竜人と少年 1
冷たい床の温度と酷い空腹感、そしてどこか遠い所から届く光が視界に入り、少年は自分が目覚めたことに気が付いた。
形式上、自分の体を包んでくれている紙と見まごうほどの薄い布は、ただその身体が汚れないようにしているだけで、暖かさを分けてはくれない。
既に何日ほどしっかりとした食事を摂っていないのかもよく覚えていない。
そんな目が覚めたはずなのにぼぅっと集中できない頭で、少年は今日もいつもと同じことを反芻するように思った。
『また……目が覚めてしまった……』
少年の齢は恐らく片手で数えられる程だろう。
そんなまだ世間も知らないような少年が、何をどうすれば目覚めると共にそんなことを考えられようか。
だが、彼はいつも目が覚めれば思うことだった。
思春期の若者が思い描く死とはとても崇高で、美しい物を連想しているだろう。
だが、この少年はそれよりも若く、まだ知っている事も少ないはずだが、望んでいるのはそんな崇高な死ではなかった。
その歳でその少年は既に死ねばどうなるかも認識していたが、少年にとって死とは恐らく、彼の知りうる中で最大の安らぎだった。
「わざわざこのような所まで足を運んで頂き有難い次第です! ほら31番! さっさと来い!」
そんな誰かに媚びへつらうような腰の低い声が聞こえたかと思うと、少年の体はグンッと引っ張られ、一瞬宙に浮いた。
少年の首には鉄製の首輪がはめられており、そこから繋がった鉄の鎖がジャラリと音を立てた。
口には猿轡が、両腕と両足には首と同じように錠がはめられており、それぞれ腕同士、足同士の錠を鎖が繋いでいる。
少年の首輪の鎖が引っ張られたことによって今までピクリとも動かなかった少年は、初めてヨロヨロと立ち上がり、声の主と少年とを隔てる鉄柵を挟んだ最も近づける位置へと歩いた。
「どうです? 少し痩せこけてますが充分健康体なのでお好きなように使うことができますよ!」
声の主はそう言い、虚ろな瞳で立つ少年へ鋭い爪で指差して少年について説明した。
少年は奴隷だった。
物心ついた頃からこの世界しか知らず、思い出せる記憶はどれも思い出したくないものしかない。
そんな少年の顔は表情というものがなかった。
その目の前にいる二人の前にただ虚ろに立ち尽くすだけだった。
そんな非人道的なことを誰がこんな少年にできるだろうか、普通ならそう考えるだろう。
だがもし、これが人ではなく、家畜のような別の生き物ならば多少なりはそれに異を唱える者がいたとしても、大半の者は可哀想という一言で済ませるだろう。
つまり人でなければいいのではなく、自分とは違う種のものならその感じ方も変わってくる。
例えば、今少年の前にいる二人が人間ではなければ話はまた変わってくる。
少年の前には二匹、否、二人の竜人が立っており、一匹の少年について話していた。
「この人間にしよう。お幾らになるだろうか?」
一人の竜人がもう一人の竜人へとそう聞いた。
「有難うございます! これはまだ若いので金貨20枚程になります」
その竜人はそう答え、気が変わらない内にと声を掛けながら少年のいる檻よりも奥の部屋へと移動していった。
それから10分と経たない内に二人は少年の元へ戻ってきて、今度は少年の入っている檻の鍵を開けた。
「それでは今後ともご贔屓にお願いしますね!」
奴隷商を行っていると思われる、厳つい竜人はその風体に見合わないえらく低い腰と、ヘラヘラとした似合わない笑顔でもう一人の竜人にそう言うと少年を乱雑に引っ張り出し、そのまま首輪の鎖の先端を渡した。
少年を購入した竜人は一目で紳士であると分かるような黒いマントに黒い帽子を被り、人とは明らかに違う前に長い顎の下に白い髭を生やしていた。
その奴隷商の竜人とは違い、誰から見てもかなり高齢であることが分かるほどとても落ち着いた雰囲気も放っていた。
その竜人は鎖を受け取ると帽子を取り一つ小さな会釈をし、少年を抱き抱えて光が差し込んでいた出口へと歩いて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
少年とその竜人はそのまま彼の家であるかなりの豪邸へと辿りついた。
家の中に入るとその竜人は少年をそっと降ろし、紳士用の帽子とマントを脱いで、木の枝上の洋服掛けに帽子とマントを預けた。
そこで小さく体を伸ばすと竜人は少年の前に立ち、少年と同じ目線まで腰を下ろした。
それから彼の錠と猿轡を全て外し、優しく微笑んで見せた。
「初めまして。私はドレイクだ。君の名前を教えておくれ」
その高齢の竜人はドレイクと名乗り、少年の名前を聞いた。
少年は虚空を眺めるような虚ろな瞳で立ち尽くすのみで、人形のように動くことすらしなかった。
