それはとても小さな 2
その日は月明かりすらない暗い夜だった。
厚い雲が空を覆い、外灯すら消えた夜道は灯りが無ければまっすぐ歩く事さえかなわない。
そんな暗い夜道を小さな黒い影が凄まじい速さで駆け抜けてゆく。
暗闇の中で行動しやすいように衣服や装飾品は全て黒で纏められており、目元のみほんのり明るくなっている。
どんな暗闇でも行動することができるようにするために作られた機械の明かりが蛍のように光を闇の中で伸ばしてゆき、彼にはその暗闇がしっかりと見えていることを告げる。
ショテルは昼にサイの元を訪れた時とは違い、暗殺するために特化した装備に切り替えていた。
布擦れの音が少ない黒い服に、その各部に仕込まれた様々な武器。
全力疾走よりは多少遅いが、夜闇の中を音も無く駆けてゆくその様は正に暗殺者のそれだった。
闇の中に静かに佇むサイの居る屋敷の前まで辿り着き、侵入できる場所を探そうとしたが、そんなことをするまでもなく玄関の扉が開け放たれたままになっている。
まるでショテルが戻ってくることが分かっていたかのように開け放たれた扉を十分に警戒しながら抜け、そして本当に何の罠も警備もない事を知るとそのまま屋敷の中を進んでゆく。
くまなく屋敷内を探すまでもなく、サイの居る部屋までの道は全て扉が開けたままになっており、サイの待つ部屋からは明かりが漏れていた。
「お待ちしていました」
椅子に座ったまま、サイはショテルを待っていたようだ。
黒ずくめのショテルの姿を見てもサイは一切驚きもしなかった。
「サイ……お前の命、頂きに来た。……だがその前に一つだけ答えてほしい」
「答えられることであれば」
ショテルの声は昼の時と違い、低く鋭い殺気を含んだ声で、それが例え一般人であったとしてもショテルの明確な殺意に気が付けるほどだ。
そしてショテルはサイを殺す前に一つの質問を投げかける。
「お前は、悪なのか?」
暫くの沈黙、その言葉に対してサイは真剣に考えているようだった。
普通ならばこのような質問、考えるまでもなく誰もが同じ答えを返すだろう。
『私は何も悪い事などしていない』
そう言えば誰でも口上では善人になれる。
だがサイはそうせずに眉間に皺を寄せ、本気で考え込んでいた。
「はっきりとお答えすることは出来ないでしょう。ただ、私自身が私を評するのであれば、私は恐らく俗に言う悪人です」
「普通の悪人はそうは答えない。助かりたい一心ですぐに嘘を答える。そこに真実は必要ないからな」
「もしかして、今の質問に深い意味はなかったということでしょうか?」
「いや、望み通りの答えを出してくれた。だからこそ貴方に聞いて欲しい。私の考えというものを」
サイの質問への答えを聞き、目元だけが見えている状態のショテルの顔から張り詰めていたような厳しさが無くなった。
そしてこともあろうにその顔布と頭巾を取り、昼間同様にサイに顔を見せて話し出す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ショテルという青年には、元々名前はなかった。
彼と彼を買った一人の竜族しかいなかったため、わざわざ名前を付ける必要がないというのが彼の主人の考えだったようだ。
平凡な雑用奴隷として生まれ、育てられ、市で売られていた所を主人が買い、身辺の世話をするのがこの世界における普通の人族の奴隷の仕事の一つだ。
病で早くに妻を亡くし、子にも恵まれていなかった彼の主人は、彼を世話役として迎え入れながらも、普通の奴隷よりは随分と良い待遇を受けていただろう。
上等な寝具に個室、まともな食事、元々奴隷時代に教わった算術や言語の読み書きに加え、主人の仕事を手伝うための学習も十分に受けさせてもらい、充実した生活を送っていた。
主人は一商会の会長で、多くはないが部下を持ち、誰にも分け隔てなく接していたため、部下からの信頼も厚い良い商会長だったようだ。
子がいなかったということもあってか、新人にもしっかりと仕事を教えることで有名で、彼の紹介は噂が噂を呼んであっという間に大きく成長した。
店を構え、多くの国への物流も整い、全てが更に良くなるだろうと思っていた矢先、主人は殺された。
音も無く表れた暗殺者により、彼の目の前で主人は血の海に沈む。
それを見た彼は激昂した。
特に親しい仲だったわけではない。
だが、主人は少なくとも殺されるような者ではないとその時の彼は思っており、そして自分を大切にしてくれた主人を殺した者が許せなかった。
