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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第97話 今日で俺たち、見習い卒業します。

 朝の更衣室は、いつもより静かだった。

 話し声はほとんどなく、聞こえるのは衣擦れの音と、遠くの廊下を歩く足音だけだ。窓から差し込む朝の光が床に淡く伸び、その中に立つ自分の影を、俺はしばらく見下ろしていた。


 何度も立った場所だ。

 試験前も、実習前も、この更衣室で制服に袖を通した。特別な感情を抱いたことは、これまであまりない。ただ、その日やるべきことを思い浮かべ、自然と体を動かしてきただけだ。


 だが今日は、違う。


 壁に掛けられた制服に目を向ける。

 グレーのジャケット、赤いベスト、黒いズボン。医療者の卵として過ごした四年間、何度も袖を通してきた服だ。


 講義で眠気と戦った日も、初めて実習に入った日の緊張も、夜明け前の当直補助で足が棒のようになった感覚も、この制服と一緒だった。失敗した記憶も、うまくいった瞬間も、すべて同じ色の中に積み重なっている。


 今日で終わる。

 医療者の卵としての時間が。


 胸の奥が、わずかに引き締まる。重苦しさではない。気を引き締めるための、静かな力だ。

 それでも足は止まらず、自然と制服に手が伸びた。


「ハヤト、早いな」


 声をかけてきたのはエマだった。

 彼女はすでに制服を整え、無駄のない動きで身支度を終えている。表情はいつも通り落ち着いていて、感情を表に出さない。


「習慣みたいなものだ」


 そう答えると、エマは小さく息を吐いた。


「らしい答えね」


 短くそう言って、俺の制服に一瞬だけ視線を落とす。その視線には、言葉にしない理解が含まれていた。


「この服も、今日まで」


「ああ」


 それ以上は言わなかった。

 言葉を重ねなくても、同じところに立っていることは分かる。


「おはよう! 二人とも!」


 扉が勢いよく開き、テオが入ってきた。

 声はいつも通り明るいが、視線は落ち着きなく動いている。興奮と緊張が入り混じっているのが、隠しきれていなかった。


「なんか緊張してきたんだけど! いや、別に怖いわけじゃないよ!? ただ、こう、節目ってやつがさ!」


「声が大きい」


 エマが即座に言う。


「抑えて。もう子どもじゃないんだから」


「わかってるって!」


 そう言いながらも、テオは笑っていた。

 空気が張り詰まりすぎないよう、無意識に場を和らげている。昔から変わらない、こいつなりのやり方だ。


 時間になると、更衣室の空気がさらに引き締まった。

 旧四年生――すでに医師として現場に立つ先輩たちが入ってくる。


 彼らが着ている緑を基調とした制服は、何度も見てきたはずなのに、今日は別物に見えた。落ち着きと重みを備えた色。無駄のない形。


 あれを着る。

 それだけのことなのに、胸の奥で何かが確かに動く。


 名前が呼ばれ、一人ずつ前に出ていく。

 形式は簡素だ。だが、その簡素さが、この儀式の意味を際立たせていた。


 順番が回ってきた。


「ハヤト・キサラギ」


 呼ばれた瞬間、俺は一歩踏み出した。

 迷いはない。後ろを振り返る必要もなかった。これまでの時間は、すでに体の中にある。


 グレーのジャケットを脱ぐ。

 赤いベストから腕を抜いたとき、これまで積み重ねてきた日々が、静かに離れていくような感覚があった。


 初めて患者の前に立った日の緊張。

 判断に迷い、先輩の背中を追い続けた時間。


 それらが消えるわけじゃない。

 ただ、次の段階へ移るだけだ。


 差し出されたのは、緑のジャケットとベストだった。

 手に取ると、わずかに重い。布の重さ以上に、意味の重さが伝わってくる。


 守られる立場から、守る立場へ。

 判断を委ねられる側から、判断を下す側へ。


 袖を通すと、背筋が自然と伸びた。

 無意識の動きだった。視線が前を向き、足元が安定する。


 鏡に映る自分を見る。

 顔は変わっていない。立ち方も、大きくは変わらない。


 それでも、はっきりと違う。

 覚悟の分だけ、立っている位置が前に出ている。


 俺はもう、見習いとして守られる立場じゃない。

 これからは、判断し、支える側に立つ。


 横を見ると、テオが自分の姿を鏡で確認していた。


「……これ、俺で合ってる?」


「合ってる」


「なんか、急に責任が見える気がするんだけど」


「見えてるなら上出来」


 エマの言葉に、テオは苦笑いした。


「だよね。でもさ、ちょっと嬉しい」


 その声は、いつもより静かだった。

 軽さの奥に、覚悟が滲んでいる。


 全員の制服交換が終わると、簡単な拍手が起きた。

 派手さはない。ただ、確かな区切りだった。


 更衣室を出ると、廊下の先にエレナがいた。

 俺の姿を見た瞬間、足を止める。


「……あ」


 小さく声を漏らして、じっと見つめてくる。


「どうした」


「ううん。びっくりしただけ」


 エレナは近づいてきて、俺の前に立った。


「なんかね、急に遠くなった感じがして」


「遠くはなってない」


「ほんと?」


「ああ」


 そう答えると、エレナは少し安心したように笑った。


「でも、すごいね。ハヤトにぃに、お医者さんへの服だ」


「まだ道の途中だ」


「それでもだよ」


 真剣な顔で、まっすぐに言う。


「この服、守る服でしょ?」


「ああ」


「じゃあ、似合ってる」


 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。

 誰かを安心させられるなら、この選択は間違っていない。


 中庭に出ると、緑の制服を着た俺たちが並んでいた。

 同じ色なのに、同じには見えない。


 それぞれが、それぞれの覚悟を着ている。


 俺は一歩、前に出る。

 もう、医療者の卵じゃない。


 ここからが、本当の始まりだ。

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