3.Allonym[偽名]
ードイツ 某所ー
都市を離れた一角の路地裏では、金髪の男が身を隠すように壁に背を当て、携帯電話に耳を傾けていた。
「総長、本当に申し訳ねぇ。あのヤローに何とか戦おうとしたが、俺だけしか残らなかった」
"そうか。だが、あの男が現れた時点で我々の計画の第一章は終わりも同然だった。あのアリュエスとやら、普通とは違いすぎる。"
耳に当てたスマートフォンの奥から声がした。
「だろうな。あいつの剣は桁違いすぎる。おかげでこのありさまだ。後で電話するガザも日本でこうならないといいけど」
そう言いながら、目で包帯の巻かれた腕を指した。すると、電話の相手は薄暗い声を当てた。
"違うな、レイラン。私が言いたいのはそうじゃない。"
「何?」
不思議そうに眉毛をたてる。
"気づかないか。あのショッピングモールに現れたということは、我々の計画を分かっていたということだ。あの男、間違いなく何かを知っている。"
杏里・エイル・クレイマンは面会室の椅子に背を丸めていた。ガラス越しに座る男が喋る。
「久しぶりだな。結婚詐欺師の新井恵里香。いや、今は本名で読んだほうがいいか。杏里・エイル・クレイマンとやら」
貝割れ大根の葉のように割れたセミロングの男が睨みつける。
「今日は赤木刑事じゃなくて、坂木刑事なんですね」
数日間の苦痛でボサボサになった髪の女が言う。
「ああ、赤木は会議に出ていてな。代わりばんこに俺が伝えに来たってわけだ」
「そうですか…」
視線を下げて素朴に言う。すると、アンリは一瞬ためらいつつも、言葉を吐き出した。
「あの………、私は自分の意思で詐欺なんてものをやってたわけじゃないんです」
「その話ならもう聞いた。あのな、そんなこと言ったって警察は許しちゃくれなねえんだよ。大体、詐欺師の言葉が信じられるかってんだよ」
坂木が即答で呆れるように返す。杏里はうつむきながら、捕まった日の夜のことを思い返しながら言った。
「でも、赤木刑事は聞いてくれました。私がヤクザに使われていることも、私が苦しい生活を送ってきたことも」
「あのなぁ、俺はあくまで刑事であって、てめぇのそんなクソ雑談に付き合ってる暇はねえんだよ。たかが、容疑者のくせにつべこべ言ってんじゃねぇ」
アンリは言葉を耳に吸い込ませた瞬間、手を震えるほどに硬く握りしめた。表情に怒りは表せなかったが、自然とアンリの胸に深い振動を与えた。赤木のことを思い出したせいか、こんな男の話を聞いている自分が嫌になる。
坂木は話を移した。それはアンリにとって頭に血が急上昇するような話だった。
「それで、これは本題の話だが、おまえに特別捜査が入った」
「トクベツソウサ?」
想像ができないカタカナの文字を浮かべる。言葉は理解できるのに、状況が把握できないのは、牢屋に閉じ込めていた私に告げられそうなものではなかったからだ。任されるのは相当な熟年刑事くらいだろう。刑務所の小汚いベッドで寝ていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「で、その内容は…?」
アンリは恐る恐る口を開いた。
「『Aliues』に詐欺を仕掛けろだとさ」
「…え?ど、どういうことですか…?」
思わず疑問を浮かべた。
(何を言っている?わけがわからない。私は『Aliues』に救われた。なのに彼を裏切れ』と言いたいのか。この男は。)
アンリは一旦落ち着いてからもう一度耳を傾けた。すると、坂木は容赦なく喋り出す。
「つまり、おまえはいつもの仕事どおり、その『Aliues』とやらに会う。そしたら、あの男から事件のことを聞き出せ。作戦でも何でもいい。情報を得ればそれで充分だ。最後の方でベッドインでもしてくれれば軽く済みそうな話だがな。まあ、その場で殺してくれたっていいんだが、国民が反発するだろうからな。それに上の方がおまえが人を殺すのは可哀想だとよ。そんなことを思ってくれるなんて、おまえは運がいい。正直、さっさと殺っちゃってくれて構わねぇんだけどな」