咄嗟に近くに落ちていたテーブルナイフを手に取り、主人を殺した男に向かって襲い掛かった。
だが当然彼は一瞬で捩じ伏せられ、手に持っていたテーブルナイフも奪われて捨てられた。
本来ならば彼もそこで殺されていただろう。
「怯える前に突っ込んで来るとはな。その度胸、その怒り、是非私の所に欲しい」
そう言い、男は彼を連れ去っていった。
その正体はトラオア。
彼にショテルとして名付けた暗殺者としての育ての親であり、仇である。
事実、連れ去られた彼はトラオアを恨み、必ず同じ目に遭わせてみせると言い放った。
だが今まで彼を育て上げたように、トラオアの話術による騙しの技術は高く、彼の殺意の矛先を別へ向けさせることも容易にこなした。
「殺しには必ず依頼人がいる。何故お前の主人が俺を介して間接的に殺されたと思う? そしてその真犯人、知りたくはないか?」
殺害依頼を行った者が何か、それを知るために必要な力を与えるとトラオアは語った。
暗殺者は依頼されれば誰でも殺す。
だが依頼がなければ誰かを殺すようなことはあり得ない。
つまり殺された以上はそれを依頼した、自らの手を汚さずに解決しようとした者が存在するということを説明され、彼なりに真に怒りを向けるべき相手が誰なのかを理解した。
そしてその日より青年はショテルと呼ばれるようになり、暗殺者としても類を見ない人族の暗殺者としてトラオアの下で鍛える事となった。
全ては主人を殺した相手への殺害依頼が来た時に、自らの手で仇を取るために。
暗殺者の訓練は、それまで平凡な人生を送ってきたショテルにとって、非常にきつく苦しいものだった。
今まで何気なく行っていた行動を全て見直し、所作の一つ一つ、表情の一つ一つ、言葉の一つ一つに至るまで徹底して身体に叩き込む。
勿論一つだけではない。
屋敷に忍び込むのであれば上級奴隷のような徹底された言葉遣いと能力の高さを真似しなければならないため、丁寧な言葉遣いと体捌き、そして上級奴隷用の技術を学ぶ。
荷運びを行う一般的な奴隷であればはきはきとした物言いに、効率の良い荷物の運び方を学ぶ必要があり、先の覚えるべき内容と正反対となる。
農耕、商業、狩猟に冒険家のバックパッカー、人族が利用されている職業の知識、所作、言葉遣いを全て覚え、不自然さを無くすところから全てが始まった。
刃を向けられても眉一つ動かさないようになり、言われれば瞬時にその職の奴隷になれるようになると次に諜報の技術を学んだ。
違和感なく必要な情報のみを聞き出すための会話術や心理術をはじめ、遠方の会話を盗み知るための読唇術、壁を超えたりや狭い通路に潜り込んだりするための柔軟かつしなやかな身のこなしを学んでゆく。
より体術が増え、覚えることも実戦的になってきたこともあり、怪我や生傷も絶えなくなるが、それでも仇を取るその日の為にひたすら鍛え続けた。
そして諜報技術までもを身に付け、ようやく道具を使用した戦闘、移動術を学び始めた。
鍵開けやフックロープを使った侵入不可能なルートを使っての移動術に始まり、姿を見られないようにするための全身を布で覆った状態での走行や重い荷物を持った状態での跳躍。
そして音や気配を消す技術、相手の意識を逸らす術や逃走術とそれらを使うためのルートの考え方のような隠密行動の数々。
ナイフによる戦闘術や仕込み刀や針、その場の環境を利用した罠作りなどの潜入戦闘術を学び、四節も経つ頃には十分に技術を身に付けた暗殺者が一人誕生していた。
初めてターゲットを殺したのはそれから一節後、勿論相手はショテルの主人を殺した相手だった。
人を呪わば穴二つ、他人を殺害を依頼するような相手は他の者にも同じように狙われている。
ようやく来た好機に昂りながらも、決して失敗しないための準備を着々と進めていった。
そしてショテルは知ってしまった。
何故主人が殺されたのか、そして何故そいつが殺しを依頼したのか。
ショテルの主人の経営は見た目こそ順風満帆だったが、その実既に傾きかけていた。
立て直しを図るために多額の借金をし、その返済の悉くが滞っていた。
再三の勧告の後、返す目途の立たない主人は殺され、その家財の一切合切を担保として奪われた形となったというのが真相だ。
死には重すぎる罪だが、しかし清廉潔白と信じていた主人の殺害理由を知り、衝撃を受けていないといえば嘘になる。
