そのさん
――二〇一三年 四月二十三日――
しかし当然のことながら、店内にサクラ君の姿はない。咲楽は軽い落胆を覚えながら、財布を持ったまま棚に陳列されたスナック菓子をぼんやりと見つめる。せっかくだから漫画雑誌でも見ていこうかと思って歩き出そうとすると、反対方向の棚を眺めていた客にぶつかってしまった。
咲楽はとっさに謝り、ちらりと振り返る。これで相手がサクラ君なら、なんの少女漫画なのと苦笑しつつも羞恥と歓喜に身を震わせた事だろう。しかし現実はそう甘くなく、咲楽の背後に立っていたのは脂ぎった顔をした大学生風の男だ。男は豊満な腹肉を揺らしながらもにょもにょと口を動かしたが、その声は咲楽の耳では拾えないほどに小さく聞き取りづらかった。
とはいえ、それだけなら別に咲楽もなんとも思わない。だが、いかんせん彼の瞳が不快だった。男の丸眼鏡の奥の瞳はいやらしく光っていて、咲楽を舐めるように見つめている。自分が美少女であるとは咲楽も思っていなかったが、自分が着ている服とそれが示す自らの年齢に価値を見出す者がいるという事ぐらいは理解していた。いくら時間に余裕がなくても学校から直接塾に行くのはやめたほうかもしれないな、と制服を見下ろしながら咲楽は心の中で呟く。
曖昧な笑みを浮かべ、咲楽は平然とした足取りでその場を立ち去る。本当は回れ右して全力で走り去りたかったのだが、男が咲楽に対して直接何かをしたわけではない。彼の視線が不快なのはあくまで咲楽の主観だ。男にそういった意図はなかった可能性も無きにしも非ずだった。
それなのに逃げるように駆け出してしまっては、逆にこちらの品位が疑われてしまうだろう。逃げるとしたら、相手の視界から外れてからだ。
その思考通り、コンビニを出てすぐに咲楽は全力で夜道を駆け抜けた。さすがに不気味なものは不気味だ。自意識過剰となじられようと、お前が怯えるなよと脳内でもう一人の自分に突っこまれようと、咲楽は止まろうとはしない。
コンビニから少し離れたところで、ようやく走りながら後ろを振り返る。あの男の姿は見えなかった。あの時感じたおぞましさは杞憂だったかもしれない、と咲楽が思った瞬間、ちょうど曲り角に差し掛かり、
「きゃっ!?」
「ッ……!?」
何か温かいものに勢いよくぶつかった。曲り角の向こうからやってきた通行人だろう。その反動で咲楽はアスファルトにしりもちをつく。
「ご、ごめんなさい!」
「え……」
通行人は何か言おうとするが、咲楽はそれを顧みずにいちもくさんに駆けだした。あくまで推定ではあるが、怪しげな男に遭遇した事で今の咲楽の神経は少々過敏になっているのだ。
結局、咲楽は誰にぶつかったのか、そしてぶつかった時に何か落とさなかったかをよく確認もせずにその場から走り去ってしまう。そのあまりの素早さに、曲り角の向こうからやってきた通行人もただ呆然と彼女の背中を見送る事しかできなかった。
†
「……なんだったんだ?」
一人残された少年は、先ほど自分にぶつかってきた少女が走り去った方角を見つめながら首をかしげる。街灯の明かりがあるとはいえ、向こうの動きが素早かったので顔はよく見えなかった。しかし、彼女とはどこかで会ったような気がする。
少年は困惑に眉を寄せながらも前を向き、目的地である近所のコンビニへの道を急ごうとする。
そこで彼は気づいた。ちょうどあの少女がしりもちをついたところに、可愛らしい財布が落ちている事に。
(……?)
財布の持ち主としてまっさきに考えられるのはあの少女だ。少年は屈んでそれを拾い、特に何も考えずに財布を開ける。中には数枚の紙幣と数種類のポイントカードや会員カード、そして学生証が入っていた。落とし主の素性を知ろうと思った少年の手は、まっすぐに学生証へと伸びる。
(信田……咲楽……?)