『怒り』という名の感情は激しく震え出し、動きを止めそうになかった。空気の層が失くなるほどに強く拳を握りしめた。そして、全てを思い返した。
私にとって彼は神。そして、それはそう思える唯一無二の存在。幼い頃から苦しい生活が続いていた私は『愛』というものを感じたことがなかった。
父はなかなか仕事に就けず、貧しい日々が続いていた。そして、両親は私を置いて、突然この世からいなくなった。首に紐のかかった二人の顔を見つめることはできなかった。それからというものクラスメイトにはイジメに合わされ、友達なんてできたものじゃない。毎日学校に行ってはバカにされ、普段から雑に扱う祖母の元で過ごしていたせいか、高校なんて行けなかった。そして、私は一人暮らしを祖母に強制させられた。無論、普通の暮らしなんてできなかった。だから、私は金融会社に手を出した。でも、ここからが悪夢だった。騙されていたのだ。金融会社に。ヤクザたちは毎日のように私の部屋に押しかけた。時間が経ったある日、私にこう告げた。
「これ以上日が経つって言うなら、うちの元でびっしり働いて貰おうか、姉ちゃん」
そして、仕方がなく私は使わされた。それからというもの、幾度となく詐欺を繰り返した。そして、あの日はすぐに向かって来た。その日はSNSで知り合ったばかりの友人、淡岸 陽花梨のしつこいねだりでショッピングモールに出掛けていた。陽花梨はずっと私の隣で怯えていた。それは、奈落の号砲がホールに響き渡った時から同じだった。
「ショッピングモールの客と店員全員に告ぐ。よく聞け。これから日本政府に7億の身代金を要求する。よって今からおまえらは人質だ。だが、安心しろ。国に金を頂くんだ。命は保証してやる」
その後、私たちは言われるがままに誘導された。そして、ホール中央で肩を寄せ、ただただガスマスクの集団を見て震えていた。そんな中、陽花梨がふとつぶやいた。
「私たち本当に死なないんだよね?」
薄く開いた陽花梨の唇は震えていた。
「と…当然だよ。だって、さっき命だけは保証するって言ってたし………」
少しでも彼女を安心させるつもりで返した。すると、そのフォローを破壊するかのように外側から誰かが口を挟んだ。
「さて、それはどうかな。聞いた話じゃ、今の日本は三ヶ月前に阿久津首相が暗殺し、新しい総理大臣を決める国会ですらも、国会議事堂が破壊した九条って奴が首相を名乗り出したんだろ?そのせいで、クソみてぇな独裁政治が始まっちまった。つまり、あんたらのために国が金を出すなんて夢の話にしかすぎないんだよ」
「そんな………。私たち、死ぬの…?」
アンリは陽花梨の肩を抱いた。
「死なせない……、陽花梨。ここで生き抜いて一緒に帰るよ」
陽花梨は胸に一筋の光が刺したような気がした。一気に瞳が光明にそまる。陽花梨はその言葉を脳裏にコンクリートのように硬く埋め込めた。
希望を失わせたガスマスクの後方から隊員が駆け寄った。
「報告。只今、日本政府から通達が入りました。『私には関係の話であり、たかが国民のことでそんな大金を出すつもりはない』とのことです」
全開に開き切った目で男を見上げた。全てが嫌になりそうだった。いや、もう遅かったかもしれない。死ぬ覚悟などできるわけがない。一度も"愛"を感じたことない私たちには。
「今、言ったとおりだ。国に身代金を請求しようとしたが、おまえたちは国に見捨てられた。まあ、予想通りだったがな。ってことで、おまえから殺させてもらうぜ」
