竜人と少年 3
朝、いつもと同じ時間に、誰に言われるでもなく、少年は重たい瞼をゆっくりと開いてゆく。
少年にとって、起床というものは苦でしかなかった。
『目が覚めれなければいい』
何度もそう願った少年はその日、初めて目の前に写る景色を見て、そんな思いが湧かなかった。
少年を包み込む世界は白、重苦しく、圧迫感のある鈍色の世界はそこにはなかった。
柔らかで嗅いだこともないようなとても清潔感のある匂いが、少年をもう一度安心させた。
そこで少年は久し振りに自分から起き上がった。
すると視界を埋める白は、するりと少年に心地良い刺激を与えながら滑り落ちた。
しかし、両腕を使って上半身をむくりと持ち上げた少年に飛び込んだものは、彼が今まで経験した事のない出来事だった。
燦々と降り注ぐ光が少年の視界を奪っていった。
びっくりして目を閉じると、黒いはずの瞼の世界までもが朱い色に染まっていた。
少年の知る世界には、朝の温かな日差しも、柔らかなタオルケットの感触も無かった。
もし貴方がそんな光景を初めて見たのならどうするだろうか?
恐らく、普通の少年なら泣いたり、喚いたりして、周りに助けを求めるだろう。
だが、少年はただその日差しをそっと耐えていた。
両手で目蓋を押さえ、目に入る日差しを遮って、ただじっと耐えた。
「おはよう。おや? どうしたのだ? サイ」
サイが朝の日差しを耐え始めてから数分と経たない内に、寝室にやってきたドレイクは、おもわずその珍妙な光景をサイに訪ねてしまった。
それもそうだろう。
寝室のドアを開けて、サイはまだ安らかな寝顔を浮かべているだろうと想像して入ってみると、ベッドの上に座り込んで、顔を押さえる少年の姿がそこにあったのだから。
「ああ、成程。今日は日差しが強かったからね。カーテンを閉めるのを忘れていたよ」
窓の方を見て、目を細め、納得したドレイクは、そう言いながらカーテンをシュッと閉めた。
部屋にはカーテンを閉めてもなお、光が強く差し込み、部屋をうす明るく照らしている程度になっていたが、しっかりと両目を押さえている少年は、そんな変化など気付くはずもなく、そのままじっと耐えていた。
「ほうら、目を開けてご覧。サイ、もう朝だ。日差しももう、差し込んでいないよ?」
そう言いながらドレイクは、顔を覆う両手を優しくどかした。
すると少年も気が付いたのか、ゆっくりと目を開けた。
そこに映ったドレイクの顔を見て、少しの間ただただじーっと目を見つめていたが、少ししてほんのりと微笑んだ。
少年にとって、その感情は知らないものだった。
彼の知る感情というものは、恐らく恐怖だけだろう。
恐怖には耐えてきた。
涙を流してはならない事も学んだ。
叫んではならない事も学んだ。
痛みはただ、耐え凌ぎ、決して逆らわない事も学んだ。
だからこそ、怒ることも、喜ぶことも、ましてや笑うなんてことは知りもしなかった。
だが、少年の瞳を真っ直ぐ捉える、その優しいドレイクの瞳を見つめていると、フツフツと心の奥底から湧き上がってくるため、抑えられなかった。
「おはよう。さあ、朝食が出来ている。一緒に食べよう」
どちらが先かは分からないが、ドレイクも陽光のような柔らかな笑みを浮かべてサイにそう言い、彼の小さな身体をヒョイと持ち上げた。
そのまま廊下を抜けて、少し歩き、小部屋の椅子にサイを座らせてあげた。
その小部屋は今まで二人が移動した部屋の中で、最も人が住んでいるような雰囲気のする部屋だった。
よく分からないが、とても綺麗な小物が部屋の隅の方に飾ってあり、部屋全体は掃除が行き届いていてとても清潔感に溢れていた。
中央には少人数が座るのに適した小さな机と椅子があり、椅子が二つ机を挟んで置かれていた。
既に机の上には出来たばかりの料理が並び、嗅いだだけでお腹が鳴ってしまいそうなほどのいい匂いを湯気と共に漂わせていた。
サイを座らせてあげて、すぐにドレイクも反対の椅子に座ったが、たったそれだけの間にサイは目の前の見たこともない物に、目も、鼻も、口も支配されていた。
本能的におもわずその料理に飛びつきそうになるが、『食べろ』と命令されていないサイは既のところで留まった。
しかし、その目の前の文字通り御馳走はサイにとっては我慢できるような物ではないため、口からは初めて涎が垂れていた。
恐らく、自分から目の前にある物を食べたいと思ったのは初めてだろう。
