そのいち
――二〇一三年 四月十六日――
つまらない。それが佐久良慧の口癖だった。
家も学校も勉強も人間関係も、何もかもがつまらない。これといった趣味もなく、ただ流されるように生を享受しているだけ。それなのに、周囲の者達はそれを当然のように受け入れている。一体、そんな人生の何が楽しいのだろう。
慧の目には、周囲の者達がすべて宇宙人のように見えていた。両親はもちろん、教師や友人も自分とは何か別の生命体なのだ、と幼い頃の彼は信じて疑っていなかった。今は一応同じ人類であると知ってはいるが、他人が宇宙人であるという認識が覆る事はない。慧にとってはつまらない物事を、彼らはとても楽しそうに受け入れている。それが慧には信じられないのだ。
気味の悪い、理解不能な存在。それが慧の下した、周囲に対する評価だった。しかしそれは逆の視点で言っても当てはまる。慧の周囲の者達は、同じように慧の事を評価していたのだ。
社会全体から見れば、異端なのは慧のほうだった。幼稚園に入園する前から生に対して諦観を抱くなど、大人びたあるいはませた子供の領域では収まらない。大人達は彼を異様なモノとして遠巻きに眺め、子供達は彼を宇宙人だと判断して決して近寄ろうとしなかった。それは当然の反応だっただろう。彼らの推察通り、慧は一般人の範疇から大きく外れて成長していったのだから――――いや、そもそも彼が周囲に馴染めなかったのは、持って生まれた才能のせいだったのだろうか。
慧は人一倍記憶力の優れた子供だった。人一倍などという言葉では表現しきれないかもしれない。異様なほどに記憶力が発達していたといったほうが正しいだろうか。
彼は生まれてから十四年間の事柄を、すべて正確に思い出せる。他人もそうだと思っていた。しかし、自分以外の誰もそんな事はできない。それがよりいっそう、慧と他者との間に深い溝を作ったのだろう。
人々は完璧すぎる記憶力を誇る慧を気味悪がり、慧は彼らの事をなんて物忘れの激しい人達なんだろうと訝しがった。そんな両者がわかりあえるはずもない。人間離れした記憶力をもった少年はその才能を開花させ、自分と他人の間にあった溝をより一層深めていった。
しかし、それは慧にとって決してマイナスにはならなかった。他人と関わる事なんて苦痛にしかならないが、才能という溝がある限り彼はそのしがらみから解放されるのだ。こちらが遠ざけるまでもなく、向こうが勝手に遠ざかってくれる。これほど楽な事はないだろう。
それに、記憶力というのはいくらあっても困るものではない。完璧すぎる記憶力は退屈をもたらすが、そもそもこの世界はつまらないのだ。記憶力が優れていようが並程度だろうが、それ以前の問題だった。
こんなつまらない世界で必死に足掻いたってしょうがない。慧にとって、抜群の記憶力は面白みのない世界を生きていくための命綱だ。これがある限り、刺激は得られなくても平穏は手に入る。
学校に行って授業を受ける、そんな当然の事すら慧には苦痛でしかなかった。第一、一人で教科書をめくっていれば内容は頭に入るのだ。わざわざ宇宙人達と机を並べる必要などない。慧がそれに気づいた時のは小三の夏だったが、それを境に彼は小学校に行くのを止めた。
最低限の出席日数を確保するために自主的に設けた登校日と、テスト当日だけが慧の平日だ。たまに学校に来てはテストで百点満点を取っていく、成績優秀で素行不良な生徒。それが佐久良慧に対する周囲の評価だった。
そんな生活が二年間続いた。しかし、半ば強引に県内でも有数の名門私立高校付属中学に受験するよう親に言い渡されたのは彼にとっても予想外だっただろう。親のくだらない見栄と我が子の将来を案じるという見せかけのスタンスのせいで、慧の小学校生活最後の一年間はほとんど毎日学校に行くという拷問にも等しい苦行で費やされた。もちろん、無事受験を成功させてからまた元通りの生活に戻ったのは言うまでもないが。
