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そのに

――二〇一三年 四月二十四日――



「あ、えっと……それは、ほら!」


 少女――――信田咲楽はしどろもどろになりながら、慧の名を知っていた理由を説明する。いわく、『サクラ君』というのは彼女が勝手につけたあだ名だったらしい。たまたま慧の苗字が佐久良だったから、慧は咲楽が自分の事を知っていると勘違いしてしまったのだ。


「……ふぅん。まあいいや。俺は佐久良慧。お前は信田咲楽でいいんだよな?」

「は、はい! でもなんで私の名前、」

「学生証、見たから」


 慧は郵便受けを指さす。学生証を確認した事で、彼女と初めて会った時の状況が理解できていた。咲楽が子供の声に反応したのは、慧と同じく『桜』を自分の名前だと思ったからだろう。


「あっ……」


 咲楽は恥ずかしそうに俯く。何はともあれ目的は達成できたので、慧は踵を返した。日が高い時間に外に出る事は滅多にない。あまり遅い時間に行っても怪しまれると思っての外出だったが、体内時計の狂った自分にとってはあまりよろしくない選択だったようだ。あくびを噛み殺しながら、慧は帰宅の途につこうとする。


「さ、佐久良君! 今日は本当にありがとうございました!」


 背後から声がかかった。振り返ると、咲楽が真っ赤な顔をして叫んでいる。


「こっこのお礼は、いつか必ずしますからっ」

「……別に、大した事してないし」


 その様子がおかしくて、慧はくすりと笑う。外の世界のすべてがつまらないわけじゃないんだな、そんな事を考えながら。



――二〇一三年 五月一日――



(何でこんな事になってんだろ……)


 通りを歩きながら、慧は困ったように眉を寄せながらちびちびとブラックコーヒーを口に運んだ。その隣には、両手でオレンジジュースの缶を握った咲楽がいた。空は霞んでいるので月や星の明かりなどは届かないが、すぐ傍にある街灯のおかげで不自由はしていない。


「もうすぐゴールデンウィークですが、佐久良君は何か予定とかはあるんですか?」

「……いや、別に何も」

「そうなんですか? 実は私もなんです。いえ、予定がないわけではないんですが、ゴールデンウィークは毎日塾があるんですよ」

「……大変だな」


 人と会話をするのは苦手だ。相手が同年代の女子ならなおさらだ。普段からあまり人と喋らないせいで、たまにこうした事態に陥ると舌を噛んだりどもったり、声が掠れていたりとろくな事にならない。

 だが、何故か咲楽が相手だと気が楽になる。無愛想でそっけない言葉しか言えないが、それでもいつもと比べるとよく喋るほうだ。咲楽もそれは薄々わかってはいるのか、慧の態度については何も言わずに嬉しそうに顔を綻ばせるだけだ。よほど人づきあいがうまく、コミュニケーション能力が高いのだろう。

 隣に座る咲楽の顔を、慧はちらりと盗み見た。街灯に照らされた彼女の顔は、儚いながらも美しい。

 今日咲楽と会ったのは偶然だった。コンビニで夜食を買いに行こうと思ったら、塾帰りの咲楽とばったり遭遇したのだ。時間が時間という事もあって、何故か慧が咲楽を家まで送る事になってしまった。それでこうして、途中で通った自販機で買った飲み物を飲みながら、二人で仲良く夜道を歩いているというわけだ。


「あ、ここが私の……って、知ってますよね」


 信田家に辿り着き、咲楽は苦笑を浮かべる。生徒手帳を届けるために一度彼女の家に行っていたので、場所はしっかりと覚えていた。


「今日はありがとうございました、佐久良君。佐久良君がいてくれたおかげで、安心して帰れました。咲楽君がいてくれたおかげで、何もしてきませんでしたし」


 咲楽の物言いに引っかかるものを覚え、慧は困惑気味に眉を寄せた。警戒心を持つのは決して悪い事ではないし、いくら自分がひ弱なもやしとはいえ咲楽一人で帰るよりも安心感があるだろう。しかし咲楽の言葉は、そういった転ばぬ先の杖のような警戒心とはまた違う、明確なもののようであるように思えた。


「何もしてこなかった?」

「……少し前から、誰かに付きまとわれているような気がしているんです。一人でいると、よく視線を感じて……」


 怯えたような咲楽の言葉を聞き、慧はおずおずと周囲を見渡す。だが、どこにも人の姿はなかった。


「でも、あくまで思い込みの域を出ない事ですし、大丈夫だと思います。すいません、変な事言っちゃって」


 咲楽はそう言って笑うが、その明るい口調はわざとらしい。慧は周囲への警戒を怠らないまま口を開いた。


「親は? 結構遅い時間なんだし、親に迎えに来てもらわないのか?」


 何かあってからでは遅い。送迎なら自分のような肉の盾にしかなれない奴より、車で親にしてもらうほうが安全だろう。咲楽は気のせいだと笑っているが、それが気のせいではなかった場合を考えると今の彼女はひどく無防備に見えた。


