竜人と少年 16
サイの精神が集中しきると精神世界上で魔法陣を成型し始めた。
ドレイクが行ったように誰もが認識できるものではなく、精神世界が認識できる者にしか分からない空間でだが、確かに宙に円を描き、次々と細やかな構築式まで構築していった。
「繊細なる焦火炎の柱!」
そして魔法の構築が完了するとサイはそのまま魔法を宣言し、魔法陣をサイの掌の前に出現させ、そこから巨大な火柱を真っ直ぐに伸ばした。
炎が消えた後の氷は見事に溶けており、幅はサイよりも二回り程大きく、丁度アツートが屈めば通れるぐらいの大きな穴を空けてさらにゆっくりと解けていた。
すぐにサイは次の魔法の詠唱を始め、その溶けて流れ出す氷水めがけて次の魔法を放った。
「繊細なる極凍の吐息!」
次の魔法が発動すると周囲の溶け出していた氷水があっという間に元の氷になり、そのまま熱で氷が溶ける心配をする必要がなくなった。
更によく見ると、氷は明らかに元の氷よりも丈夫な状態で凍結しており、洞穴の壁は少し擦った程度では崩れない程度には頑丈になっていた。
「行きましょう……。少しでも早く戻らなければいけないんです」
アツートは静かに頷いて、フラフラと先を行くサイの背中を追いかけた。
口にこそ出さなかったがアツートはサイのその魔法を見て、心底サイ自身にも驚いていた。
サイは魔法を使えるようになり、実際に今目の前で氷を一瞬で溶かしてみせた。
それだけの力を手に入れたのにも拘らず、サイは今までひた隠しにし、ドレイクを救うためだけにその全力を注いでいることが、アツートにとっては正直な所信じられなかった。
「……君は何故、魔法を覚えたんだ?」
「魔法に限らず、僕が何かを覚える度にドレイクさんが褒めてくれるからです。それ以外の理由はありません」
「そうか……」
アツートでさえ、魔法を使えるようになりたかったのは更なる医療の発展のため。
言い換えれば自分が更に医者として優れた存在になるためだった。
サイにはそれがない。
ただ褒めてもらえるという欲求のために魔法を覚えたからこそ、ドレイクの非常時以外に使う気すらなかったという事こそが驚きの理由だった。
純粋だったからこそ、サイは魔導師になれたのだろう。
アツートはただ静かにそう心の中で呟き、サイという小さな魔導師を静かに褒め称えた。
それからも変わらず、サイは来る時に使った灯による魔素の僅かな変化を辿り、同じ道を穴を空けながら真っ直ぐ進んでいった。
その際、魔法を使う度にサイはランプの中に入っている炎晶石を取り出して魔法を唱え続けていた。
サイがランプを持ち出した理由の一つは、この帰り道で効率良く外魔力を行使するためだった。
魔素を行使しての魔法は、可能な限り使用する魔法と同系統の魔素を集めるのが最も精神力に負担を掛けなくなる。
理由は単純で、行使する魔法と魔素の属性が同じか同系統であれば行使する魔法に引っ張られてそのまま魔法に流れてゆくことが多いからだ。
逆に反属性の魔素から魔力を受け取れば、勿論ほぼ全ての意志が残り、精神力でそれらを押さえなければならなくなる。
精神力もそれほど高くないサイはそのためにサイは氷と炎の魔素を行使する事を選択した。
もう一つの理由はランプを使用することで、同様に炎の魔素を周囲に少し放つからだった。
行きの際は可能な限り、魔力の消費を抑えるために効率を重視した魔法を使い、帰りのことも想定して精神力を可能な限り消耗しないようにした。
故に帰りでのサイの精神は消耗していたが、それでも同様にドレイクの元にアツートを送り届けるまでは死なないために今度は外魔力を中心に魔法を行使していった。
戻り始めておおよそ半ば頃、サイは一度氷と炎の魔素の意志で体温の調節ができなくなり、倒れそうになるが必死にアツートに気取られないようにするために耐えた。
勿論アツートもそれには既に気が付いていたが、サイの覚悟とここに来るまでの全力を見たら、とてもではないが止めることはできなかった。
その小さな背中からは、死んででも送り届けるという強い意志がひしひしと伝わってきた。
だからこそアツートは悔しくもあった。
こんな少年に命を懸けさせているのに、自分には何もできないのか、と……。
もうすぐドレイクの待っている屋敷の着くという頃には、アツートもサイに連れ出された時には既に気休めにしかならないと分かっているドレイクの治療を行う予定だったが、本気でもう一度救いたいと考えるようになっていた。
そしてついに二人の目の前に見覚えのある扉が姿を現した。
扉を開けるとサイは力尽き、その場に倒れ伏したが、アツートはすぐにサイの体を抱き上げ、そのまま屋敷の中へと入っていった。
一度荷物をその場に放り出してサイを彼の寝室のベッドに寝かせた後、容態を見る限り差し迫った状況ではないのを確認するとアツートはすぐに荷物を手に取り、ドレイクの元へ向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次にサイが目を覚ましたのは久し振りに窓を叩きつける風の音が聞こえない静かな夜だった。
