竜人と少年 7
朝、陽の光と共に目覚め、日が沈む頃には眠る。
サイはそんな日常で毎日本を読むのが日課だった。
毎日本を読んでいれば飽きそうな気もするが、サイにしてみればいつも読んでいる本は違うので、毎日が違う日常だ。
そんなある日、今日も一冊本を読み終えて新しい本を手に取ろうとしたが、既に読んだことのない本が一冊もなくなっていた。
「ドレイクー。本全部読み終わっちゃった」
「全部かい? ハハハ。こんな調子ではあっという間に一部屋本で埋め尽くされてしまいそうだね」
サイから次の本を買って欲しいと催促され、ドレイクはそう言って笑いながら、明日には買う約束をしたが、今日はもう読んだことのない本がないため、少しだけ退屈な日になってしまうため、不満そうに頬を膨らました。
基本的にサイは本を一度読めば内容の大体を把握でき、三度も読む頃には内容を覚える。
気に入った本は一日の内に何度も読み返してしまうため、今ある本はほぼ全て内容すら把握してしまっている。
退屈で仕方がなかったサイは普通の子供と同じように床をゴロゴロと転がり、退屈さを全身でアピールしていた。
だが、そんな最中、あるものが目に留まった。
「ねえドレイクー。ここの本は読んじゃ駄目?」
そう言いながらサイは廊下から覗いた部屋の壁を指差していた。
その声を聞いてドレイクもそちらの方へ移動してきた。
「ここの本か……。読んではいけないわけではないけれど、流石に君でもこの本は読めないだろう」
「えー! 読めるもん! こんなに沢山あるなら読みたい!」
サイの指差した先には壁一面どころか、図書館のように等間隔に置かれた本棚にまでビッシリとかなり年季の入った本が並んでいた。
廊下を転がるサイを捕まえて、サイが指さす先をドレイクは見つめて困ったような笑いを浮かべながらそう言った。
子供というものはダメだと言われれば余計にやりたくなるものだ。
サイもそう言ってその本を読ませて欲しいとお願いした。
するとドレイクはサイを下ろしてついてきなさい。とだけ言い、その部屋を後にして別の部屋へ向かった。
「確か……この辺りのはずだったが……。あった。サイ、この本を読んでご覧。もし、君がこの本に書いてある内容をしっかりと理解して、私の前でそれを実践できたのなら、この館にある本を全て読んでいいよ」
「本当!? 約束だからね!! この本に書いてあることを出来たらいいんだよね!?」
「ハハハ……まあ、出来たらの話だがね。頑張ってみなさい。ただし、ここの本はとても大事な本だ。汚したり、傷を付けたりしないように大事に扱うんだよ?」
「分かった!!」
その部屋の壁にびっしりと並ぶ本の中から、ドレイクは一冊の本を抜き出してサイに渡した。
大喜びするサイとは対照的にドレイクの表情は申し訳なさそうだった。
本を受け取るとサイはその古びた本を大事に抱え、いつも本を読んでいる部屋へと戻っていった。
ドレイクが渡した本の題名は『魔導師入門指南書』と書かれていた。
本を開いて一ページ目に目を通したサイは、とても驚いた。
書いてあった内容の難しさにではなく、そこにはサイが全く知らない世界の内容が書いてあったからだった。
『本書を読み、たゆまぬ努力を積んだ暁には、貴方も晴れて魔導師の世界へ一歩踏み込むことになるだろう。』
サイは勿論、魔導師というものが何なのかは知りもしない。
だが、読み終える頃には新たな知識が得られるのだろうということだけは理解できた。
その日からはその本を読んでいたが、いつもならかなりの厚さがある本でも、三日もあれば読み終えていたが、この本はそうはいかず一週間経っても半分ほども読みきれていなかった。
というのも、書いてあることがあまりにも分からないことだらけだったからだった。
入門書といえど専門書、専門用語や知らない単語が説明を挟んでいるとはいえ、所狭しと並んでいた。
「どうだい? 書いてあることは理解できているかい?」
「うーん……。書いてあることの意味が分からないんだ。魔素とか精神界とか……今まで読んだ本では書かれてなかったような言葉が多くて……」
「ハハハハ。まあそうなる気がしていたよ。そうだね……サイ、君にその精神界というものを体験させてあげよう」
ドレイクがサイに進み具合を訪ねたが、ドレイクからすると案の定という感じだったのか、そう言って困り顔のサイの頭を撫でた。
そしてその場に座り込み、足の上にサイを座らせた。
サイの足に乗せるように手で食事の時に行っているのと同じように手で輪を作った。
サイにも同じように輪を作らせ、目を閉じるように言い、そしてドレイクもゆっくりと目を閉じた。
二人とも目を閉じてから少しの間は何も起きなかったが、暫くすると不思議な光景が現れた。
目蓋を閉じているため本来は真っ暗で何も見えないはずなのだが、不思議と目蓋の下の世界が明るくなっていった。