「ハハハ、そんなにお腹が空いていたか……。無理もないな。だが、行儀は大事だ。サイ、私の真似をしてご覧」
ドレイクは、そんな到底人とは思えない『はしたない』行為を声に出して笑い、そう言った後、お腹の前に両手の親指の先を合わせ、他の指を重ね合わせた小さな輪を作り、目を閉じて軽く頭を下げた。
「こうだ。サイもこれをしたらお食べ」
それは坐禅のようにも見えたが、どうやら意味合いとしては『いただきます』に近いもののようだ。
所謂食事のマナーだが、サイにはそんなもの分からない。
ただ『お食べ』と聞こえたから、目の前にある物に今まででは有り得ない速度で手を伸ばした。
「ぎゃうっ!?」
罰が当たったとでも言うべきか、ものを知らないだけか、熱々のベーコンエッグに手を伸ばした途端に、サイはそんな悲鳴を上げた。
「大丈夫か!? 手を火傷しただろう? 見せてご覧」
悲鳴を聞いた途端、ドレイクは慌てて立ち上がり、サイの手を取った。
サイの小さく細い指は思っていたほど大事にはなっておらず、指の先が少々赤くなった程度だった。
それを見て安心したのか、ドレイクはホッと溜め息を吐いた。
「大丈夫。そんなに急く必要はない。誰も取りはしない。ゆっくりお食べ」
行儀の悪い行いをドレイクは一切怒らず、優しくそう言った。
そうしてドレイクが席に着き、ナイフとフォークを使って食事を食べ始めた。
するともう一度、サイの悲鳴が聞こえた。
それを見てドレイクはまたしても肝を冷やしたが、先程ので少し警戒していたのか、怪我はしていなかった。
「すまないね、サイ。私は君に少し意地悪をしていたようだ。フフ……それにしても、手間のかかる子供だ……。どれ、食べさせてあげよう」
誰に言うでもなく、ドレイクは独り言のように呟いて、皿の上に乗っているベーコンエッグを一口サイズに切っていった。
そしてそれを一つずつスプーンの上で冷まし、食べられる程の温度になると、サイの口へ運んだ。
それを見てサイはとても警戒していた。
流石に二度も同じ目に遭えば自然とそうなるだろう。
「今度は大丈夫だよ。お食べ」
ドレイクがそう言って微笑んだからか、『食べろ』と言われたからか、目の前のスプーンの上のベーコンエッグの一欠片を口にした。
「こらこら。スプーンは食べ物ではないよ。そんなに強く噛んだら歯が折れてしまう」
サイが口に含むと同時に、ガチッという鈍い音が聞こえたため、急いでスプーンを口から出させた。
サイにとってはスプーンが噛み切れなかったことも驚きだったが、もっと素晴らしい驚きが口の中で広がった。
その感情の表現の仕方は知らないが、またしても自然と笑みが溢れた。
温かで、今のサイには表現のしようもないほどの美味しいという思いで満たされた。
サイの笑みは、初めこそ口角が僅かに上がるような程度のものだったが、あっという間に純朴な少年と変わりない、しわくちゃの笑顔が溢れた。
それを見てドレイクもおもわず口角が上がった。
「美味しいかい?」
ドレイクはそう聞きたかったが、ドレイクはそのまますぐに次の欠片をナイフを使って器用に乗せて、冷ましてからまた口の前へ運んだ。
今度は『食べろ』と言われる前に、サイの方からスプーンを口に含んだ。
そしてスプーンは食べられないことを理解したのか、噛み付かずに文字通り親が子供に食事を与えるように、スムーズにスプーンだけを口から取り出せた。
それからはただ黙々と食事を口へ運んでいった。
ドレイクとしては、本当は色々と話しかけたかったが、全てはサイのその笑顔が物語っていた。
「ご馳走様。さあ、食事が終わった後もやるんだ。真似してご覧」
サイの食事に付きっきりで食事を済ませ、物足りなそうにしていたため、自分の分までサイに与えたドレイクは、一つ満足そうな笑みを浮かべて席に着いた。
その後、そう言ってドレイクは食前と同じく輪を作り、サイにしてみせた。
勿論、ドレイクも期待などしていなかった。
先程出来なかった事が、いきなり出来る訳がない。
だが、目を開けたドレイクは驚かされた。
歪ではあったが、そこにはドレイクの真似をするサイの姿があった。
「そうだ……そうだ! 偉い! 偉いぞ!」
そう言ってドレイクは、今までで一番の笑顔を見せてサイの頭を優しく撫でた。
そしてサイがまた笑うと、今度は優しく抱きしめた。
「大丈夫……。大丈夫だ。サイ。君をきちんと一人前の子にしてあげる」
抱きしめながら優しくサイの頭を撫で、ドレイクは小さくそう呟いた。