1-10 誰にでも出来ないこと
太陽の日差しを受けて目を覚ましたクルムは、すぐさま行動を始めた。
まずクルムが朝起きてしたことといえば、泊まらせてもらった寝室の掃除だ。クルムは真心を込めて、昨日よりも綺麗な状態に戻した。床、窓、天井、更には押入れの中さえも隅々まで掃除をしたのだ。
そして、寝室の掃除が終わると、クルムの掃除する範囲は広がっていく。寝室だけでは飽き足らず、オリエンス支部の至る場所(もちろん、踏み入ることの出来ない場所を除く)を掃除し始めたのだ。
そこまでやらなくてもいいのではないか、とクルムの行動を見て思う人もいるかもしれない。しかし、クルム・アーレントにとって、受けた一宿の恩を何も返さず、何食わぬ顔で帰るというのは許せないことだった。
そのような理由がある一方で、クルム自身が掃除好きだからという理由もある。汚れてしまったことが、元通りの綺麗な状態に戻るということが好きなのだ。
オリエンス支部中の掃除が終わったクルムは、まだそんなに時間が経っていないことを確認すると、外に出て庭の掃除に取り掛かった。近くの物置に置いてあった箒を借りて、クルムは地面に落ちた汚れを掃いていた。
その時、クルムの視界に見知った人影が見えた。彼はこっそりとクルムの様子を探っているようだった。
クルムは声を掛けようとしたが、複数の他の視線が下の方から向けられていることに気付き、中断する。
目線を落としてみると、そこには居住区に住む子供たちがいた。
「おはようございます。今日もいい朝ですね」
と、クルムは迷うことなく、子供たちと視線が交じり合う位置まで膝を屈めて挨拶をした。すると、子供たちは無邪気な笑顔を見せながら、クルムに触れ合えるほどの距離まで近づいて来た。
この子供たちと少し話をしてみると、どうやら朝ごはんの準備が出来るまで外に出て時間を潰しているようだった。
子供たちと話す間、クルムは先ほど人影があった方向を横目で見てみたが、そこにはもう誰もいなかった。
注意を子供たちから逸らしていると、一人の男の子が投げたボールが、ポコッと可愛い音を立てて、クルムの背中に当たった。ボールを当てた男の子は鼻水を垂らしながら、一緒に遊んで欲しそうな顔で笑っている。
クルムは笑顔を返すと、ボールを手に持って、高く蹴り上げた。
子供たちは空高く上がったボールを見て、一瞬に呆気に取られていたが、すぐに誰が落ちてくるボールを掴むことが出来るか競争を始めた。
鼻水を垂らした男の子がボールを掴み、クルムを探そうと周りを見回すと、先ほどまでなかったところに看板が立っていた。つぎはぎだらけのその看板には、何でも屋という文字が書かれていた。
急なことに呆気に取られていた子供たちに対して、クルムはボールを看板に投げて当てるように指示をした。クルムの言わんとすることを理解した子供たちは、一心にその通りに従った。
クルムが子供たちと過ごした時間は、ただ笑い声だけが響き渡っていた。そこには、年齢も性別も性格も、何もかも存在しなかった。
そのように遊んでいたら、いつの間にか子供たちの母親が来ていたので、子供たちと別れたのだった。
クルムがしたことは、ただそれだけのことだ。
それらの行動はクルムにとっては当たり前のことで、どんな場所に行ったとしても、変わることのない心で生きている。
だから、クルムにはリッカの期待の眼差しに応えられる答えは持ち合わせていないのだ。
「……」
リッカはクルムが淡々と語る一連の出来事に、驚きを隠せなかった。
あたかも当たり前のように語っていたことは、確かにクルムにとっては当然のことかもしれないけれど、普通の人からしたらクルムのその行動はあまりにも特別なことだ。
リッカより寝るのは遅く、それでいてリッカよりも早く起き、数人いても手が足りないほど広いオリエンス支部をすべて掃除し、それだけでは飽き足らずに庭も掃除し、その途中で子供たちと友好を交える。