暗い世界はあっという間に虹色の美しい光に包まれ、サイも思わず心を奪われた。
煌く光の粒があちこちを飛び回っていたり、一箇所に集まっていたりと、それはまさに満天の星空を見つめているような光景だった。
「あれっ? 何処にもない?」
あまりにも美しい世界にサイは自然と目を開いていた。
しかし、目を開いたその世界にはいつもと変わらない光景しか広がっておらず、先程の心奪われた景色は何処にもなかった。
「ハハハ、今のサイでは目を開いてこの世界を見ることはできないよ。目では見えない世界……心でしか見ることのできない世界。それこそが精神界だ。さあ目を閉じてごらん。君に魔導師達にしか見えない、魔導師として基本の世界を教えてあげよう……」
そう言われ、サイはもう一度ゆっくりと目を閉じていった。
するとまた美しい世界が目蓋の裏に広がった。
サイが目蓋を閉じたことを確認すると、ドレイクはサイの顔の前に手を伸ばした。
目蓋の裏の世界ではドレイクの姿は見えないはずなのだが、そこには白い光のようなぼやけた腕が写りこんでいた。
そしてその腕から光が少しずつその手の平の上へ流れてゆき、手の平の上で眩いほどの光の塊になった。
次々と繰り広げられる美しい世界の連続に、サイはまた目を開きそうになるが、目を開くと見えない世界だということを思い出してなんとか目を開かずにいた。
「今、サイに見えている私の腕には色がないだろう? これが魔導師達が言う、魔力というものだ。そして、私の手の上で輝いている光、これが魔力をただ取り出しただけの光、無垢なる灯り。本に書かれている最初に覚える魔法だ」
「綺麗……」
「そう、とても美しいだろう? とても美しく、とても純粋な魔力の灯り。しかし、誰もが持つ、魂の灯りだ。だが、とても純粋な魔法だが、これを共有できるのは魔導師のみだ。だからこそサイ、君が私にこの灯りを見せてくれることを心待ちにしているよ」
そう言ってドレイクはその光を消し、それと一緒に眼前に広がる世界も本来の目蓋の裏の世界へと戻っていた。
ものの数分の出来事だった。
だが、その数分はサイの心を動かすには十分すぎる時間だった。
その日からサイは大好きな本を読むことも止め、毎日その世界を見るためにドレイクから与えられた本を穴が空くほど読み、毎日のようにその魔法を使う練習だけをし続けた。
一ヶ月、二ヶ月……長い月日が掛かったが、サイはその間、一日も諦めずにたった一度見た美しい世界をもう一度自力で見ようとしていた。
心を動かされるというのは人生でそれほど多くないかもしれない。
だが、出逢えば自分の生き方が変わるほどの衝撃と行動力を与えてくれる。
サイにとってもこの出会いは衝撃であり、そして出逢うには丁度良い若さだった。
知っている世界が狭いからこそ、その集中力が得られるのかもしれないが、子供の集中力は凄まじいものだ。
失敗を知らないからこそ、それができるのかもしれない。
そして半年程経った頃、未だ目蓋に焼き付いて離れない美しい世界は、ついにサイにも見えるようになっていた。
サイは恐らく、その歳では考えられないほどの沢山の知識を身に付けていただろう。
だが、それほどの知識は全て使う機会が無かった。
だからこそサイはこれほどまでに魔法に魅せられたのかもしれない。
外の世界へ出て、見ることのできた知識よりももっと身近で、しかし見ようとすればそれはとても困難な世界だった。
だが、体の弱いサイにとって身動き一つせずとも見ようとすれば見える世界はとてもありがたい世界だった。
サイにとって、初めて自分から見たいと願うことができ、そして望むのならば誰も拒むことのない世界だったからなのかもしれない。
「ドレイクー!! 見てみてー! できたよー!」
ついにサイは自分の両の手の平の上に、あの時見た光と同じ光を灯すことができた。
その声を聞いてドレイクは今まで見せたこともないような慌てようでサイの所まで飛んできた。
そして驚愕した表情でサイの手の上を見ていた。
そこにはドレイクがしたほど大きくはないが、確かに同じ輝きを放つ小さな小さな光の粒があった。
「約束通りできたよ! これであそこの本も読んでいいんだよね? 僕、もっと魔法を知りたい!」
「本当に……本当に出来たのか……。信じられない……。だが素晴らしい……サイ。君は間違いなく天才だ」
サイが無邪気にそう言って笑っていた時、ドレイクは大粒の涙を流していた。
ドレイクにとって、サイの行ったことは常識を覆すほどの事だった。
だからこそ嬉しさのあまり涙が出た。
だが、サイにはその理由は分からないだろう。
だからこそ、サイにその涙を見られなくてよかった。
そして涙を流しながら、ドレイクはとても嬉しそうに笑っていた。
小さな小さな魔導師の誕生を心の底から祝福していた。