そのいち
――二〇一三年 四月十五日――
目に染みる夕焼けと舞い散る桜の花びら。それが二人が初めて逢った日を彩るものだった。
「見て、サクラだ!」
出逢ったのは偶然だった。自分の名前を呼ぶ声に思わず反応してしまった事。そして反応したのが、自分一人ではなかった事。それがすべての始まりだった。
振り返った少女の目に映ったのは、遊歩道に植えられた桜の花を嬉しそうに指さす子供と彼の手を引く老婆。そして、自分のすぐ後ろを歩いていた一人の少年だ。
彼もまた少女と同じように振り返り、声の主である幼い子供を凝視していた。声が指すのが桜の花の事だと気づくや否や、少年は視線を前方に戻す。
その瞬間、二人の視線が絡み合った。少女も慌てて前を向き、足早にその場を去る。
邂逅はほんの一瞬。一言も言葉を交わしたわけではない。ただ目があっただけ。それでも二人は、そこに互いの存在を認知した。
それがもう戻れない袋小路への入り口だとは気づかずに――――
――二〇一三年 四月十六日――
「さーくらっ」
「ひゃっ!?」
背後から聞こえてきた友人の声に、信田咲楽はびくりと身体を震わせる。咲楽のそんな様子を見て、友人はけらけらと笑った。
「ちょっと、驚きすぎでしょー」
「ごめん、ちょっとぼーっとしてたから……」
咲楽もつられて苦笑する。友人は呆れたように目を細めた。
「ったく、咲楽ってばいっつもぼんやりしてるよね。ちゃんと気をつけないと危ないよ?」
「あはは……」
彼女は会うたびに同じ事を言う。咲楽だって、好きでぼんやりしているというわけではないのだが。
「そのくせ、早い時はほんとに早いんだから。一緒に帰ろうと思ったのに、いつの間にか教室からいなくなっちゃってるしさー」
自分が早いのではなく、向こうが遅いのではないだろうか。そう思うが、それは決して口に出さない。たとえ軽口でも、なにが相手の神経を逆なでするかわからない以上は口を噤んでいた方が賢いだろう。
なにより、咲楽は彼女と軽口を叩きあえるような仲だなんて認識していなかった。友人のほうはずけずけと無遠慮な発言をしてくるが、咲楽は彼女に対してそんな振る舞いをした事などない。
友人ではあるが、校外での付き合いはない。中学校のクラスメイトなんてそんなものだろう。学生時代の人間関係は貴重な財産だと大人は言うが、現役中学生の咲楽からすればそれはいささか納得できないものだった。
ただ一緒にいるだけでしかない存在の何がいいというのだろう。咲楽にとって『友人』とは拘束具だ。何をするにもついて回る、息苦しささえ感じるようなものでしかない。
今日だって、咲楽は一人で早く帰りたかった。友人との語らいなんて、彼女は所望していない。そんなものは疲れるだけだ。どうせたいした話題もないし、一人で音楽でも聞きながら帰ったほうがまだいいだろう。咲楽は自分達の脇を通る通行人の耳にはめられたイヤホンを羨ましげに眺めた。
(……早く高校生になりたい)
中学は校則が厳しいせいで登下校時にミュージックプレーヤーを用いる事ができないが、高校生になればそういったものも自由に持っていけると聞いた。
高校生になったら、イヤホンをはめながら街を闊歩するのだ。余計な雑音はすべてお気に入りの楽曲が遮ってくれる。『友人』との煩わしい付き合いからも、少しは解放されるだろう。咲楽はそれだけを希望に、
「咲楽? 話聞いてたー?」
「えっ……あ、ご、ごめん」
怪訝そうな顔をした友人が咲楽の顔を覗き込んでくる。いつの間にか一人の世界に閉じこもっていたらしい。周囲の事など気にも留めずに思考の波に溺れるのは咲楽の悪い癖だ。
「ちょっと、いい加減にしてよー。そんなんじゃ、次の被害者はあんたで決まりなんじゃない?」
友人はけらけらと笑う。からかわれた事で咲楽は思わずむっと顔をしかめるが、すぐにそれを作り笑いで上書きした。
「ごめんってば。それで、何の話だっけ」
「ほら、例の通り魔の話だよ。怖くない?」
友人の言っているのは、近隣の市で発生している連続通り魔殺人事件の事だ。事件自体は去年辺りから続いているのだが、警察はいまだに犯人のしっぽすら捕まえられないらしい。友人は、咲楽もその事件に巻き込まれそうだと笑っているのだろう。友人にとっては何気ない軽口なのだろうが、咲楽はもちろん事件の関係者からしてみれば随分と不謹慎で失礼な、笑えない冗談だ。
「最近色々とブッソーじゃん? 咲楽もあんまりぽやぽやしてると変な奴に目ぇつけられちゃうよ?」
「あはは、そっちこそ」