「……仕事で忙しいので、あまり無理は言えないんです」


 そう言って、咲楽はひらひらと手を振る。人の家庭の事情に口を挟む勇気など慧にあるはずもなかった。彼女にそういわれてしまえば、他人である慧は口をつぐむしかない。


「今日は本当にありがとうございました。佐久良君も、気をつけて帰ってくださいね」

「……ああ。じゃあ、また」


 咲楽が家の中に入るのを見届けてから、慧も帰宅の途につく。その途中、幾度か背後から視線を感じたが、後ろには誰もいなかった。



――二〇一三年 五月二十五日――



 チャット仲間とやりとりをしたりネットゲームをやったり、慧のひきこもり生活は以前と変わらず続いていた。だが、一ヵ月前とは明らかに違う点が一つだけある。

 一睡もせずにパソコンと向かい合っていた慧の視線がふいにずれた。親に流されるままに持っていたスマートフォンが軽やかな音楽を奏で始めたからだ。スマートフォンに買い換えてからもずっと沈黙し続けていた文明の利器は、この一ヵ月で一気に騒がしくなっていた。

 スマートフォンに手を伸ばす。ディスプレイに表示されているのはトークアプリのポップアップで、送信者として記されているのは咲楽の名前だ。無意識のうちに慧の頬が緩む。

 すでに時間は早朝に近いが、どうやら咲楽は土曜日も早起きするようだ。ポップアップに表示された文面を見る限り、昨夜の礼を言うためにメッセージを送ってきたらしい。昨夜も塾帰りの咲楽を家まで送ったのだが、そのたびに彼女は翌日になると再び礼を言ってくる。相変わらずまめな少女だ。

 トークアプリなら送受信の際に時間を気にしなくていい。起きたら返事をしようと、慧はパソコンをシャットダウンしてからベッドにもぐりこんだ。



 慧の日常に信田咲楽という少女の存在が加わったのは、ほんのささいな偶然が積み重なった結果だった。互いに互いの存在を認識しだすと、自分達の生活圏内がかなり近かった事にも気づいた。サクラという同じ名前を持つ者同士で親近感が湧いた。ばったり出会う回数が増えていくにつれ、なりゆきで連絡先を交換する事になり、二人の距離はほんの少しずつだが確実に縮んでいったのだ。

 今外に出れば、咲楽に会えるかもしれない。そんな淡い希望のもと慧はよく外出するようになり、咲楽の友人が同じクラスにいる事を知ってからは学校に足を運ぶ回数も増えた。口下手で話題の引き出しの少ない自分が咲楽の興味を引くような話をするには、共通の友人が一人でもいたほうがいいと思ったからだ。

 相も変わらずクラスにはなじめなかったし、自分と他人をくぎる境界線を消す事もしなかったが、それでも家にこもってばかりの生活をやめたのは慧にとっては大きな進歩だった。息子の事を半ばあきらめていた両親ですらも目をみはるほどの生活の変化は、たった一人の少女によってもたらされたなど当人以外は知るよしもない。咲楽だって、自分の存在が慧にそれほどの影響を与えていた事など気づいてもいないだろう。

 世界のすべてに退屈していた慧にとって、咲楽は唯一見つけた興味の対象だった。どうして自分がここまで彼女に惹かれているのかわからない。だからこそよりいっそう惹きつけられる。彼女に対する興味は尽きる事がなかった。きっとこの一ヵ月は、慧の十四年の人生の中で一番輝いている事だろう。

 だが、そんな毎日にも若干の陰りが見えていた。出逢ったばかりの頃から咲楽はストーカーの影に怯えていたが、最近はそれがより顕著になったのだ。

 そしてそれは最悪な事に、咲楽の気のせいではなかった。電柱の陰に隠れてこちらを窺う男の事を、慧は何度も目にしている。直接的な被害がないためできる事は何もないが、あの男のねぶるような視線は思い出しただけでも寒気がする。たとえ慧が完全記憶能力を持っていなかったとしても、あの男のじっとりとした目つきだけは忘れる事などできないだろう。


 咲楽からのメッセージに返信をし、母の呼びかけに応えて慧は階下に降りる。以前は朝食と昼食が一緒で、自室で食事を摂っていたのだが、最近はリビングで食事をするようになった。これも咲楽の影響で、よく家の手伝いをしているという彼女に対し、親に部屋の前まで食事を運ばせている自分が恥ずかしくなったのだ。さすがに咲楽のようにほとんどの家事を手伝う事はできないが、親の負担を減らす事ぐらいはできる。下手に料理などした日には親の手間を更にかけさせる事になるが、自分が使ったぶんの食器ぐらいは洗えた。

 母親も息子の変化を良い兆候と受け取り、何も言わないがあからさまにほっとしたような顔をしている。彼女は慧の部屋に食事を持っていく事をやめ、食事ができたら階下から慧を呼ぶようになった。仕事ばかりで家庭を顧みない父は気づいていないだろうが、佐久良家は少しずつ変わっていたのだ。

 朝と昼が一緒になった食生活はなかなか変えられないが、今日は土曜日だからと心の中で言い訳をしつつトーストを咀嚼する。母はテレビのワイドショーを眺めながら、ぼんやりとコーヒーを啜っていた。


「あら、また通り魔事件ですって。怖いわねぇ」

「……ん」


 しばらく前から巷を賑わせている連続通り魔殺人事件は一向に下火になる事なく、連日お茶の間を騒がせている。慧が住んでいる市はもちろん、近隣の市町村でも謎の殺人鬼に対してぴりぴりとした空気が漂っていた。


『また被害者達の死亡推定時刻から、犯人は学生ではないという見方もあり――』


 アナウンサーのその声が、やけに慧の耳に残った。

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