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命の在り方  作者: けもにゃん
47/81

魔導師として 28

 思いがけぬフルークシの来訪は、彼等のずれ始めていた歯車をうまく噛み合わせてくれる切欠となってくれた。

 サイの記憶が記録されているその魔道具は、正に『サイから見た記憶』そのものであり、今は封印され見る事の出来なくなってしまった記憶の代替としてはこれ以上ない程に最適な物だ。

 そこでプロデジュムがエスペンスを説き伏せるようにお願いすることで、魔法式の方向性は今まで通りサイの記憶を呼び覚ますことで決まりとなる。

 しかし考え方は一つだけ大きく変わった。

 今までは封印された記憶を解き、今ある記憶の中に前の記憶を引っ張り出すというような考え方の下構築式を考えていたが、この方法では謂わば絵の具を混ぜ合わせるような危険を伴う手法である。

 黒い絵の具に元あった幸せな記憶という色とりどりの記憶を混ぜ合わせれば、それらの色は全て混ざり合い混濁色と成り果ててしまう。

 そのための布石となった記憶は負の記憶と共にあるため、記憶そのものが曖昧になり、上手く思い出せなくなることが殆どとなる。

 更にもしも黒い絵の具である負の記憶の総量が、元の記憶よりも多ければそれこそ最悪の結果である『二度と呼び覚ます方法が無い状態』に自分達から近付けてしまう行為だ。

 故に無謀すぎると計画を根本から見直していたが、サイの記憶に酷似した記録が手元にあることと、アグニの意外な申し出が元で全ての道筋が定まった。


「例えば、私がそのサイの記憶を自分の事のように思い出せるほど覚えて、それを直接サイに届けてやるようなことは出来ないのか? もし、私の精神を介してそれが出来るのであれば幾らでも私の身体を使ってほしい」


 記憶を引っ張り出すのではなく、外から新たに与える。

 これは今までの考え方と方法こそ同じものの、全くの別の視点からの試みであったため、エスペンスですら盲点だったようだ。

 更に言えばアグニが記憶を覚えると言ったことも現実味を帯びさせる良い切欠となった。

 映像という記録媒体だけでは難しかったかもしれないが、それを誰かが覚える。つまり誰かの精神的な情報としてであれば意識同士であるため介入することも容易である。

 更に言えば本人の記憶以外である他者の記憶を利用すれば、先程の絵の具を薄めるような作業を本人の記憶を浪費せずに行うことが出来るため、全体的な危険性がぐんと低くなる。

 そして他人に自分の見た記憶を見せるという魔法は既に存在する。

 それこそ正にサイの記憶を見た時の魔法が、原理としてはほぼ同じものであるからだ。

 絶望への道を直走っていたはずの彼等の顔にはいつの間にか笑顔が取り戻されていた。

 プロデジュムは今までの構築式の根底を見直しつつ、対象の記憶を別の対象へ送る魔法として魔法式の構築を進められるようになった。

 同様にアグニの記憶をプロデジュムの魔法により、サイへと送りこむということが明確になったため、ずっと方向性が分からずに悩んでいたニコロスの機械マキナも魔導師であるプロデジュムは考慮から除外し、装置の全てを非魔導師であるアグニの保護や補助の為に作り替える方向で定まった。

 アグニも何も出来ないと思い詰めるような日々が続いていた中、自分のサイへの思いがそのままサイを救うことになるという彼女にとっては願ってもない大役を任されることとなる。


「言い出しはしたが……本当に私なんかでいいのか? プロデジュムの方がサイとの付き合いは長いのだろう?」

「確かにそうだが、私は構築式を考えるので精一杯だ。だが、君以上の適任はいない。寧ろ君にしかお願いできない事でもある。と彼女の受け売りをそのまま君に伝えるよ」

「ムターシャが? それこそムターシャの方がいいんじゃないか?」

「何? わざわざ口にしないと分からないの? サイを想う気持ち、この一節の間ずっと傍から見ていたからこそよく分かる。私なんかじゃ到底及ばない程貴女の方がサイの事を大切にしてる。……私はサイとの間に色々あったから、貴方みたいに純粋にサイの事を想うことは出来ないの。だからお願い。同じ気持ちを抱いた者同士のお願い」