しかも、クルムはそのすべてのことを義務的に、強制的にやらされたわけでもなく、自ら、自発的に、好きでやっていたのだ。
少なくともリッカには出来ないことだった。実際、三日間この拠点で過ごしたにも関わらず出来ていないのだから。
クルムの額からは一仕事やり遂げた証拠でもある汗が垂れており、爽やかな笑顔を浮かべていた。
リッカはなぜか負けた気がして、思わずクルムから視線を逸らした。そして、驚きを隠せなかったリッカが発した一言は「あなた、超人なの?」だった。
「超人、ですか……」
予想していなかったリッカの言葉を聞いて、クルムは困惑した顔を見せながら、苦笑いを浮かべていた。
「いえ、僕なんてまだまだ足りないところだらけですよ。僕が願うところに辿り着くには時間がかかりそうです」
「クルムの願い……?」
リッカは問いかけた。クルムがどこを目指しているのか、気になったからだ。
「はい。僕の夢は、世界中の人々が幸せになることです」
クルムは真っ直ぐに――その先の未来を見据えるかのように前を向きながら、隠すこともせずに言った。
クルムは更に言葉を続ける。
「そのためなら、僕自身がどうなっても構いません。どんな道でも歩み続けると覚悟してるんです」
憂いめいた表情が垣間見えたが、最後には決意と自信に満ち溢れる笑顔を見せた。
クルムの言葉や顔から、幾度の困難も乗り越えてきたことが滲み出ており、そして、これからもきっと乗り越えていくのだろう。
その表情は、あまりにも眩しく見えた。
「ふーん……。それで? クルムはこれからどうするの?」
気付いたら、リッカは話題の流れを変えていた。
だが、そのことが気になったのも事実だ。
先ほど洗面所で身支度を終えたリッカは、そのまますぐに朝食の準備を始めていた。そのようにしたのは、クルムがまだオリエンス支部に留まるという、どこか確信めいたものがリッカの中にあったからだ。
だからこそ、この話題を軽く思いついたまま、口に出すことが出来た。
しかし、クルムの答えは――
「そろそろ僕はここを出ます」
リッカの予想とは違っていた。
クルムは昨日の夜に直したつぎはぎだらけの看板を手に取ると、優しく、でもどこか儚くもある笑顔を見せた。
リッカは一瞬で頭が真っ白になっていくのが分かった。
「え、もう……?」
何も考えないで出した言葉は、クルムを止めようとするものだった。けれど、すぐに昨夜のことが思い出され、自分の言葉が間違っていることにリッカは気付く。
「……って、私が早く出るように言ったんだよね」
訂正を掛けたが、どこかその口調には自嘲が交えていた。
「いや、リッカさんのせいではありません。一般人の僕がいても、邪魔でしょうし。昨晩、僕が考えた結果です」
クルムは手を振りながら、リッカの言葉を否定した。
「なら良かったけど……」
クルムの言葉に、リッカは少しだけホッとする。思わず安堵する言葉が、リッカの口から漏れた。
そして、余裕が生まれたことにより、リッカはクルムの言葉に昨日とは違うものを感じることが出来た。
昨日と違い、物わかりのいいクルム。それが示すのは――
「もしかして、私の目のつかないところで、この町の問題を解決しようとしていないよね?」
リッカは考え付いた一つの可能性を、口に出す。
言葉にしてみると、クルムの行動がリッカの腑に落ちた。
何度注意してもオリエンスを出ようとせず、この町の問題を解決すると言い出したクルムが、日を跨いただけで簡単に考えが変わるとは思えなかった。だが、身動きが取りやすいように行動したいというのなら、一人になろうとするのも頷ける。
リッカはクルムを見つめた。すると、まるで図星を突かれたように、クルムは硬直している最中だった。しかし、そうしているのも束の間で、すぐにクルムは笑った。