そして今回の殺害依頼とその理由……それは債務者が再三の取り立てに逆切れするような形での報復だった。
金貸しを生業にしているターゲットに罪はない。
仕事として金を貸し、貸した物をただ回収しているだけだ。
主人とて、知らなかっただけでそれこそどんな方法で返済を拒み続けていたのか今となっては知る由もない。
だが、利息で儲ける仕事である以上、殺害は最終手段だろう。
そうせざるを得なかったのだとすれば、本当の悪はどちらになるのか。
そう悩んでしまい、彼の中にあった復讐心が大きく揺らいだ。
返す能力の無い者に貸したことが悪いのか、それともいつまでも借りた物を返さない方が悪いのか。
これは天秤で計ることのできない罪だ。
そう思うとショテルのナイフを握る手は自然と鈍った。
「殺せ。受けた以上はそれがお前の仕事だ。俺が何故この仕事をお前にやらせたのか。その答えはただ一つ。私情を捨てろ。真に悪を裁きたいと考えているのならな」
トラオアは悩み抜いた末に相談したショテルにそう言い切った。
確かに主人の仇を取りたいと考えていたのも私情であり、ターゲットは比較的にまともな金貸しでしかないと知ってから殺すことを躊躇ったのも私情である。
何が正義かなどと考えていれば、この世界で生きていくことなどできない。
それを教え、ショテルという一人の才能ある者を一人前の暗殺者として育て上げる最後の試練として、トラオアは私情を捨てるためにこの依頼を受け、そしてショテルにやらせた。
悩み抜いた末にショテルが出した答えは、『依頼された者が悪である』というものだった。
そう決めつけなければ、彼にはもう答えは出せなかった。
刃が鈍れば次に死ぬのは自分となる。
もう、ショテルの握る刃に迷いはなかった。
そうしてサイは幸か不幸か主人の仇を取り、心にナイフを突き立てることができた。
そう考えていた。
「それが私です。多くの矛盾を孕んだまま、血塗れた正義を振りかざす暗殺者。滑稽でしょう?」
「聞いている限り、貴方は滑稽などではありませんよ。迷いながらも武器を手に取ることを決めた。それはとても勇気のいる事なんですから」
ショテルはそうして己の過去の全てをサイに打ち明けた。
そして今も己の暗殺に疑問を抱きながらも答えを出し、その手を血に染めてゆく。
しかし否定されると予想していたショテルの言葉は彼の想いとは裏腹に、サイの肯定によって言葉が返された。
それはショテルにとって想定外以外の何物でもなく、自分の生き方を肯定され思わず何を言われたのかが理解できなくなる程だった。
「そ、そうは言っても私は自分が正しいとは……」
「思っていなかったとしても、時として人は行動を選ばなければなりません。僕も同じですよ。魔法を使ってはならない身でありながら、過去に私の主人だったドレイクさんを救うために魔法を使って医師をこの屋敷まで連れてきた事がありますから。大切なのは何が正義かではなく、自分のとった行動に絶対に後悔しない事だと思います。その行動を否定すれば、今まで生きてきた全ての人生を否定したのと同義だと、少なくとも私は思っています」
「後悔しない……選択、ですか……」
サイと出会い、話したことはショテルにとって良い転機となっただろう。
彼の顔は自分の考えていた正義か悪かという考えの外側にあるものを教えてもらった事への純粋な喜びのような顔になっており、既に思い詰めたような様子ではなかった。
少しの間、夜の静寂が二人を包み、煌々と灯るランプの灯りだけが二人を照らしていた。
「サイさん。ありがとうございました」
「迷いが晴れたようですね。これからも頑張ってくださいね」
「いえ、申し訳ありませんが、今の自分ではサイさんの応援には答えられないでしょう」
「どうしてですか?」
「後悔しないため。ですよ」
そう言ってショテルは手に持っていたナイフをケースに戻し、頭巾と顔布を纏い直した。
「サイさん。ありがとうございました。もしもまた貴方と話すことができたのなら……その時はもっと沢山の事を教えてください」
「……本当にそれでいいんですか? 何も貴方が私の代わりに死ぬようなことは……」
「死ぬと決まったわけではありません。ただ相応の覚悟はしなければならないというだけですし、単純にもう私は後悔したくないだけですから。では、さようなら」
ショテルはそう言い、来た時と同じように音も無くサイの居る屋敷を去っていった。
ショテルの決断を聞いて、サイはあまり嬉しそうな表情はしてないない。