 少しだけ戸惑いを隠せていなかったアグニの手を取り、優しくその手にムターシャは自分の手を重ねる。

 二人だけにしか分からない、サイへの特別な思いをアグニはムターシャからしっかりと受け取ったのか、覚悟を決めたようにアグニの顔からは戸惑いが消え失せていた。

 それからの彼等に迷いはなかった。

 プロデジュム、ニコロス、アグニの三人を中心として計画は進んでゆき、フィルメーサ、ノーティ、ムターシャのルームメイト三人はアグニと共にサイの身の回りの世話を続け、ダンケンとネルンの二人はプロデジュムとニコロスの補助として動き回った。

 サガスティスは金銭面の補助と講師陣の動向の監視、エスペンスはプロデジュムと構築式を考えながら同時に精神魔法の扱い方を個人的にプロデジュムへと教えてゆく。

 順風満帆とまではいかないが、間違いなく誰の目にも希望が見えていた。

 轟雷を伴う雨の多い雷の節を過ぎ、穏やかな雨が増えた水の節へと移り変わってゆき、サイが倒れた日から三節の月日が流れた。

 既にそれは竜族ドラゴス達にとっても短くはない期間。

 サイの為に多くの時間を費やしながらも、彼等はその間にもサイの為ではあるがもう勉強をしていた結果、既に中級学位の中でも一等級まで評価が上がっていた。

 プロデジュムは既に上級学位へ上がる資格も有していたが、敢えて最終試験に臨まず、サイの為に時間を全て捧げるほどになっていたこともあり、魔法式は既にほぼ完成している状態にまで仕上がっていた。

 ニコロスは既にサイの為の研究や、元々作り上げていた機械マキナ等が評価されて上級学位へ進級していたが、彼の生活は然程変わってはおらず、講義が終われば研究室に篭って開発の日々のままだ。

 ダンケンとネルン達との交流も長くなっていたためか、この頃には既にほぼ魔道具の仕組みや魔法を使うまでの流れ等を把握しており、開発は最初の頃とは比べ物にならない程順調に進んでおり、こちらも既に最終調整を残すのみとなっていた。

 アグニもニコロス同様、サイの為により一層打ち込んでいた肉体強化と精神統一の甲斐もあり、上級学位へ既に昇級していた。

 プロデジュムの考えている魔法の効果は強い肉体に宿る魔力オーラがあれば、それだけ強力なものになると聞いているため、ただでさえ強かったのにも拘らずより一層強くなっていた。

 精神を干渉させる魔法であるため、より記憶を詳細に想像することが出来ればできるほど、サイに掛ける負担が少なくなるとも聞いていたため精神統一にも余念がなく、既に名のある剣士顔負けの集中力まで手に入れていた。

 心技体はそうして極限を超えるほどまで鍛えていたが、それと同時にサイの記憶を見ることを一日たりとも欠かさず行い、見た映像をしっかりとイメージするトレーニングにも余念がない。

 全てはサイの為であった彼女は、既にその映像記録をしっかりと思い出すだけに留まらず、自分の記憶の中にあったサイをしっかりと思い出すことすらできるほど想像力が豊かになっていた。

 そんな日々も数週間後にはようやく終わりを迎えることとなる。

 遂にプロデジュムの魔法とニコロスの機械マキナの最終調整が完了し、実際に使用することが可能な段階に到達したからだ。

 上手くいけばこれが最初で最後の試行となり、皆の努力は報われることとなる。

 例え上手くいかなかったとしても安全面の保証はエスペンスのお墨付きであり、これほどの速度でこれほど精密且つ安全な精神魔法を作り上げたプロデジュムの才能に思わず舌を巻くほどだった。

