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そのよん

――二〇一三年 六月十五日――



 それからしばらく、二人はショッピングモールをあてもなく歩いていた。こんな田舎町では他に行くところがないのだ。

 慧と咲楽はさまざまな店舗を冷やかしながら歩く。誰が見ても今の状況はデートだと、気づいていながら互いに何も言わない。だが、それでいい気がした。


 異変が訪れたのは、一階のホールに足を運んだときだった。ホールには観葉植物や数基のベンチが置かれている。ベンチには家族連れや恋人達が座っていた。自分達もそろそろ休憩でもしようかと思った慧がベンチを指さしたその瞬間――――獣の咆哮が響いた。


 しかしいくら田舎とはいえここは町中で、周囲に山などない。なによりここは店の中だ。獣などいるはずがなかった。

 それなのに。包丁を握った熊が。滴る涎を拭う事もなく。喚き散らしながら走ってくる。目は血走っていた。その目は慧を見つめている。考える前に身体が動いた。咲楽を突き飛ばす。安全な場所へ、刃の届かない場所まで行けるように。


「死ねよォォォォォ!」

「佐久良君!」


 獣の雄たけびと咲楽の悲鳴が不協和音を奏でる。けれど気にしている暇はない。灼けつくような痛みが腹部を襲った。こらえきれずに倒れ込む。這いずって、逃げようと。ぬちゃ。ぶちゅ。けれど足首が痛い。腿が痛い。刺された。逃げられない。動けない。

 のしかかられた。思わず胸と頭を腕で庇う。ぶしゃ。粘りけのある音。傷口が熱をもって疼く。足が、足が。血まみれに。音のない痛み。斬りつけられ、刺し貫かれ、抉られる。繰り返し。血が滴る。もう痛みは感じない。


「やめてくださいッ!」


 咲楽は無謀にも熊に立ち向かう。巨漢を突き飛ばそうと、あるいは引っ張ろうとして、注意を自分のほうに向けさせようとしている。

 せっかく庇ったのに、なぜ彼女は自ら死地に向かうのだろう。問い質したいのに、口から吐き出されるのは荒い呼吸とかすれたうめき声だけ。逃げろ、その一言すらも出てこない。

 熊の手から離れた包丁が、からんころんと床を転がった。熊を慧から引きはがし、咲楽は慧を庇うように立つ。熊ともみあった時に斬りつけられた部分を押さえ、咲楽は熊を睨みつけた。腕を斬られたようだが、傷は浅いらしい。


「なんで、なんで邪魔するんだよぉ……」 


 熊は泣いていた。熊は血に濡れた手で叫んだ。


「君の事が好きだから! だからその男を殺したんだ! それなのになんで! 君は僕の邪魔をする!?」


 勝手に殺すな。慧は起き上がろうと必死でもがく。血に染まったその手が触れたのは、熊が手放した包丁だった。

 慧はゆっくりと包丁の柄を握る。これが再び熊の手に渡る事があってはいけない。刃も血で赤く汚れていた。慧と、それから咲楽の血だ。

 包丁を握ったまま、慧は咲楽を見上げた。立ち上がろうとする意思はあるのだが、その力が湧いてこない。咲楽は怯えたような目をして彼を見下ろし、その傍にしゃがみこんだ。


「なんで……なんで、こんな事をしたんですか……!?」


 どうして私なんか庇ったの。私の事なんか放っておいて、逃げてくれればよかったのに。

 どうしてそこに立っている。俺の事なんか放っておいて、逃げてくれればよかったのに。

 二人の視線が交差する。咲楽は泣いて、慧は笑った。


「……の……事が……好き、だから……?」


 息も絶え絶えになりながら告げる。胸がずきずきと痛んだ。しかしこれは、刺された痛みとはまた違う痛みだ。


「おい、人が刺されたぞ!」

「きゅ、救急車!」


 騒めく人の声がどこか遠く聞こえた。野次馬が集い、ショッピングモールに常駐していた警備員達もやってくる。警備員が熊を捕まえた。


「離せ! 離せよォ!」


 熊が暴れる。しかしその咆哮を最後まで聞く事なく、慧は意識を手放した。



† Θ † Θ † Θ † Θ † Θ †



† さつじんき の どくはく そのさん†


 なんで。どうして。ああなった?