サイにも既に手当てが施されていたのか、きちんとベッドに寝かせられていた彼は服が新しくなっており、あちこちに包帯や湿布が巻かれていた。
思っていたよりも体調は良く、ゆっくりではあるが歩くこともできるため、すぐにドレイクの寝室へと向かった。
そこには神妙な様子でドレイクを見守るアツートの姿があり、サイが入ってきたことに気が付くと視線を向けたが、特に言葉を発する事はなかった。
「やあ、見た所大分調子が良いようだね」
「私も治療して頂きありがとうございます。ドレイクさんの方は大丈夫でしょうか?」
サイがアツートにそう尋ねると、少し間を置いて首を横に振った。
「手遅れ……いや、それだと表現が違うな。今日この日まで生きていたという事実が奇跡だと言う方が正しい。とてもではないが、私が今からどうこうして今よりも状態が回復したり根治する事は不可能だ」
「そんなはずないです……。今日までずっとドレイクさんの体を治療し続けたんです! ずっと治るように、アツートさんが治してくれると信じてこれ以上悪化しないようにしてきたんです!」
「なるほど。そういうことか……。君が魔法を使ってドレイクの体調を維持し続けていたのか……。そうでなければ彼は当の昔に亡くなっているよ。それほどまでに彼の体はギリギリだったのだ」
それを聞いてサイは茫然とした。
サイにとってはドレイクがまた元気になることは当たり前のことだった。
だからこそ何の迷いもなくドレイクの治療を続けていた。
そうすればいつか自分の治療によって治るか、アツートが根治するための薬品を持ってきてくれると信じていた。
だがそれは叶わない願いだった。
アツートも悔しさを隠せないまま、ただドレイクを見つめることしかできなかった。
「僕が……僕がドレイクさんに治療を施したせいなのでしょうか?」
「いいや。君のせいではない。早々に私が諦めたからだ。治らぬ病だと知ってももっとできることがあったはずだった……。寧ろ君はよくやったよ……。そうでなければ彼が生きている内にもう一度私が会えることはなかっただろうし、これほど昔の自分を殴りたくもならなかっただろう」
自分を責めるサイに対してアツートは慰め、同時に自身の思いを語った。
アツートの所へ診察に来たドレイクの諦めた表情と、彼の妻を救えなかったという後悔の念が、アツートの中で小さな諦めの感情に変わってしまっていた。
勿論医者としての最善は尽くしていた。
だが大切な親友であったのにも拘らず、最善以上、不可能であると分かっていることに対して異を唱えるようなことはしなかった。
何処かでそうするべきではないと考えてしまった。
それが今日のより深い後悔を生む結果となってしまったことを十分理解していた。
だからこそサイに感謝はすれど、恨みなどは微塵もなかった。
寧ろアツートがこの事実を伝えてもなお『ドレイクの病気は治る』と信じているサイに、過去から今日までのアツートの思いの全てを乗せて深く謝罪した。
「まだ……ドレイクさんは生きています……。生きていてくれるのなら僕は僕ができる最善を尽くすだけです……」
サイはその謝罪に対しそう答えた。
心は揺らいでも、決意は揺らがなかった。
最後まで一緒に生きる。その決意だけは変わらなかった。
その答えに対し、アツートは小さな声でもう一度だけ謝罪し、深く頭を下げたままだった。
その後、アツートは自分の診療所へは帰らず、サイと共にドレイクの傍で日々を過ごした。
基本的にはアツートがサイの介護を行ったため、サイの負担は少しだけ減っていた。
だがサイはそれまでと変わらず、毎日治癒魔法をドレイクに使い続けていたため、体に掛ける負担はそれほど変わっていなかった。
ドレイクの元にアツートを連れてきた日の翌日以降、サイはアツートの事をやはり『様』を付けて呼ぶようになった。
2日ほどはアツートもサイの言葉を訂正していたが、あまり強くは言わず、途中からは訂正することも止めた。
また、サイは以前までと同様に振る舞っていたため、落ち着きを取り戻したように見えていたが、ドレイクの傍にいる時は明らかに今までとは反応が違った。
サイがドレイクに治療を施す前と後の表情が、明らかに何処か悟ったような、諦めたようなそんな風に思わせる虚空を眺めるような表情になっていた。
あの日以降、治療を施している間もそうでない時もドレイクは意識を失ったままだった。
それでもいつか目を覚ます日を待っていた。
「やあ。久し振りだね。サイ」
だからこそ、その日は突然だった。
ドレイクが目を覚まさなくなってから数日ほど経ったある日、いつものようにサイが治療を施した後、ドレイクは突然目を覚ましてサイにそう話しかけた。
あまりにも突然だったためか、サイは感情を表現できずにいた。
ただ静かにドレイクの元に歩み寄り、ドレイクの手を取った。
「おはようございます。ドレイクさん」
「おはよう。いきなりこんなことを言うのはどうかと思うかもしれないが……。私は君に出会えて幸せだったよ」
力無く静かに話し出したドレイクの声はとても優しく、久し振りにサイの心を落ち着かせた。
