そのご
――二〇一三年 七月二日――
「引っ越す?」
「……はい。来週にはもう、母方の実家に行く事になっているんです」
「そんな急に……」
思わず慧が口を挟むが、もうこの町にはいられないと咲楽は哀しそうに笑った。彼女の視線は慧の足に注がれている。
自分でも実感は湧かないのだが、この両足はもうほとんど動かないらしい。ストーカーに襲われた時に大事な筋肉や神経を斬り裂かれてしまったらしく、後遺症が残ってしまったのだ。リハビリを続ければまだ希望はあるそうだが、何も頼らず二つの足でしっかり立って歩けるようになるまで果たしてどれほどの時間を要するのだろう。
「奈那ちゃんも死んでしまいましたし、佐久良君にも迷惑をかけました。……これから私はこの町で、どんな顔をして生きていけばいいんですか?」
「ッ……」
何も言えずに慧は視線をそらす。狭い町だ、噂はあっという間に広がる。被害者の立場の咲楽も、きっと生きづらい事になるだろう。
人はゴシップに飢えている。憐れむような目をして近づいて、面白半分に事件の詳細を事細かに尋ねるだろう。そんな連中の好奇の視線に咲楽が晒されるのは嫌だった。
だが、そうなると自分はもう彼女に会えないのだろうか。それを考えただけで、今までに味わった事がないほどの喪失感と虚無感に押し潰されそうになる。慧が縋るような目を咲楽に送ると、咲楽は肩を震わせた。
「……引っ越す前に、君に会いたかった。話がしたかったんです」
涙を拭い、咲楽は微笑む。彼女は立ち上がり、窓の外を見上げた。
「屋上に行きませんか? こんなにいい天気ですし、きっと気持ちがいいですよ」
†
「私の家、ちょっと複雑で。祖母の家に行く事が決まったのは急だったけど、話自体は前からあったんです。父はいませんし、母にとって私はあまり望まれていない子供だったので」
慧を乗せた車椅子を押しながら、咲楽はぽつぽつと語りだす。その声音は平坦で、感情を読み取る事は難しかった。
「祖母の家はここよりもっと田舎なんですよ。……引っ越したら、もう君には会えないかもしれません」
「……」
頭上から降ってくる声に対し、慧は何の反応も示さない。彼の頬には冷や汗が伝っていた。
「……なあ、信田」
からから。かつかつ。
「俺達、どこに向かってるんだ?」
車椅子の車輪が回る音と、咲楽の足音だけが反響する。
「屋上って、こっちじゃない……よな」
「……」
今度は咲楽が沈黙する番だった。彼女が足を止めると、それに同調して車椅子も止まる。廊下は静寂に包まれた。
「実はですね、今ここに私はいないんですよ」
「はぁ?」
「ナースステーションの看護師さんには見られちゃったかもしれませんし、監視カメラがあったなら写りこんでるかもしれないですけど……まあ、そんな目撃情報もすぐに握り潰されるでしょう」
だから、結果的に私がここにいる事は誰も知らない。そう言って、再び咲楽は歩き出す。その足取りはゆっくりとしたものだったが、屋上へ向かうエレベーターからは確実に離れていた。
「病院って、わりと警備が雑ですね。車椅子、あっさり持ち出せちゃいましたよ」
「……ぇ」
この車椅子は、咲楽が用意したものだ。屋上に行こうという彼女の提案を慧が飲むと、咲楽は嬉しそうに笑いながら部屋の外に出た。車椅子を押した咲楽が病室に戻ってきて、慧はそれに乗ったのだ。当然この車椅子は、咲楽がナースステーションから借りてきたものだと思っていた。
「ねえ、佐久良君も知ってるでしょ? 最近町を騒がせてる、連続通り魔殺人事件」
巷で話題の通り魔殺人には模倣犯が多発していた。
「あれ、私がやったんですよ。何件か模倣犯が混じっちゃったせいで、なんだかよくわからない事になってますけど」
真犯人と模倣犯の違いがはっきりとわかるほど、犯行は特徴的だった。
「イライラしたり退屈だったりすると、つい衝動的に殺りたくなっちゃうんですよ。もちろん私が人を殺すのは、それだけが理由というわけではないんですが。……生まれつきなんですかね? 私、人を殺すのが大好きなんです。快楽殺人鬼ってやつですよ」
犯行時間や曜日から、犯人は学生ではないかと疑われていた。
「それにほら、よく言いますよね。好きな子ほどいじめたくなるって。……私、今とても殺したい人がいるんです」
辿り着いたのは階段だった。しかし車椅子では階段を昇降するだけでも一苦労だ。それにエレベーターがあるのだから、階段など使う必要もないだろう。
では、なぜ自分はここに連れてこられたのか。導き出される最悪の答えに背筋を震わせ、慧はごくりと唾を飲んだ。
「ま、さか」
屋上に行くために階段を使うのなら、使用するのはもちろん上に行くための階段だ。だが、自分達の前には下の階に行くための階段しかない。
「ッ――!」
投げ出される。それは予想していた、けれども嘘であってほしいと願った現実だ。
動かない足と縫合を終えたばかりの傷を抱えた慧が、それに反応できるわけがない。慧はなすすべもなく階段を転がり落ちていった。
段差にごりごりとぶつかり、踊り場に叩きつけられる。その衝撃で傷口が開いた。踊り場は一瞬にして赤く汚れていく。
「なん、で……」
額から流れてきた血が目に入った。視界が赤くにじむ。それでも慧は上を見上げ、ぼやける瞳で咲楽を捉えた。
「だって私――佐久良君の事が好きですから」
そう言って笑った咲楽の手は、血で赤く染まっていた。そんな錯覚に囚われながら、慧は彼女に向けて震える手を伸ばす。
しかしその手が咲楽に届く事はない。咲楽は踊り場に倒れる慧を見下ろし、満足そうに笑っていた。
視界は明滅を繰り返す。それと同時に力が抜けていった。伸ばしていたはずの腕も力なく床に崩れる。
やがて慧は動かなくなった。階段の上からそれを確認した咲楽はぞくりと恍惚に身を震わせ、空の車椅子を押して来た道を引き返そうとする。
からから。かつかつ。
車椅子の車輪が回る音と咲楽の足音が、静まり返った廊下に反響していた――――