
けれど、リッカはシンクの言葉を聞いた瞬間のオッドの表情を見逃さなかった。
「やっぱり、あなたは――」
「なぁ、誰かこっちに向かって来てないか?」
リッカの言葉を遮って、いち早く状況の変化に気付いたシンクが口を挟む。
「クルムさんでしょうか?」
シンクの言葉に、オッドはすぐにクルムの名前を出す。
雨の中に紛れてまだ人影しか分からないが、あの影の形はクルムではない。
「……ううん、違う。あれは……」
だんだんと近付き、その人物の顔が確認出来るようになる。リッカとシンクには、見覚えのない人物だった。近付く人物の恰好は、見るも無残にボロボロだ。
「あの服は、ペシャルの一員ですね」
被害者であるオッドなら、服装を見るだけで彼がペシャルの残党だということが分かって当然だ。といっても、ペシャルの象徴である獣の皮が使われているジャケットも一部汚れたり破けたりしているため、傍目からすると薄汚れた毛皮を羽織っていることしか分からない。
問題は、あそこまで見るも無残な姿で、何故一人彷徨っているのかということだ。
先ほど建物が瓦解した時に、命からがら町まで逃げて来たのだろうか。それとも、何か他に目的でもあるのか。
詳しい事情は分からない。だから、とにかく彼を介抱しつつ話を聞くことが、今取れる最善の行動だ。
「二人はここで待ってて。……ちょっと様子を見て来る」
リッカはそう判断し、雨を凌いでいた屋根から一歩踏み出そうとした。
「リッカさん、行かない方がいいと思いますよ。ペシャルの様子もおかしいですから、あまり関わらない方が……」
けれど、リッカの行動をオッドは言葉で制した。
ペシャルによって虐げられて来たダイバースに住むオッドだからこそ、彼らの恐ろしさを知っているのだろう。
確かにリッカもオッドの言葉を理解することが出来る。数多の罪を犯して来たペシャルが追い詰められている状況にいるのだ。何をしでかすかは分からない。ボロボロの体でも暴れ回る可能性だって否定することは出来ない。
しかし、あれこれ考えている内に状況は変わっていく。
リッカ達の方に向かって歩いていたペシャルの残党が、力尽きたように倒れたのだ。その姿を見て、リッカの頭の中で余計な思考が消えた。
「いえ、そういう訳にはいかないわ。怪我をしている人を指を咥えて放っておくことなんて、私には出来ない。……それに、ペシャルの一員なら、話が出来る状態まで休ませて、ちゃんと罪を償ってもらわないと」
そうオッドに言い、リッカが倒れ込むペシャルの一員の元へ向かおうとした。しかし、今度は物理的にリッカの足が止められてしまった。
振り返ると、シンクがリッカの服を掴んでいた。その表情は、いつもの喜々としたものではなく、物憂げな表情となっていた。
「リッカ。何か嫌な予感がする……」
「あんたがしおらしいなんて珍しいわね。私一人でも何とかなるから大丈夫よ」
リッカは優しい声で言いながら、シンクの頭を撫でた。その感覚に、シンクは顔を真っ赤にし、握っていたリッカの服をパッと離す。
「ばっ、子供扱いするんじゃねー!」
「あはは、シンクはまだ子供でしょ。それじゃ、行ってくるから」
そして、今度こそリッカは降りしきる雨の中、ペシャルの残党が倒れている場所へと駆け足で向かった。その背中を見つめながら、シンクの胸中に嫌な感覚が過った。けれど、その感覚は言葉にすることが出来なくて、自分の無力さを痛感するように唇をきゅっと噛み締めた。
そんなシンクの視線を浴びていることを知らず、リッカは倒れているペシャルの一員の傍へと着いた。
彼は横たわっているが、背中はゆっくりと上下していることから、まだ息をしていることは分かった。
リッカは少しでも声が届くようにしゃがみ込み、
「大丈夫ですか?」
「……」
しかし、言葉は返って来なかった。リッカはペシャルの残党の顔を覗き込む。瞳は開いているが、その瞳は焦点が定まっておらず虚ろとしていた。どこか遠くを見つめており、現実には関心を向けてはいないかのようだ。ひとまず気絶はしておらず、意識もあるようだ。
だから、リッカは彼が反応するまで、再び声を掛ける。
「動けますか? もし無理そうだったら、私の肩に……」