 その上、誰もが三節でこの段階まで辿り着けるとは考えてもいなかったからこそ、完成した時点でその感慨はとても深いものとなる。

 思わず目頭が熱くなるが、泣くのはまだ早い。


「さあ、サイを起こしてやろう」

「ああ。私達とサイとが歩んだ日々は無駄ではなかったと教えてやらなければな」

「最後は全員でだ! 行くぞ!」


 そう口々に言いあい、その日の講義が終わると皆サイの待つ寮室の一室へと集まってゆく。

 三節。それは竜族ドラゴス達にとっても短くはない期間。

 サイにとっては十分に長過ぎるほどの時間。

 ただ眠り続けていたサイの身体は枯れ枝のように痩せ細り、今も虚空を見つめ続けている。

 一人また一人と集まってゆき、次第に部屋が狭く感じるほどになった頃、全員が視線を合わせて深呼吸し、魔法を使うための準備に取り掛かってゆく。

 サイの横たわるベッドの横にニコロスが新たに作り直した装置を設置し、その装置の円状のいた部分にアグニがそっと左手を乗せ、右手で優しくサイの手を掬い上げる。

 エスペンスに今一度精神を集中するように促されながらプロデジュムは静かに意識を精神界メンタリカだけに集中させてゆく。

 描きあげられた魔法陣はアグニの背からアグニを通してサイへと伝わってゆく。

 それに合わせてアグニは精神を集中し、サイの記憶や自分から見たサイの記憶を深くしっかりとイメージする。

 その際に発生する精神への負荷は魔法使いではないアグニにはかなりの負担になるため、アグニが左手で触れている機械マキナが稼働し、その精神負荷の肩代わりを行い始める。

 全ての想いが一つの形となってサイの中へと注ぎ込まれてゆく。






     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇






 それは暗闇と呼ぶにはあまりにも不適切なほどの漆黒。

 光も届かぬ深海の奥底のような中で、静かにその黒の中に体を預けていた。

 光が無ければ音も無い、温度も何もかもが無い本当の意味での無の世界。

 そんな漆黒の海で微睡むようにサイは眠っていた。

 だが、何も無いはずの世界に何処からか音が響いてくる。


「誰?」


 口に出した言葉は何も無いはずの空間に何度も反響するように響き渡り、自分が喋ったのだということを理解する。

 無論問い掛けに対して答える者などいない。

 ここはサイの精神世界。

 サイの原点にして、サイが選んだ最も心落ち着く世界だからだ。

 死をも彷彿とさせる何も世界に身を浸しながら、サイは自室でくつろぐ様にその空間で微睡みながらただ漂っていた。

 自ら死を選ぶことは許されなかった。

 自分という人格は否定されても、人族じぶんという存在は必要であるため、命令されるまで死ぬことすら許されていない事を学んだからだ。

 名前もない、意思もない、ただ生まれ出て、ただ死にゆく命。

 それが彼だった。

 だからこそ、彼に話し掛けてくる物などいない。

 いる筈がなかった。

 だが次第にその世界に何かの色が見えた気がした。


「これは何?」


 吹けば消えるような薄明かりがふわりと宙に浮かび、サイの姿に輪郭があった事を思い出させる。

 そしてその薄明かりから音が漏れ出していることが分かった。

 その音は上手く聞き取れず、その明かりには何が映っているのかも分からない。


「なんだろう……これ……」


 そっと手を伸ばして触れればそれは忘れていた温もりを思い出させる。

 言葉にはできない何かが胸の中に溢れて、それが胸でつっかえる様な感覚に襲われる。

 暖かく、美しく……そしてどこか懐かしいような気がする靄のような光。

 しかし手元にあった一つがふわりと消えてゆく。

 それが何かを思い出すよりも先に消えてしまった。

 そこでサイは思わず辺りを見渡した。

 何も見えないはずの世界で、意味の無い行動をしたはずのサイは、その光景に目を奪われる。

 薄靄が辺り一面に、星屑のように散らばり、騒がしく何かを伝えてくるではないか。

 誰が言ったわけでもないが、間違いなくその明かりの一つ一つが自分に語り掛けてきているのだと、サイには何となく理解できた。


「覚えている気がする……。前にも……何処かで……」


 無数の光は何時の間にか視界の前に溢れ、黒しかなかった空間に様々な色をもたらしては明滅する。