その瞬間、舞い降りた。彼が。たった一人の救世主が。神が。そして、私の目の前で名乗った時、なぜか『愛』を感じた。理由も根拠もない。感じたことのない私が語りかける話ではないとも思う。でも、それは確かに『愛』だった。しかし、私が逮捕されたのは、あの日ショッピングモールに行き、彼に救われたことで徴収され、そして、私の正体が判明したからだ。でも、一切悪い気はしなかった。普段の貧乏生活を続けるよりも、整った食事をして毛布に包まる方がよっぽどましな話だ。それに、命を救われた。あの日彼がいなければ、私はもうこの世にはいなかっただろう。整った食事も、温かい毛布に包まることもできなかった。あの脱獄不可能な悪夢の壁から解放してくれた彼に御礼がしたいくらいだ。しかし、今はそんな夢のある話を語っている暇はない。救われる前の私に戻り、そして彼を裏切るという最悪な行為をしてしまうのかもしれない。このまま、私が言われるように動いたら。彼から情報を得て、それが彼を突きとめる一つのヒントとなってしまったら。そう思うと、どうしたらいいのか全く分からない。警察に言うとおり、国を背負って彼を裏切り、詐欺をするか。作戦を失敗させて、彼に従うか。どちらがだろうか。私の選択するべきものは。
腕の力を抜いてしばらく考えた。頑丈で崩れそうになかった拳もいつの間にか緩んでいた。
「潜入捜査は二日後に三軒茶屋のカフェだ。運良く捜査員の一人がその男を見つけてな。そこに毎晩通っているらしい。」
「辞退する」という選択肢を失くすように坂木が椅子から腰を上げながら告げる。そのせいか、悩みはどちらを選択するかというより、どう作戦を終わらせるかだった。やはり、アンリとしても彼を裏切ることは不可解なようだ。坂木はドアを出て本部へと戻って行った。
しばらく脳を揺らして考えた。すると、アンリはふと顔を上げた。何かに気づいたようだ。それは、あの日の最後のことだ。彼はアンリに一枚の手紙を落とし、見つめていた。
[この言葉をあんたに捧ぐ。『俺は【Aliues】であると共に【シン】だ。』それと、あんたの名前を教えて欲しい。]
そして、アンリは抵抗なく名乗った。つまり彼は私の本名を知っている。だから、作戦で彼の前に現れた時、「新井恵里香」と名乗れば、その名が偽名だとすぐに分かる。彼はアンリを疑うだろう。偽名と分かれば、詐欺師だと検討がつく。そして、これによって作戦は失敗する。捜査は二日後。もう、この方法しかない。
ー10月9日ー
何台ものパトカーが並んだ地下駐車場の隅で女は黒のRX-7のドアを背に携帯電話を耳に寄せていた。
「ええ、わかっています。これから作戦に入ります。全く、スパイとはまたしても裏切り者役なんですね」
"ああ。俺みたいに全治二週間とか勘弁してくれよ。でも、おまえは前回も上手く誘導してたらしいじゃねぇか。総長のジジィも言ってたけど、ガザには期待してるってよ"
「なら、いいんですけどね」
ガザ・マルロスはため息をつきながら、言葉を返した。すると、パトカーから降りる刑事に目をつけた。
「すいません、アスカルト中尉。そろそろ出ます」
"了解。んじゃまぁ、グッドラックってことで"
「はい、じゃあ」
応答すると、その刑事の後を追いながらスマートフォンを内ポケットにしまった。
「あの、すいません」
ガザは後ろから駆け寄り、声をかけた。甲高い声に振り向いたのは赤木だった。
「ん?」
「赤木班の部署はどちらでしょうか?」
「赤木班はうちの部署だが、何かようかい?」
そう答えるも、赤木は顔を見てあることに気づいたようだ。
「あれ?君もしかして、今日からうちの班に入る一人の………」
「ええ、今日からお世話になります。淡岸陽花梨と申します。よろしくお願いします」
ガザは優しい純白の光のような表情を浮かべながら名乗った。影に漆黒の闇を忍ばせながら。