 ふざけんじゃねえ。なんだよあれ。ありえねぇだろ、どう考えたって!

 何なんだよ。何だって言うんだよ。ああクソ、計画が狂いやがった!


「これからはおばあちゃんの家で暮らしなさい。あんたの面倒はもう見られないわ」


 俺を産んだ女が俺を見る。女の目は冷たかった。うるせえんだよクソババア。


「返事は?」

「……はい」


 こいつに構ってる暇なんてねえのに! 誰かを殺しに外に行きたい。このイライラをどうにかするには誰かを殺すしかない。誰でもいいから殺したい。でも、こいつを殺すとさすがにまずい。

 保護者が必要な今はだめだ。事件は揉み消せても、人の疑いは晴れない。今の保護者(こいつ)が死んだら次の保護者(こいつのははおや)に警戒される。


「……本当に嫌な子。その目、父親にそっくり」


 黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! 

 父親なんて俺は知らない! お前に面倒見てもらった覚えもねえ! 母親ヅラしてんじゃねぇよクソババア!


「あんたの友達、亡くなったんでしょう? 別の子は意識不明の重体だって……」


 ドコマデヒトヲフコウニスレバキガスムノ?

 アンタミタイナコ、ウマナキャヨカッタ。


 そんな声が聞こえた気がした。拳をぎゅっと握って耐える。今ここでキレたら何もかもが台無しだ。


「――でない」 

「はあ?」

「……産んでなんて頼んでない。ついでに言えば、貴方を母親だと思った事もない」


 ぎゃは。言ってやった。言ってやった!


「なッ――!」


 俺を産んだ女が何かを喚く。豚の鳴き声なんて聞きたくもねえ。立ち上がって階段を駆け上って部屋をバタンと閉じる。ああ、すっきりした!


 ――――俺に残された時間はあと少し。早くあいつを殺しに行かねぇと。


† Θ † Θ † Θ † Θ † Θ †



――二〇一三年 七月二日――



『警察はこの腐乱死体を行方不明中の大牟田奈那さんであると――』


 病室のテレビは今日も飽きずに連続通り魔殺人事件についての報道していた。どうやら新たな被害者の遺体が発見されたらしい。犯行の手口から、最近多発していた模倣犯ではなく真犯人の犯行だと語るアナウンサーから目をそらし、慧はテレビの電源を落とした。

 被害者として呼ばれたのは、中学校のクラスメイトであり咲楽との共通の知人だった。腐乱した状態で見つかった彼女は、全身をめった刺しにされて殺されたらしい。一歩間違えば自分もああなっていたのだと思うと震えが止まらなかった。

 搬送された病院でなんとか一命をとりとめたが、今でも目を閉じるとあの熊の怒りと憎しみに満ちた形相が頭をよぎる。あれは確か、咲楽につきまとっていたストーカーだった。嫉妬に狂ったストーカーの犯行として事件は処理され、一応の収束に向かったようだ。通り魔殺人の影響もあってか、あまり大事にはならなかったのが幸いだろうか。

 今日は咲楽が見舞いに来る事になっている。あの日以来一度も彼女に会っていない。気まずい空気はあるかもしれないが、慧は気にしなかった。咲楽を庇おうと思ったのは自分であり、その際に何が起ころうと自分の責任だ。彼女が気に病む必要などどこにもない。


 やがてノックの音がする。咲楽が来たのだ。花束を抱えた咲楽は顔を哀しげに歪ませ、深く頭を下げた。


「佐久良君、ごめんなさい……」

「信田は悪くない。悪いのはあのストーカー野郎だからな」

「でも……」


 咲楽はそっと目を伏せた。謝る咲楽とそれをなだめる慧のやり取りはしばらく続く。咲楽が落ち着くまでの時間は数分のようにも数時間のようにも感じられた。


 なんとかいつも通りに会話できるようになり、やがて咲楽は慧に告げる。それは雑談の延長のようでもあり、いたって重大な報告でもあった。


「――私、引っ越す事になったんです」

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