「私の人生はそのほとんどが後悔で埋め尽くされていたと思うよ……。だが君に出会ってから君と楽しい日々を過ごしたのはたった一節あるかないかだったが……。それでも私の中では生きてきた中で最も幸せだった。それこそ、それまでの全ての人生よりも長い一節だったよ……」
思わずドレイクの手を握るサイの手に力が入るが、言葉は発さなかった。
口に出してしまうと今すぐにでも消えてしまいそうな気がしたからだったが、サイの思いを知ってか知らずかドレイクはそのまま話づけた。
「私の心残りと悲しみを埋めるために私は君の生き方を決めつけた。はずだったが……君と出会ってからは驚きの連続だった。沢山の感動や幸福もくれた……。だからこそ君が私と出会い、魔法に興味を持ってくれて、まさか魔導師になってくれるとは思わなかった。身勝手かとは思うが、君のこれからの人生は私に縛られずに、自由に生きて欲しい。まあ、私は君にその自由を教えずに手放そうというのだから酷い奴だが、こればかりは許してほしい。それでも君は自分のために生きて欲しい」
「嫌です」
短いが明確な意思表示だった。
それを聞くとドレイクは少しだけ笑ってみせた。
「君はとても誠実で真面目な子だ。なのに私の事になると途端に我儘になる。それはとても嬉しい事だが、君はもう私などとうの昔に越えた天才だ。だからこそ、君がこれから先、変えてゆく世界を見てみたかったが……その世界を想像しながら逝くのもまた楽しいと思うよ」
「そんなこと言わないでください……。僕にはドレイクさんが全てなんです……」
「全てではないよ。私がそう盲信させたのだ。いつか君が抱いたように、この屋敷の外を知りたいという好奇心の方が大事だ。だからこそ今は君を、サイという一人の少年を息子として愛しているし、とても優秀でそして思慮深い一人の人族としても愛している」
言葉を続ければ続けるほど、ドレイクがもう助からないのだろうという事を理解していった。
あまりにも悲しくて、伝えたかった感情や言葉が沢山溢れ出して何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
混乱し過ぎたせいなのか、涙がこみ上げるような気持ではなかった。
ただただ目の前から消えないでほしかった。
「それに……この時になって更に君に学ばせてもらったことがある」
「学ばせてもらったこと?」
「魔法には思いが宿るようだ……。君が私が意識を失っていた時に使った魔法には、とても暖かな、私の無事を願う痛い程の君の心が伝わってきた。それが伝わってくれば少しでもよくなりたいと私自身も思えるほど元気をもらえたよ」
「本当ですか!? なら……」
「意識は取り戻せたが……。残念ながら私の体はもう限界のようだ。自分の体から自分の魔力がずれて動いているのが見えてしまったのだよ。まあ、おかげで体の痛みも随分と感じなくなったがね」
困った表情で笑いながらそう言うドレイクの表情とは対照的に、サイの表情は少しずつ曇っていった。
言葉にならない声で嫌だと呟くように言い、首を横に振りながらゆっくりとドレイクに抱き付いた。
ドレイクはゆっくりと腕を動かし、サイの背中を撫でてあげた。
「サイ。すまないがもうお別れのようだ……」
「嫌だ……嫌だ!」
「別れはどんな者にも平等にやってくる。それがただ早いか遅いかだけの差だ」
「まだ……ドレイクさんの誕生日をお祝いしてない……! まだ教えてもらってない事も沢山あるのに……!」
「私が教えることはもうできないが……。大丈夫だ。君ならこれからの出会いや経験を全て味方にできるはずだ。それよりも私も君に一つ教えて欲しい」
「……何ですか?」
「君が見ている精神世界を見せて欲しい」
そう言ってドレイクは魔力をサイと触れている背中に集中させた。
するとサイにもドレイクの心のような、感情のようなうまく表現できない自分の考えとは違う意識が自分の傍にある感覚を覚えた。
直感的にサイにはそれがドレイクであると感じ取れ、自分の思いを諦めて深く、しっかりと精神世界を意識した。
「おお……。君にはこれほど鮮明に魔素が捉えられているのか……。美しい、とても美しい」
「僕の世界はそれほどに美しいんですか?」
「君には自分の世界が当たり前になってしまったかもしれないが、あの時私が見せた世界の2倍か3倍の魔素が捉えられているのだよ。よかった……少しだけでも君の事を知ることができた……」
「もっと沢山知って欲しいです」
「そうしたいところだが、もう時間だ……。もっと体を大事にしなさい……」
「嫌だ」
「自分の事を愛してあげなさい」
「嫌だ!」
「もっと素直になりなさい」
「嫌だ! 嫌だ……!!」
『沢山泣きなさい……。いつかこの日の思いが笑顔でいられる明日になるために……。忘れないために……』
その言葉は確かに耳にではなく、直接心に語りかけてくるような声だった。
そばにある意識が何処かへ行ってしまう感覚を覚えてしまった。
それを感じ取ってしまい、もう溢れ出るその感情を押し殺すことはできなかった。
初めて、声を出して泣いた。
言葉が、感情が、思いが、滝のように溢れ出て、泣いた。