 その光景はまるで……。


「そうだ……懐かしいな……。あの人に初めて見せてもらったあの景色のようだ」


 気が付けばサイは考えていたことを口に出していた。

 そして口にしたからか、サイは遂に考え始めた。

 『あの人』とは誰だったのか。

 いる筈もない人族じぶんを呼ぶ誰かの声、誰かの姿、誰かの手……。

 途端に足元から眩い光が沸き上がり、光が粒子のようになって飛び交っては一斉に喋り始める。


「君は今日からサイだ」

「美味しいかい?」

「すまなかったな……。そんなに寂しかったか……」

「サイ。君は間違いなく天才だ」

「ハハハ! サイが祝ってくれるのか」


『沢山泣きなさい……。いつかこの日の思いが笑顔でいられる明日になるために……。忘れないために……』


 忘れたくても忘れられない声が一斉にサイに向かって語りだし、ただの光の粒子でしかなかった粒達は懐かしい記憶を次々と映し出してゆく。


「ドレイク……さん」


 溢れ出た記憶を見て、いないはずのサイじぶんの名を呼ぶ人の姿が鮮明に蘇る。

 楽しかった記憶、悲しかった記憶、沢山の初めての経験と……そして辛い別れの記憶……。

 胸の中が熱くなり、頬を熱が伝い落ちる感覚にサイは気が付いた。


「そうだ……まだやり遂げてない。行かなくちゃ」


 溢れ出る記憶に呼応するように靄のような光たちもその姿を鮮明に映し出す。

 ムターシャやフィルメーサ、ノーティ達との下らない会話。

 初めて見た夕焼けに染まる町の空。

 サイを中心にして集まる沢山の生徒達との楽しい勉強会。

 アグニとの出会いと不思議な二人だけの会話。

 ニコロスとの奇天烈な時間と本気で夢を語り合った時。

 思い出してゆく度に黒を探す方が難しい程になり、辺りは光で埋め尽くされてしまう。


『何処へ行くの? どうせすぐに此処へ戻ってくるのに』


 光の中へと歩き出そうとした瞬間、サイの後ろからよく聞き覚えのある自分自身の声が呼び掛けてきた。

 その言葉には多くの憂いと、同情のような感情が込められているように感じる。


『そこは僕の生きる世界じゃない。僕は初めから生きてなんかいなかったんだ。ここで終わりが来るのを待っていればいい。それが僕の生きる世界だ』

「そうでしょうね」


 その言葉には悪意はない。

 間違いなくサイ自身の本心だと、歩き出そうとしていたサイ自身にもよく分かった。

 幾ら思い出しても、幾ら必要とされても、それを心の底から望み、同じく生きたいと願っていた理由はもうこの世にはいない事をサイ自身が良く理解していた。


『じゃあなんで行くの? また辛い思いをして、ここへ帰ってくる。そうでなくてもどうせあと数節生きられるかも分からないのに』

「ドレイクさんの為です。僕はまだドレイクさんが間違っていなかったと証明できていません」

『嘘だ。もう自分でも分かってるくせに』


 歩みだそうとするサイの言葉に対して、後ろから問いかけるサイの言葉は暗く重く、そして自分の本心であるが故に否定できない。

 だが、それでもサイはその場から決して動かず話し続け、そして少しだけ後ろを振り返って微笑んだ。


「そうですね。今はただ、これ以上みんなを待たせるわけにはいけないと思っている。ただそれだけです。それ以上の事は考えていませんし、今更後悔なんかしていませんよ」


 その言葉を最後にサイは眩い光の中へと歩みだし、輪郭すら分からないほどの光に包み込まれる。

 黒が全て塗り潰されてゆき、眩い光だけが全てを包み込み照らし出す。


『待ってるよ……いつでも』


 光に飲み込まれてゆく中、もう一つのサイの声が最後に微かにそう聞こえた。






     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇






「もう限界だ! 流石にこの出力を維持し続けてたらこのままじゃ機械マキナが吹っ飛ぶぞ!」


 アグニの送る記憶の一つ一つをより鮮明に映し出すために作られた機械マキナは、既にニコロスの想定していた出力の限界を出し続けていたため警報音が鳴りっぱなしになっていた。

 だが限界が近いのは機械マキナだけではなく、ずっと上級魔法を精神を乱さぬように唱え続けているプロデジュムも、サイの記憶や自分自身の記憶を思い出し続けているアグニも慣れない魔法の断続使用が原因で随分と精神が擦り減っている。