どうやら彼女は自分と同い年らしい。学生証に記されていた名前を心の中で読み上げ、彼女がどこの学校に通っているかを確認する。あとはこの財布をどうするかだが、記されていた住所と地図アプリの案内を照らし合せてみる限りでは最寄りの交番に行くより少女の家に直接届けたほうが早そうだ。とはいえ少女の家は自分の家とも距離があるようだし、時間が時間なのでこれから届けに行くのは控えたほうがいいだろう。それまで少女には不便を強いる事になってしまうが、明日の昼にでも届けよう。少年はそう結論づけ、財布をジャージのポケットにしまい込んだ。
少年は知るよしもないが、もしも今ここに少女がいたら彼女はまず間違いなくこう叫んでいた事だろう――――これは何の少女漫画なんだ、と。
――二〇一三年 四月二十四日――
「きりーつ。気をつけー、礼ー」
『さようならー』
学級委員の気の抜けた号令に合わせ、咲楽達もまた気の抜けた声で帰りの挨拶をする。教師はそれについて触れる事もなく、すぐにグラウンドに向かえとだけ言った。
(どこに落としたんだろ……。通学路にはなかったし、やっぱり曲り角で、)
「早く帰れてラッキーだね」
いつの間にか落としてしまった財布の事を考えながら教室を出た咲楽に声をかけてくる女子がいた。しかし、彼女の名前も咲楽は記憶していない。いつぞやのクラスメイトのように友人その二と脳内で呼ぶ事にして、咲楽は彼女に歩調を合わせる。
「ああ……うん、そうだね」
「でも、模倣犯まで出るなんて怖いよねぇ」
数学の宿題の一件があったからか、今日は友人その一が咲楽に近づいてこない。かわりにやってきたのが友人その二だ。
彼女が言っているのは、昨夜この町で起きた殺人事件の事だった。最初は巷をにぎわす連続通り魔事件の犯人の仕業かと考えられたが、模倣犯の仕業だという話もあるらしい。模倣犯の仕業かもしれない、というのはあくまで噂の域を出ないものだが、咲楽をはじめとした多くの生徒がそう囁いていた。
「事件が長引くと真似し始める人も出るし、早く通り魔が捕まって欲しいよ」
咲楽の返事を待つまでもなく、友人その二はべらべらと喋りはじめる。そう言っているが、その口調に混じった呑気さは隠せない。自分とは関係のない世界の話だと無意識のうちに判断しているからだろう。
咲楽は苦笑しながら相槌を打つ。友人その二もその一と同じように、咲楽との会話を望んでいるのではなく自分の話を聞いてくれる事を望んでいるのだろう。咲楽が口を挟まずとも、友人その二の口からはぽんぽんと言葉が飛び出てきた。それらを聞き流し、咲楽は自分の世界に閉じこもる。
死体が見つかったのは今日の朝で、犯行時刻は昨夜遅くらしい。そのうえ犯人はまだ捕まっていないという。その情報が学校に伝わって、三時間目は職員会議のために自習になったのだ。どうやら職員会議では午後の授業を取りやめにしようという結論が出たらしく、生徒は集団下校するようにと指示がでた。同じ地区に暮らす者達で固まって帰り、不審者を遠ざけようというわけだ。今は全校生徒がグラウンドに集合しようとしている真っ最中だった。
近くの街で事件が起きると集団下校を強制されるようになったが、この町で通り魔事件が起きたのは初めてだ。同一犯にしろ模倣犯にしろ、大人達の緊張感はいつもより高い。咲楽としては帰宅したらすぐに財布を探しに外へ出たいのだが、それが許されるような雰囲気ではなさそうだ。
(お金とか、大事なものも入ってたんだけどなぁ……)
女子中学生がもっていたものとはいえ財布は財布だ。見つかるまでに時間がかかればかかるほど、中身が無事で帰ってくる可能性は低くなるだろう。あるいはすでに中身は抜き取られ、財布はどこかのどぶにでも捨てられてしまったかもしれない。咲楽は憂鬱な気分を抱えたまま、重い足取りで階段を下りていった。
「……あ」
自分の下駄箱に、丸め込まれた紙が入れられていた。友人その二が見ていないのを確認し、それを手に取って広げてみる。しわくちゃの白い紙にはでかでかと赤い字で『死ね』と書かれていた。
送り主の見当はついている。仕事が早い、と咲楽は苦笑し、友人その二に気づかれないうちに悪意の手紙を鞄の中にしまい込んだ。
†
「あれ?」
家が近くなった事で集団下校の列から離れた咲楽は、俯きがちに通学路を歩いていた。ふと顔をあげると、郵便受けの前に少年が立っている。
「……サクラ君?」
数メートルほど先からやってくる咲楽の声に反応したのか、サクラ君はびくりと彼女のほうを見る。すぐにサクラ君は気まずそうに目をそらしたが、その場からは動かなかった。
「信田、咲楽……さん?」
「え、あ、はい!」
思いがけず名前を呼ばれ、咲楽は思わず背筋を伸ばす。そんな咲楽の様子にサクラ君は怪訝そうな顔をするが、それを気にしている余裕は咲楽にはなかった。
(なんでサクラ君がここにいるの実はご近所さんだったの!?)