「あはは、まさか。この件は、世界政府であるリッカさんに任せた方がいいと思っただけです」
クルムはそう言いながら、空を見つめる。
見るも清々しい青空に、一つの雲がふわふわと動いていた。
空を見つめるクルムの横顔は、雲が形を変えるように、決意が込められた表情に変わっていく。
「僕は何でも屋です。依頼があれば動けますけど、それがなければ出過ぎた真似は出来ません。――だから、僕はここを発つことにしたんです。僕の助けを必要としている場所を求めて」
「……クルム」
リッカはクルムの言動を見て、何か一言言わなければいけないような気がした。そうしなければ、今生の別れになってしまう予感がしたのだ。
「それに仲間も来るんでしょう? なら、なおさら僕が出張る必要はありません。」
しかし、リッカが一言言うよりも早く、クルムは次の言葉を紡いだ。クルムはリッカを信頼しきったように、笑顔を見せる。
でも、その笑顔がリッカにとっては、更に不安を募らせるものになった。リッカは自らも気付かない内に、胸元をギュッと掴んでいた。
「健闘を祈っています。短い間でしたが、お世話になりました」
クルムは頭を下げた後、手を振ってリッカに別れを告げた。クルムはリッカに背を向け、前へ歩き出そうとする。
「クルム!」
この場を離れようとするクルムの背中を止めるため、思わずリッカの口から声が出た。
クルムは足を止めて、リッカの方に振り返る。
しかし、止めたはいいものの、クルムと目が合ったリッカは、何を話せばいいのか分からなかった。
辺りを見渡しながら考えを巡らせるリッカを、クルムは何も言わず見つめていた。
時が刻々と流れていく。
そして、話すべきことが固まったのか、リッカの瞳はまっすぐにクルムを捉える。
「……私、絶対にカペルの悪事を止めるから! だから……また、会えるよね?」
リッカは真っ直ぐにクルムを見つめて、そう言った。そのように口約束でも交わさなければ、リッカは永遠に後悔する、と直感的に思ってのことだった。
「――って、あれ?」
しかし、思いを言葉に出してから、リッカはその言葉の一つの矛盾に思い当ってしまった。
「私がオリエンスの問題を解決すると、悩む人はいなくなって、クルムはこの町に来る必要がなくなる? そしたら、会うことは出来ないよね……? もしかして、無意味なことを言ったんじゃ……」
リッカは失言に気付き、頭の中がこんがらがっていくのを感じた。顔を真っ赤にして、考えと同じ速さで頭に思い浮かぶものを口に出す。
その様子を見て、クルムは小さく笑った。
「な、なにがおかしいの!」
リッカはクルムが笑っているのを見て、噛みつくように反応を見せた。言うのと同時に、リッカは昨日も似たようなことがあったなと、ふと思った。
「悩む人が多いより、悩みが解決された人が多い方がいいですよ。僕が必要とされない方が本当はいいんです」
クルムは穏やかな、温かい笑みを見せながら言った。
そのように語るクルムの姿が、リッカの瞳には、まるで全てを受け入れてくれる伝説の英雄の姿と重なった。
リッカはその姿に気を奪われ、次の言葉を継げなかった。
「また会いましょう」
そう短く口を動かすと、クルムは再び手を振って歩き出した。クルムは見えなくなるまで、手を振り続けていた。
リッカもクルムと同じように手を振り返す。
だんだんとクルムとリッカの距離は離れ、そして、クルムは完全に町に溶け込んで見えなくなってしまった。
すると、リッカはすっと息を吸い、
「クルム・アーレント――か。また会えるといいな」
リッカは彼の名を忘れないように、その名前を小さく呟いた。
その時、一陣の風が吹いた。リッカの声は風に呑まれ、町の方へと運ばれていく。
この場に一人いるリッカはその風を背に受けながら、風が吹きつける方向を静かに見つめた。
オリエンスの名物である風車が、カラカラと寂しく音を立てていた。