 サイの意識が呼び戻されているのか、手応えのない魔法を使い続ける時間は誰にとっても辛く、そしてただただ信じるしかない。


「プロデジュム君。もうここが限界だ。これ以上はアグニ君やサイ君の身体が持たない」


 エスペンスに制止され、プロデジュムが全神経を集中させて唱え続けていた魔法が遂に解除された。

 途端にプロデジュムとアグニは椅子の背もたれに身体を預け、慣れない精神疲労にただぐったりとする。

 理論上はこの魔法でサイの心に呼び掛けることで、リスクを最小限にしてサイの精神を呼び覚ますことができる。

 だが、その魔法はプロデジュムの手によって新しく作られたものであり、使ったのはこれが初めてだ。

 何の保証もない。

 後はただ、サイが目を覚ますことを信じてただ待つことしかできない。

 皆の疲労感は大きかったが、それ以上に一分経ち、十分経っても何も起きる気配のないその状況がただ、彼等には絶望の色を濃くさせてゆく。


「……十五分経った。精神魔法を使用された対象者が目覚めるまでの限界時間だ。目覚めないのであれば……残念だが失敗だ。そして……もしも明日になっても目を覚まさないのであれば……その時は皆、覚悟をしてくれ」


 そうサガスティスが告げる頃には既にサイが目を覚まさないまま二十分が経過していた。

 誰もがその事実を信じたくなかった。

 だが誰かが告げねば起きる事のない奇跡をただただ待ち続けることになる。

 先に席を立ったのはエスペンスとサガスティスだった。

 アグニとプロデジュムは単に精神疲労が原因で立ち上がれなかっただけだということもあったが、それでも共に学び、共に笑い、同じ目線からサイと付き合っていた者達にとってその事実はただただ辛かった。