ドレイクは少年の頭を優しく撫でてあげるが、やはり人形のようにされるがままだった。
そんな少年を見てもドレイクは決して何も言わず、ただ少年の手を引いて居間へと移動した。
玄関から居間へ移動するのも長い廊下を歩かなければならないほど広い屋敷だが、この屋敷には不思議なほどに人の気配がなかった。
豪邸というものは部屋の数が多く、保管している物の数も多いため、基本的には召使いというものを雇うのが一般的だ。
しかし玄関から館へ入った時も、廊下を歩いている最中も、居間に到着してからもただの一人も姿を現さなかった。
「ただいま」
そのまま広い居間の端の方まで行くとドレイクは少年以外の誰かにそう言った。
だが相変わらずその場に居る者はドレイクと少年だけだ。
そんな誰へ投げかけたのか分からない言葉は、ドレイクの視線の先にある一つの写真立てへだろう。
その写真立てにはドレイクともう一人、若い頃はとても美しかっただろうというのが一目で分かるような、歳老いてなお美しい女性の竜人の姿がその写真のドレイクの横に写りこんでいた。
「さあ、おいで。こんなに痩せ細ってしまって……お腹が空いているだろう」
そう言うと、ドレイクはその写真への挨拶を終えるとすぐに居間を出てまた移動した。
そのまま二人が移動したのは台所だった。
豪邸の中ではそこまで大きくはない、それどころか一般の家庭にでも普通にありそうなサイズの台所に入ると、そこには私たちが普段よく目にするような一般的な台所の光景と、見たこともないような不思議な機械や道具の並ぶ到底台所とは呼べないような光景が混在していた。
ドレイクはそのまま入口から入ってすぐ横にある冷蔵庫のような機械の前へ移動し、扉を開けた。
ブシューという気圧差の音が聞こえ、重々しく扉が開くとそこには様々な食料が保管してあった。
見た目こそはよく見る冷蔵庫なのだが、それでも古い20世紀時代の電化製品を思わせるような分厚さで、冷蔵庫の上側にはエレキテルでも生成できそうなごちゃごちゃとした構造の装置がほとんどむき出しで動いていた。
内側も見た目こそは古いが、冷却効果は絶大なのか扉の前はとても涼しくなった。
そのままドレイクは中に入ってたトマトのような丸い、ドレイクの手で拳大の大きさの果実を二つ取り出した。
内一つをそのままはい、と少年に手渡す。
しかし少年は受け取ろうという動作はしなかった。
それを見てドレイクは再びニッコリと微笑み、一度片手でその実を両方とも持ち、目線を同じ高さにすると少年の手を人形のように物を受け取るような仕草になるように動かし、実を一つ手渡した。
ドレイクにとっては片手で持てる大きさだが、少年にその実は大きすぎる程で、両手で持ってなんとか持てるというほどだった。
「食べてごらん。私が大好きな果物だ」
そう言われて今まで人形のようだった少年は初めてピクリと反応した。
少年には痛みと恐怖以外の記憶はない。
唯一知りうるのは奴隷商たちが時折、自分たちに向けて発していた言葉ぐらいだ。
それの意味自体は少年にはよく分かっていないが、『食べろ』と言われた時は渡された物を口にしなければならないという意味で捉えていた。
そこでようやく少年は初めて自分から動いた。
恐らく初めて見たであろうその果実を少年はなんの躊躇も戸惑いもなく、すぐに齧り付いた。
「あう!?」
それを言葉と捉えるかどうかは難しいが、少年は果実を口にした瞬間反射的に、本能的にそう口にした。
その一瞬だけ動きを止めると少年は我を忘れたかのように果実に貪るように齧り付いた。
それは少年にとって今まで一度も感じたことのないものだった。
果実の水々しい果肉の甘さが口内に広がり、初めてもっと食べたいと思った。
少年の記憶にある食物とは味の無い、よく分からない物だったからこそ、少年の心の中には人生で初めての感情が湧き上がった。
『おいしい』
しかし少年にはそれが頭では理解できていなかった。
ただ本能的にそう感じただけであり、人生で初めての内側から湧き上がるような興奮を表現することができなかった。
分からない、ただ本能の赴くままにその果実を息も忘れて貪っていた。
少年が常に身に付けている薄汚れた安物の服はあっという間にその果実の果汁で濡れていったが、少年にはそんなことなどどうでもよかった。
そしてついに少年の腕に収まりきらないほどの大きさもあった果実を少年はあっという間に平らげ、初めて生き生きとした人間のように瞳を輝かせた。
「ハハハハハ……。そんなに美味しかったかい?」
少年にその言葉の意味は分からない。
だがそこで深く腰を落として嬉しそうに笑うドレイクと、人生で初めて笑った少年の幸せそうな姿がそこにはあった。