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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第96話 見てないのに可愛いと確信してる俺は多分もう手遅れ

 ダンスパーティ当日の朝、病院棟はいつもより静かだった。


 正確に言えば、静かに“整えられている”空気だった。

 廊下は丁寧に磨かれ、ナースステーションの掲示物も最小限に整理されている。今日は外部からの来客も多く、医療者側も無意識に背筋を伸ばしているのが分かった。


 そんな中で、俺はというと――妙に落ち着かなかった。


 理由ははっきりしている。

 エレナのドレスだ。


 まだ見ていない。

 どんな色かも、どんな形かも、知らない。


 それなのに、頭の中では勝手に想像が始まっている。


 白すぎるのは、きっと違う。

 病院の照明に溶け込んでしまう。


 淡い水色か、薄いクリーム色。

 あの子の肌に、無理なく馴染む色。


 胸元は控えめでいい。

 エレナはまだ十六歳だ。背伸びはさせたくない。


 その代わり、スカートは少しだけ揺れるといい。

 歩くたびに、楽しそうに動くくらいがちょうどいい。


 ――と、そこまで考えて、俺は額を押さえた。


「……何を考えてるんだ、俺は」


 患者だ。

 大切な患者で、家族同然の存在で。


 仮の婚約者、という立場はあくまで方便だ。


 分かっている。

 分かっているのに、想像が止まらない。


 


 午前中の回診を終え、カルテを確認しながらナースステーションに戻る。


「今日は落ち着いてますね」


 看護師の一人がそう言って微笑んだ。


「ああ。こういう日ほど、油断しないように」


 口にした言葉は、いつも通りだった。

 だが、意識のどこかで、ドレスの裾がひらりと揺れている。


 自分でも呆れる。


 医療者として、集中力を欠くわけにはいかない。

 俺は深く息を吸い、思考を切り替えた。


 


 昼前、病室の前で足を止める。


 ノックする前から、中の様子が分かった。

 聞き慣れた笑い声。

 少し弾んだ、期待を含んだ声。


「はーい!」


 ドアを開けると、エレナがこちらを振り返った。


 今日はいつもより髪が整っている。

 それだけで、胸の奥がざわついた。


「体調はどうだ」

「ばっちり! 今日はね、先生にも褒められたよ」


 それは本当に良かった。

 心臓の状態も、数値は安定している。


「無理はするな。人が多いからな」

「わかってる!」


 元気よく返事をするエレナを見て、俺は少し安心した。


 だが――視線が、どうしても服装にいく。


 まだ、ドレスじゃない。

 当たり前だ。今は病室だ。


 それでも、頭の中では勝手に重ねてしまう。


 この肩のラインに、どんな布が乗るのか。

 この身長に、どれくらいの丈が合うのか。


「……ハヤトにぃに?」


 不意に名前を呼ばれて、我に返る。


「どうした」

「さっきから、ぼーっとしてる」


 ……まずい。


「少し考え事をしていただけだ」

「ふーん?」


 疑うような目。

 だが、すぐににこっと笑った。


「ねえ、にぃに」

「なんだ」

「今日はね、内緒があるの」


 心臓が、わずかに跳ねた。


「内緒?」

「うん。だから、聞いちゃだめ!」


 聞くなと言われると、想像が加速する。


 ――間違いない。

 ドレスだ。


 


 病室を出た後も、俺の頭は完全に切り替わらなかった。


 中庭を歩けば、正装に身を包んだ学生たちが目に入る。

 光沢のある布、丁寧に結ばれたリボン、靴音。


 そのすべてが、エレナの姿を連想させる。


 もし、あの子が会場に立ったら。

 背伸びをして、少し緊張した顔で。


 周囲の視線に気づいて、困ったように笑う。


 ――危険だ。


 完全に、保護者の領域を越えかけている。


 俺は立ち止まり、深く息を吐いた。


 エレナは患者だ。

 そして、俺は医療者だ。


 その線は、絶対に越えない。


 だが。


 少女が初めての華やかな場に立つ。

 それを想像するくらいは、許されてもいいだろう。


 


 夕方、病院棟の灯りが柔らかくなる。


 会場の準備が進んでいるのだろう。

 遠くから、かすかに音楽の調整音が聞こえた。


 俺は窓際に立ち、外を眺める。


 ドレスの色は、やっぱり淡い方がいい。

 光に反射して、目立ちすぎない色。


 でも、エレナはきっと、どんな色でも似合う。


 それが問題だ。


 可愛いと確信している時点で、すでに負けている。


 


 夜。

 病室を訪ねると、エレナはもう準備を終えた様子だった。


 だが、ドレスは見えない。

 きちんと隠されている。


「もう寝る時間だ」

「うん。でもね」


 エレナは小さく声を潜めた。


「にぃに、ちゃんと来てね」

「ああ」


 即答だった。


「約束だよ」

「約束だ」


 それだけで、十分だった。


 


 病室を出て、廊下を歩く。


 まだ見ていない。

 それなのに、胸の中にははっきりとした像がある。


 きっと、明日。


 エレナは、自分でも気づかないほど自然に輝く。


 俺は、それを遠くから確認して、安心するだけだ。


 倒れないように。

 無理をしないように。


 ――それが、俺の役目だ。


 見ていないドレスを、これ以上想像するのはやめよう。


 そう思いながら、

 俺はまた一つ、深く息を吸った。


 明日も、誰も倒れないように。

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