第99話 すれ違う思いはすぐそこに
第96話 すれ違う想いは、すぐ隣に
朝の医療棟は、相変わらず慌ただしい。
実習前の準備で廊下を行き交う学生たちの白衣が、波のように揺れている。
俺は器材室から戻る途中、少し先を歩く二人の背中を見つけた。
テオとエマだ。
テオは両腕いっぱいに資料を抱えている。いつもより慎重な足取りなのは、たぶん中身が食べ物じゃないからだろう。
一方のエマは、歩きながら資料に目を落とし、的確に指示を飛ばしている。
「だから、テオ。そのページじゃなくて、前の症例データ」
「え、あ、あれ? こっち?」
「逆。逆よ。どうして毎回そうなるの」
いつもの光景だ。
口調は鋭いが、エマの歩調はテオに合わせている。置いていこうと思えば、いくらでもできるはずなのに。
テオは苦笑いしながら、言われた通りページをめくった。
「いやー、エマが一緒だと頭が追いつかなくてさ」
「言い訳にしては雑すぎるわ」
そのやり取りに、俺は思わず口元を緩める。
――完全に両片思いだな。
ただし、本人たちはその事実にまったく気づいていない。
「ハヤトにぃに!」
背後から、元気な声が飛んできた。
振り返ると、エレナが軽やかな足取りで駆け寄ってくる。
「どうした、そんなに急いで」
「えへへ。エマさんとテオさん、また一緒だったから」
エレナは、すでに前方の二人を見ていたらしい。
にやにやと楽しそうな表情を隠そうともしない。
「今日も仲良しだねー」
「仲良し、ね」
俺は視線を前に戻す。
テオはエマの横顔をちらちらと見ている。
話しかけたいのに、きっかけを探しているような、落ち着かない視線だ。
一方のエマはエマで、テオのミスを逐一指摘しながらも、彼の様子を気にしているのがわかる。
資料を直す手が、妙に優しい。
「……エレナ、ああいうの、どう見える」
「うーん?」
エレナは少し考える素振りをしてから、即答した。
「好き同士なのに、なんで手つながないのかなって思う」
「直球だな」
エレナらしい答えだ。
「大人はね、考えすぎるんだよ」
「俺たちも大人だけどな」
「ハヤトにぃには別!」
即断だった。
「ハヤトにぃには、考える前に動くでしょ」
「……それ、褒めてるのか?」
エレナはえへへ、と笑っただけだった。
実習室に入ると、エマとテオは自然と隣同士の席に座った。
空いている席はいくらでもあるのに、だ。
エマがペンを落とした瞬間、テオがすぐに拾って差し出す。
「あ、ごめん」
「ありがとう……って、だから近いって言ってるでしょ!」
エマが赤くなって声を荒げる。
テオは慌てて椅子を引いたが、耳まで赤い。
完全に意識している。
俺はエレナと目を合わせた。
エレナは親指を立てて、小さく頷く。
――行くか。
実習前の待機時間。今なら、少し突ける。
「なあ、テオ」
「ん? なに、ハヤト」
「エマと一緒だと、調子いいな」
「え!? そ、そうかな!」
露骨に動揺する。
「ミス減ってるぞ。さっきの症例説明も分かりやすかった」
「ほ、ほんと? いや、まあ……エマがちゃんとしてるから……」
視線が泳ぎ、最後はエマに向いた。
エマは資料から目を離さず、しかし耳は真っ赤だ。
「エマも」
「なによ」
「テオと組むと、説明が丁寧になる」
一瞬、手が止まった。
「……気のせいよ」
「へぇ」
俺はそれ以上、踏み込まない。
追い詰める必要はない。背中を押すだけでいい。
エレナが、俺の袖を引いた。
「ねえ、ハヤトにぃに」
「どうした」
「二人とも、今ドキドキしてるよ」
小声なのに、やけに核心を突く。
「見てて分かるのか」
「分かるよ。だって、好きな人の前だもん」
当たり前のように言う。
実習が始まると、二人は互いを意識しながらも、しっかりと役割をこなした。
声を掛け合い、確認し合い、必要な処置を迷わず進める。
その連携は、もう答えみたいなものだった。
終了後、エマが小さく息をつく。
「……今日は、やりやすかったわね」
「そ、そう? 俺も……なんか、安心した」
二人の視線が絡み、すぐに逸れる。
その瞬間、エレナがぱっと手を叩いた。
「はい! じゃあ次は二人でお昼行ってきたら?」
「え!?」
「な、なんでそうなるのよ!」
エレナは首を傾げる。
「だって、相性いいんだもん」
「そ、それとこれは……!」
エマが言いかけたところで、俺が口を挟んだ。
「実習の振り返り、兼ねてな」
「ハヤトまで!?」
テオは顔を真っ赤にして、エマを見た。
「えっと……嫌、だったら……」
「……嫌じゃないわよ」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。
テオの表情が、一気に明るくなる。
「じゃ、じゃあ行こうか!」
二人は並んで廊下を歩いていく。
さっきより、少し距離が近い。
その背中を見送りながら、エレナが満足そうに頷いた。
「うん、うまくいくね」
「確信してるな」
「だって、二人とも優しいもん」
俺は軽く息を吐いた。
「……俺たちは?」
「え?」
エレナが振り向く。
「冷やかす側、続けるか」
「もちろん!」
満面の笑みだった。
医療棟の窓から差し込む光が、二人の背中を照らす。
すれ違っていた想いは、もう同じ方向を向き始めている。
俺はそれを確かめてから、エレナと並んで歩き出した。