それもそうだろう。
サイからすれば、自分の余計な助言が原因でショテルが命を落としてしまうかもしれない。
もしもそうなれば、サイは悔いても悔やみきれない。
だからこそ、後はもう信じるしかなかった。
夜闇の中を風のように駆けてゆき、アジトへと戻ってゆく。
日が昇る頃には暗殺用の服装を普通の物に変えて周囲の人々に紛れ込み、帝都へと帰り着き、そして自分のやるべきことを考えながらゆっくりとアジトへと向かってゆく。
「……遺品はまた無し、か……。どういう了見だ?」
「トラオアさん。申し訳ありませんが、今日限りで私はこの暗殺者連盟を抜けさせてもらいたいです」
戻ってくるなりそう言ったショテルを見て、トラオアは腹を抱えて笑った。
「依頼は遂行せず、その上今日限りで暗殺者を辞めるってか? そんな恩を仇で返すような真似が許されるとでも思ってるのか。大体、ここは裏の世界の組織だ。辞めます、はいそうですか。とはいかない」
「分かっています。どのような処罰でも受けるつもりですよ。ただし、私はもう、信念だけは貫き通すと決めました。だからそれだけは譲れませんけれど、それは大目に見て下さい」
「死ねと言われれば死ぬのか? 暗殺者連盟を抜けるってのはそう言うことを意味するんだぞ?」
「死ぬのは構いませんが、これ以上サイさんを狙わないとだけ約束してもらえれば結構です
真剣な表情で話すショテルとトラオア。
どちらもその言葉には嘘偽りがない事を互いに目で語っていた。
「いいだろう。抜けるのなら一戦俺と戦え。それでお前が勝てばスケアクロウは事実上の解散となる。そうすりゃお前は晴れて自由の身だ」
「分かりました。手加減はしません」
「どの口が。お前に技を教えたのは俺だ。お前の動きなんぞ全て把握している。微塵でも勝てると思っているとはな」
そう言うと二人共ナイフを抜き、ゆっくりと構える。
勿論、相手を降参させるような真似は出来ない。
暗殺者同士の殺し合いはどちらかが死ぬまで。
自身の主義主張を貫き通した者が勝ち、生き残る。
一瞬の静寂の後、殆ど二人同時に動き出した。
互いのナイフが擦れ合い、火花を散らしながら二人の間を駆け抜けてゆく。
ショテルからすれば平均的な体格のトラオアでも身体が非常に大きいため、出来る限り攻撃を正面から受け流そうとはしない。
体の小ささを利用して潜り込むように足元へ近付き、ナイフを振り上げる。
だがその戦い方を教えたのはトラオアであるため、容易くはその間合いに入らせず、ショテルの苦手とする正面戦闘へ無理矢理持ち込ませる。
苦手な戦闘へ持ち込まれてもショテルは慌てず、ひたすら防御に徹する。
斬撃をナイフの腹で受け流しながらもショテルは懐へ飛び込むための隙を探し続け、フェイントや空振りをしてトラオアの意識を少しでも乱そうとするが、それもやはり読まれている。
次第に戦局はトラオアの有利に傾き始め、ショテルの息が乱れ始めた。
「諦めな。今ならまだ許してやろう。その代わり、これから先俺の命令に背く事は決して許さんがな」
「……そうですね。降参します」
トラオアはそう言い、軽くナイフの刃先をショテルの方へ向けた。
ショテルも限界を感じたのか両手を上げてこれ以上抵抗しない事を示してみせた。
自身を育てた相手である以上、敵わないのは当たり前である。
だからこそショテルは諦めるしかない事をトラオアは理解していたのだろう。
両手を上げて降参したのを見て、トラオアはショテルのナイフを払い落とそうとした。
しかし、ショテルは諦めてなどいなかった。
ナイフを払おうとしたタイミングに合わせてトラオアの股下に飛び込み、そのまま足払いをしながら尻尾へと飛び掛かる。
ほんの一瞬の隙をついてショテルはトラオアの体勢を崩し、倒れそうになっているトラオアの頭の上に覆いかぶさるように飛び乗り、ショテルの手に持つナイフをトラオアの喉元に当てた。
「どうした? 殺せ。それがお前がここを抜ける唯一の方法だ」
喉元にナイフを当てられてもトラオアは一切動揺せずにショテルに対してそう言い放つ。
「これで殺したも同然でしょう。それに……恩を仇で返す形にはなりましたが、この技を教えてくれたことに、今まで面倒を見てくれたことに対して、少なからず感謝はしています。だからこそ、もう後悔はしたくない。二度と誰も殺さないと自分に誓ったんです」
「そうか……」
少しの静寂の後、ショテルは喉元に当てたままだったナイフを離してそう言った。