 今はまだ失敗しただけだ。

 だがもし、この先もずっと目を覚まさなければ、サイはただの人族ヒュムノに戻ってしまうことを意味する。

 それはある意味では幸福なのかもしれない。

 だが、今はそれを望まない者達が、少なくともこの場に八人もいる。

 だからこそせめて目を覚ますところだけでも見たかった。

 祈るような思いで待つ事一時間。

 遂にサイが目をゆっくりと開いた。


「サ、サイ! 分かるか!? なんでもいい、喋ってみてくれ!」


 真っ先に気が付いたノーティが飛びつくようにサイに近寄り、言葉を投げかけた。

 開かれた瞼はそのままゆっくりと閉じ、またゆっくりと開く。

 だが目の前に見える沢山の友人達の顔を見ているようには思えない。

 分かっていたはずだが、信じたくなかった。

 だがそれと同時に彼等の中に希望が見えたためか、ようやく皆の顔に笑顔が取り戻された。


「大丈夫だ。まだ希望はある。もっと正確に、もっと綿密に計画を練り直そう」


 そう言ってプロデジュムは先程までの疲れも忘れて、魔導師達で嬉しそうに語り合った。

 アグニはただ、サイが目を覚ましてくれたことが嬉しく、魔法を使った時のように優しく枯れ枝のようになってしまったサイの手を拾い上げた。


「大丈夫だ……、サイ、少しだけ待っててくれ」


 そう優しくアグニはサイに語り掛けた。

 ――ほんの僅かだが、アグニには何かが聞こえた気がした。

 希望が見えた事で魔導師達は嬉しそうに次の事を語り合い、ニコロスは機械を見つめながら次の為の改善点をブツブツと考えている。

 だからこそそれはただの気のせいだったのかもしれない。

 そう思えるほどにか細い声で、アグニの耳には確かにこう聞こえていた。


「おはようございます。アグニさん」


 もう一度アグニはサイの顔を覗き込む。

 今度はその声を発する瞬間を決して見逃さないために。


「サイ! もう一度……もう一度だけ口にしてくれ!」


 その声を聞いて魔導師達もニコロスもサイの元に集まった。

 瞳は何処を見つめているのかも分からない。

 触れているサイの手に力が籠っているのかも分からない。

 だがその時、誰もがサイの唇が揺れた事を確信した。

 長く喋っていないため、サイの言葉は声になっていない。

 喉の筋肉もすっかりと衰えているため、話すということができないほどになっていた。

 それでも確かにサイの呼吸音が聞こえ、僅かに空気を揺らした。


「おはようございます。皆さん」


 今度は確かにアグニの思い違いでもなく、皆の方を瞳で追いかけるように動かしながら、そう言ったように感じられた。

 出来る事ならば、今すぐにでもサイを抱き上げたい。

 だがそんな沸き上がるような感情を押し殺すようにして、ただ嬉しさを誰もが瞳から溢れさせ、止めどなく溢れるそれを拭うことすらできなかった。


「よかった……よかったっ……!」


 多くの涙に迎えられながら、サイは確かに帰ってきた。

 その吉報が中級学位の全員に知らされるまでに掛かる時間はあっという間だった。

 だが、残念ながらまだサイが皆と会話できるようになるのにすら、時間が必要なほどサイの身体はやせ衰えていた。

 三節もの間ただ眠り続けていたサイの肉体は、とてもではないが日常生活を送る事すらできないような状態であり、まずは日常生活を送るためのリハビリから始まることとなる。

 筋肉というものは身体を動かすバネであると同時に、骨や関節、筋等の身体を支える機関へ負担がかからないようにするためのクッション材のような役割も果たしている。

 それが無くなっている今、サイはただ横になっているだけでも恐ろしいほどの負担が身体に掛かっていることとなっているのだ。

 それを取り戻すためのトレーニングはそれこそ尋常ではないほどの苦痛を伴う。

 節々の痛みに加え、失われた筋肉が再生するための筋肉痛。

 多くの者がリハビリを諦めてしまうほど、一度普通の生活ができないレベルまで落ちてしまった筋力を取り戻すのは相応の覚悟が必要になる。

 だが、サイにとってそれは十分に耐えられるものだった。

 記憶を取り戻した今、ドレイクとの生活の間にやっていたことも、このリハビリ生活の延長線上のようなものだったからだ。

 奪われるだけの痛みとは違い、その痛みも苦しみも、乗り越えた先には待っている人がいることをサイは理解していた。

 そんな生活が終わりを告げたのは案外早く、三ヶ月後にはサイはようやく皆の前に顔を出せるようになっていた。

 というのも今回の一件で露見したサイの過去は、魔導師の講師陣に与えた衝撃が大きかった。

 反人族ヒュムノ派だった者達は、サイが復帰したことによりこの過去について暴露されることを恐れた。

 人族ヒュムノが奴隷としてこの社会に受け入れられた時点で、人族ヒュムノの扱いには明確な規則が設けられている。

 最低限の一種族としての扱いはしなければならない。

 家畜や道具のように扱うことは違法であるため、もしもこの実験用奴隷という存在そのものが暴露されれば魔導師全体の立場が危うくなる。

 故に手出しができなくなったのだ。

 下手を打つことができない以上、寧ろ丁寧に扱い、その事実を公表させないように根回しすることが賢明であると考え、今回のリハビリを行っていた期間の間、以前サイが大怪我をした時とは真逆で、手厚いサポートが魔導学部より行われたことが三ヶ月で復帰できた一番の理由となる。

 とはいえ、流石にまだ完全に通常通りの生活を送れるというわけではない。

 サイ用に特別に作られた歩行補助用の杖を使い、両腕と両足の四点で全身を支えながら歩くことで何とか普通通りの生活を送っていた。

 それでも必要以上の行動が出来るわけではないため、当然剣術部は当分の間出ることもできず、自宅での筋力トレーニングを欠かさず行い、リハビリを続ける日々となっていた。

 更に言えば、講義へ出席できる時間数も大幅に制限を掛けられた。

 単純に朝から晩まで講義に出席できるほど体力が持たないからだ。

 様々な制限と補助を受け、少しずつ筋力も回復してゆき、サイが倒れた日から三節と半月、サイはようやく杖を突きながらだが全ての講義に出席できるようになった。


「お帰り。サイ」

「申し訳ありません。皆さん。随分と心配を掛けてしまったようですね」


 もう、サイを迎える生徒達の目には暖かい眼差ししかなかった。

 そこには確かにサイの居場所があり、ようやくサイがそのぽっかりと開いていた穴を埋めたのだ。


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