「……ェ」
「え?」
ペシャルの一員が何かを呟いたが、その言葉をリッカは聞き取ることが出来なかった。
けれど、微かに耳に出来た言葉尻には、あからさまに恨みの感情が混ざっていた。それでも、リッカはもう一度彼が口を開くことを願って、彼の体に向けて手を伸ばした。
「許さねェ許さねェ許さねェ! この町に来なければ、あの二人に会うこともなかった! ペシャルが潰れることも、俺がこんなみすぼらしい思いをすることもなかった!」
しかし、その瞬間、彼はいきなり立ち上がり声を荒げた。リッカは反射的に伸ばしていた手を引く。
立ち上がったペシャルの残党が放った言葉、その全ては荒唐無稽、責任転嫁もいいところなものだった。ペシャルが今まで行なってきた悪事はすべて棚に上げて、ひたすらに自分が受けた不運だけを嘆いている。自分達こそが世界の中心だとでも言いたげな口ぶりだ。
だからこそ、彼の瞳は、先ほどまでの虚ろとしたものとは違い、あからさまな怒りに満ち溢れていた。そして、まるで倒れていたのが嘘だったかのように、彼の立ち姿は鬼気迫るものがあった。
遠くから見守っていたシンクとオッドでさえも反射的に体を震わせたのだから、隣にいたリッカはどれほどだろうか。
脈絡もない突然の変貌ぶりに、動揺を隠すことが出来ないリッカは、
「……な、何を言っているの?」
「何もなかった俺に、ピンデという名前とペシャルという居場所を与えたのはミハエル様だけだった! それを! それを! 俺の居場所が奪われたのは全部この町のせいだ! どけェ!」
「……ッ!?」
声を掛けるリッカを射殺さんばかりに睨み付けると、ピンデと名乗ったペシャルの残党はそのまま羽虫を振り払うように腕を振るった。
その傷だらけで弱っているはずの体のどこにそんな力が隠されていたのか、リッカは勢いよく雨でぬかるんだ土に叩きつけられる。受け身もろくに取ることが出来なかったが、土が軟らかくなっていたから幸運にも大したダメージはなかった。
リッカは体を起こし、豹変したピンデに目を向ける。
すると、ピンデは両足で力強く踏ん張りながら、両手を握り、自身の内なる力を捻りだそうとしているところだった。その証拠に、ピンデの周りを黒い光が包んでいき、また地面にも亀裂が入っていく。
「この怒りをテメェらにぶつけないと気が治まらねェ! こんな寂れた町一つぶっ飛ばしたところでたかが知れているがなァ!」
その蓄積したエネルギーを町に向けて放出しようとしているのか、ピンデは右手を真っ直ぐにかざした。
その動きを見て、リッカは目の前の人物に悪魔が憑いているということを今までの経験から直感的に悟った。
悪魔に憑かれたピンデが成そうとしていることを野放しにして眺めていては、この町はもう二度と再起不能な状態に貶められてしまう。
この場において、ピンデの暴動を止めることが出来るのは、リッカしかいない。
「……っ、そんなことはさせない!」
リッカは自分の腰にある鞭を、敵に向かって打つ。しかし、無情にも鞭はピンデに届くことなく、見えない壁に弾かれてしまう。
たった一振りで、リッカは自分が敵う相手ではないと見切ってしまった。唯一の武器である鞭が届かないのなら、この場においてリッカに出来ることは一つしかない。
「みんな、逃げて!」
リッカは、背後にいるシンクとオッドに向かって声を張る。
「……逃げろってどこに!?」
「――ッ!」
シンクの言う通りだった。建物も少なく、視界が開けているこのダイバースでは、逃げ隠れる場所なんてどこにもない。
それにピンデもエネルギーを溜め終えたのか、右手はどす黒い光に包まれていた。
逃げる時間も、防ぐ方法もない。万事休すだ。
ピンデは怒り狂った瞳で目の前を見通すと、
「ハハハッ! 全部ぶっ飛びやがれェ! 魔技・ウェル――」
「はぁい、そこまでだよぉ」
場違いな緩い声が、ピンデの技名を遮って聞こえた。
「お、お前は……っ!?」
突然の呑気な闖入者に動揺したのか、右手に集約された黒い光が僅かにぶれる。
その呑気な声に、リッカは目を見張ると、今にも攻撃を仕掛けようとしていたピンデの間に、長身な男――ペイリスが立っていた。