咲楽は友人の名前を呼ぼうとしたがやめた。呼ばなかったのではない。呼べなかったのだ。なぜなら彼女の名前など、咲楽は記憶していないのだから。
知らない少女の名前を言い当てる事など咲楽にはできないし、記憶の海に沈んだ彼女の名前を掬いあげるのも難しいだろう。二年連続で同じクラスだっていうのはわかるんだけどなぁ、と思いながら、咲楽は当り障りのない返事をするにとどめた。
名前が思い出せなくても会話はできる。咲楽と友人は、その後も毒にも薬にもならないような話に興じていた。いや、話していたのはあくまで友人だけで、咲楽はただ相槌を打つ事しかできないのだが。
やれ何組の誰それが最近学校に来なくなっただの、隣のクラスのあいつはうちのクラスのあの子とできているだの、友人は咲楽を相手にべらべらと喋る。彼女の口から放たれる名前のほとんどは、咲楽の知らない同級生達のものだ。受け答えに困り、友人の勢いに戸惑いながらも咲楽は曖昧な微笑を浮かべて彼女の話を聞き流していた。
「じゃーね咲楽、また明日ー」
「うん、さよなら」
ようやくわかれ道に辿り着いた。ここで友人ともお別れだ。やっと解放されると、咲楽は小さく笑みを浮かべた。友人に手を振って、咲楽はそそくさと家に向かって歩調を早める。互いに振り返る事などしない。
明日さりげなくあの子の名前を確認しておこう、と咲楽は頭の片隅にメモしておいた。もちろん、そんなものは家に帰った途端に忘れ去られてしまうのだが。
†
今日は家に親がいない。帰宅した咲楽を出迎えたのは、ダイニングテーブルに乗せられたメモ書きと二人の野口英世だった。メモの内容は見なくてもわかる。仕事で遅くなるからこれで夕飯を買ってきなさい。脳内で母の声を再生し、咲楽は二千円を手に取った。
今日は塾が休みだ。咲楽は部屋にこもって黙々と学校の宿題に取り組んでいた。面倒な数式がすべて片付いたのは午後十時を少し過ぎた頃だ。咲楽は集中すると周りが見えなくなる癖がある。一心不乱に課題に取り組んでいたため、時間も空腹も忘れてしまっていた。
しかし宿題が終わった今、彼女が集中力を向けるものはない。そこでようやく、咲楽は自分が空腹を覚えている事に気がついたのだ。咲楽は二千円の入った財布を取り、気楽なスウェットのまま近所のコンビニへと向かった。
「……あれ?」
店内をうろうろしていた咲楽はふとその動きを止めた。どこかで見た事のある少年がドリンクコーナーの前に立っていたのだ。
(どこで見たんだっけ……)
先方に悟られないように、咲楽はじっと少年を窺う。その横顔はどこかで会った事がある、しかし知り合いのものというわけではない。街ですれ違ったとか、その程度のものだったはずだ。それなのに、なぜだかその顔立ちは深く印象に残っていた。
年は大体同じくらいだろうが、驚くほど華奢で色が白い。もともとの髪質なのか、まっすぐなダークブラウンの髪はさらさらしていてとても柔らかそうだ。長いまつ毛に縁どられた瞳は凛としていて、つい吸い込まれそうになってしまう何かがある。
少年の顔や体を構成するパーツ一つ一つが洗練された美しさを持っていた。しかし、それと同時にどこか危うげな儚さを醸し出している。着ているものは何の変哲もないジャージだというのに、まるでどこぞの王子様のようだ。
(……あっ、わかった!)
「『サクラ君』だ!」
「ッ!?」
思わず声に出してしまう。それに反応したのか、少年はびくりと咲楽のほうを見た。気まずくなり、咲楽は顔を赤くして俯く。
「あ、ご、ごめんなさい……」
サクラ君とは、咲楽が勝手に名づけたあだ名だ。桜の木を見つけた幼い子供の甲高い声に反応したからサクラ君。そんな安直な名づけだった。今自分の目の前にいるこの少年こそ、昨日の下校途中に目が合った、自分の後方を歩いていたサクラ君に違いない。
「昨日の……」
サクラ君も咲楽の事を覚えていたようだ。咲楽の事をまじまじと見つめ、サクラ君は小さな声で呟く。だが、咲楽とサクラ君の間にそれ以上の接点はない。サクラ君はふいっと咲楽から目をそらし、冷蔵庫を開けて中から緑茶のペットボトルを取りだす。そのまま彼は咲楽を視界に収める事なくまっすぐにレジへと向かっていった。
咲楽はただ呆けたように、会計を済ませるサクラ君の背中を見つめる。結局サクラ君が外に出るまで咲楽はその場を動けなかった。
サクラ君の姿が見えなくなり、咲楽はようやく我に返る。彼女は冷蔵庫に視線を移し、サクラ君の買ったものと同じペットボトルを無意識のうちに手に取った。