「財布、郵便受けに入れといた。……もう落とさないようにな」
「……!?」
サクラ君が郵便受けの前に立っていた理由はその言葉で察せられた。彼が咲楽の財布を拾ったのだ。財布の中には住所や氏名を記した学生証が入っていた。サクラ君はそれを見て、わざわざ届けてくれたのだろう。
「あと、走る時は前を見たほうがいい。危ないから」
「それって……」
曲り角でぶつかったのはサクラ君だったという事に気づき、顔がかぁっと熱くなる。羞恥心と照れくささ、そして何とも言えない喜びが混じり、サクラ君を直視できなくなった咲楽はぱっと顔を伏せた。
(一体何の少女漫画だよ!?)
心の中では冷静にツッコミを入れる事もできるが、感情の高ぶりのせいで喋る事すらままならない。蚊の鳴くような声で何とか礼を言ったが、果たしてサクラ君の耳に届いただろうか。
「べ、別に……暇だったから届けただけ、だし」
どうやら咲楽の心配は杞憂に終わったようだ。サクラ君もまた照れたように瞳を伏せる。そしてそのまま立ち去ろうとした。しかし、彼はふと足を止める。
「あ……そうだ。訊きたい事があるんだけど……」
「わ、私に答えられる事ならどうぞ!」
咲楽は再び直立の姿勢を取る。普段の咲楽なら、どれだけ顔の整った異性を見ても何とも思わない。男性アイドルグループやら俳優やらの話題についていけず、困惑するのも日常茶飯事だ。しかし、何故かサクラ君だけは別だった。彼の事はやけにすんなりと覚えられたし、彼を見ていると鼓動が異常なまでに早くなる。今ならテレビの向こうのイケメン達に心酔していた友人の気持ちがわかるような気がした。
「俺達、どこかで会った事があったっけ?」
「え、ええと……少し前に、桜の木のところで……。あ、覚えてないですよね、すみません」
二回目に会った時、サクラ君も咲楽の事を覚えているようなそぶりを見せていたはずだが、それは咲楽の思い違いだったのだろうか。しかしそれも当然か、と咲楽は特に気に病む事なく気持ちを切り替える。
「あ、それは覚えてる。そうじゃなくて……俺の名前、呼んだだろ?」
「……はい?」
しかし、サクラ君はあっさりとそれを否定した。向こうにも覚えてもらっていたのは嬉しいが、今度は咲楽が戸惑う番だ。サクラ君の名前など呼んだ記憶はないし、そもそも彼の本名すら知らないのだ。
「だからどこかで会った事が会ったのかもしれないって思ったけど……もしかして俺の勘違いか?」
「私、貴方の名前を知らないんですが……」
おそるおそるそう尋ねると、サクラ君はますます困ったような顔をした。咲楽に彼の名前を呼んだ記憶はないが、サクラ君には自分の名前を呼ばれた記憶があるのだろう。しばらくの沈黙ののち、サクラ君はおずおずと問いかけた。
「……でも、俺の事を佐久良君って呼んでたよな?」