トラオアの上から静かに立ち上がろうとしたショテルの斜め下から、鋭い一撃が振り上げられた。
ショテルは急いで身体を反らしたが、その一撃は躱しきれずに顔の右側を切りつけてゆく。
鋭い痛みを感じながらもショテルはすぐに斜め後ろに飛び退き、トラオアの方を向き直したが、既にトラオアの右手がショテルの首を掴む寸前だった。
そのままの勢いで床に捩じ伏せられ、今度は逆にショテルが喉元にナイフを当てられる。
「殺せないのならば俺の勝ちだ。あばよ、出来損ない」
言うが早いか、ショテルの返事を聞くよりも早く首元に当てられたナイフは肉を裂きながらショテルの首元を滑り抜けた。
『サイさん……。すみません。もう一度貴方の元を訪れる事は……』
激しい痛みと薄れゆく意識の中でショテルは最後にサイと交わした言葉を思い出し、心の中でサイに向かって言葉を紡いだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もう、目を覚ますことはないと思っていた。
しかし、ショテルは確かにトラオアに与えられた自室で目を覚ました。
首元と顔の右側には包帯が巻かれており、起こった事の全てが現実であったことを物語る。
だがそうなるとショテルがまだ生きている事の意味が分からない。
「ようやく目を覚ましたか。一週間も眠りっぱなしとは随分と寝坊助だな」
「……ッ!」
目を覚ましたショテルのすぐ傍にはトラオアがいた。
それを見て、ショテルは思わず何故自分を助けたのかを聞こうとしたが、その言葉はただ掠れた音となって吐き出される。
「首を横一文字に切り裂いたんだ。喋ることはもう出来んだろう。それにその右目。そっちもとてもじゃあないがもう元には戻らない」
言葉が話せない事に困惑するショテルを見て、トラオアはそう言いながら鏡を見せた。
そのまま首と顔の右半分を覆っていた包帯を取り除くと、その傷は既に塞がっており、そこには痛々しい傷跡が新たに刻み込まれていた。
開いた右目には瞳は無く、代わりに青色の玉石が入っている。
「しかし、これだけ手痛く教えればまだ使い物になるかとも思ったが、言葉も喋れん、右目も目立つとなれば……もう暗殺者としては使い物にならんな」
一命こそは取り留めているものの、その姿は既にショテルの得意とする人族の中に紛れ込んでの潜入は不可能であると一目で分かるほどだ。
正面戦闘は不得手、潜入も人族であることを利用した潜入や諜報が多かったため、喋れない事も容姿の不自然さも致命傷となる。
「ならもうお前はこの連盟には要らん。何処へでも行って野垂れ死ぬといい」
「……!」
トラオアはそう言ってショテルの頭を軽く撫でると、すぐに立ち上がり部屋を出て行こうとした。
ショテルは飛び起きるようにしてベッドから立ち上がり、一度立ち止まってくれたトラオアに言葉を投げかけようとしたが、その言葉は紡がれない。
故にショテルは深く、深く頭を下げて言葉で伝えようとしていた思いをトラオアの背中に伝えた。
二人の間に言葉は無かったが、それでも十分想いは伝わっただろう。
トラオアが部屋から離れると、ショテルは今一度自らの手を見つめ、覚悟を新たに部屋を、そしてスケアクロウのアジトを出て行った。
暮れゆく帝都の夕闇の中をショテルは音も無く駆けてゆく。
もうその容姿では人混みに紛れ込むことも出来ぬため、細く狭い路地の裏を小さな影が駆けてゆき、帝都を抜け、森の中へと進んでいった。
ただ走るだけでも隻眼になった代償は大きかった。
平衡感覚が掴みにくく、山道では何度も踏み外しそうになりながらも誰にも見られぬように人通りが無くなるまで山の中を駆けてゆく。
これから先、この代償を背負い生きていかなければならない以上、ショテルはすぐにでも慣れる必要があったため、陽が沈みきるのを待つという選択肢は無かった。
傷だらけになりながらも進み続け、夜が来たことを月明かりが知らせる中、ショテルはサイの住む国まで辿り着いた。
「……」
「無事……ではなさそうですね。ですが、貴方は確かにここに戻ってきました。でしたら私も貴方が望むことを教えましょう」
サイの元へ再び訪れたショテルは、今度はとても軽装なままだった。
音も無く現れたのにも拘らず、サイはやはりショテルの存在に気付き、静かに頭を下げたショテルにそう声を掛けた。
失った物はとても大きい。
だがそれでも、ショテルの心に後悔は微塵も無かった。