中学に入学してからも、慧の自堕落で悠々とした生活は続いた。父は家庭の事など顧みないし、母の小言は受け流せる。高校は内部進学すればいいから中学受験の時よりハードルは低いし、学校に行ってする事もない。
友人だって必要性を感じないのだから、慧が次第に外の世界への興味を失っていくのも至極当然の流れだ。慧にとっての外は、通販の支払いや買い物などで立ち寄るコンビニと、出席日数の確保とテストのためにいかなければいかない中学校に限定されていった。
そんな彼の一日の大半は、自室でパソコンの画面に向き合う事で費やされる。匿名掲示板を覗いたり、あてもなく多くのサイトを閲覧していたりするだけで時間はあっという間に過ぎていくのだ。他の時間はゲームか読書に使われていたが、それらはすべて慧にとっては有意義な時間だった。架空の世界を覗き見る事は、暇潰しには最適だ。フィクションの世界に溺れている間は、つまらない世界の事を忘れる事ができる。その瞬間だけは、慧も退屈から解放されていた――――代償は、現実世界に帰ってきた時の途方もない喪失感と得も言われぬ虚無感だったが。
今日も慧はいつものように、ネットショッピングで注文した商品の代金を支払うためにコンビニへ赴いていた。そのついでに店内を見て回る事にし、ドリンクコーナーで立ち止まっていたのはほんの気まぐれだ。
本当に買う気があったわけではない。ただまっすぐ家に帰るのも味気ないし、直接店頭で商品を見るのが久しぶりだったから、支払いを終えてからも店に残っていただけだ。
その気まぐれが慧にとって幸運だったのか不運だったのか、彼自身にもわからなかった。きっとその答えは誰にも出せないだろう。ただ一つ言える事は、その行動が後の彼の運命を大きく左右したという事だけだ。
ふと視線を感じ、慧はちらりと横を見る。そこにはどこかで見た事のある――――正確に言えば昨日の夕方、大通りの桜の木の下で目が合った少女が立っていた。
年は大体同じくらいだろうが、不安になるほど線が細くて色が白い。色素が薄いのか、癖の強いミルクティー色の髪はふわふわしていてとても柔らかそうだ。長いまつ毛に縁どられた瞳は愛らしく、つい庇護欲に駆られてしまう何かがある。
少女の顔や体を構成するパーツ一つ一つが野に咲く一輪の花のような可憐さを持っていた。しかし、それと同時に目を離したら消えてしまいそうな儚さを醸し出している。スウェット姿だというのに、まるで深窓の令嬢のようだ。
「サクラ君だ!」
「ッ!?」
少女はしばらく慧の顔を見つめ、そしてぱっと顔を輝かせた。しかし慧は、彼女に名乗った覚えなどない。目が合っただけの他人に自己紹介などするわけがないだろう。もしも昨日以前に会っていたとしたら覚えているはずだが、そんな事は記憶になかった。
「あ、ご、ごめんなさい……」
慧の沈黙をどう受け取ったのか、少女は顔を赤くして俯く。まさか向こうは知り合いのつもりで声をかけてきたのだろうか。それなら何らかの反応を返したほうがいいかもしれない。
「昨日の……」
そこまで言って慧は口をつぐむ。思えば人と会話するのは久しぶりだ。こういう時は、一体何を言えばいいのだろう。
相手の反応をうかがうが、少女は何も言ってこない。どうして声をかけたのか、自分達はいつどこで会ったのかを聞きたい衝動に駆られたが、今の慧はそこまで頭が回らなかった。
慧は少女から目をそらし、冷蔵庫を開けて中から緑茶のペットボトルを取りだす。そのまま彼は少女を視界に収める事なくまっすぐにレジへと向かっていった。どうせもう会う事はないだろうし、向こうの素性はもちろんこちらが与えた心証についても気にする必要はないだろう、そう思いながら。
二人が再び出会うのは、それから一週間後の事だった。